08
「天駆ける竜より美しく、地吼える虎より気高い、海渡る鬼より神秘的な沼地の蝶こと大谷さんおはようございます」
「朝から絶好調よな。後ろを見てみよ、真田が滑稽な顔でぬしを睨んでおる」
「虎」の言葉に反応するは丁度ジョセフィーヌ三世と大谷に声をかけようとした真田。老虎が病に伏せ、光通さぬ水底へと沈んで行く若虎を揶揄したのだと思ったのだろう。苦々しげにジョセフィーヌ三世を睨む真田に、ジョセフィーヌ三世は視線すら寄越さなかった。
「残念ながらこの双眼は大谷さんの御身を映す仕事で大忙しです。背中に目があれば真田さんもチラ見出来るのですが」
「背中に目があってもチラ見とはな。前面の目でわれを映し、残りの目でなにを見やる」
「鼻血乙女の秘密です」
「さよか」
大谷相手でもジョセフィーヌ三世の言葉は、核からずれた曖昧な羅列でしかない。真意を見せず、語らず。鶴ですら視えぬ心。
それでも、ジョセフィーヌ三世の語る大谷への気持ちを、誰も疑えずにいた。真っ直ぐな瞳、詰まることのない賛辞、ほとばしる愛。胡散臭くもありながら、生まれたばかりの雛のような愚かしい純粋さすら感じた。
自分に用事があるのだと微塵も思わなかったのだろう。言葉のとおり、本当に振り向く気配を見せないジョセフィーヌ三世に、真田は声を荒らげた。
「っジョセフィーヌ三世殿! 大谷殿!」
「大谷さんを後に回すとは何事ですか。鼻からアツアツのうどんを食べさせますよ」
「も、申し訳ありませぬ」
「さん、はい。やり直しを要求致します」
「お、大谷殿! ジョセフィーヌ三世殿!」
「ところでジョセフィーヌ三世って誰ですか」
やりたい放題である。
ジョセフィーヌ三世のペースに飲まれる真田に、大谷が助け舟を出した。
「真田虐めも程々にしやれ。見かけによらず打たれ弱い脆弱者……いやいや子猫のようなものよ」
泥船であったが。
「真田さん涙目ですね」
「泣いておりませぬぁああおおやがだざぶぁあああ」
「号泣ではございませんか。仕方ないですね、ガン見してさしあげます。いかがですか、真田さんの恥ずかしい姿を余すことなく眺めておりますよ」
「ざずげぇええ……」
「こんな場面で俺様呼ばないでよー」
「ご安心を。厭きてきたとこですので」
「号泣している真田を余所にわれを見つめるな。……何故鼻血を出す」
「恥じらう大谷さんの愛らしさに私の心の臓がバーニングです。バーニングハートブレイクです。鼻から流れ出ているのは炎(ほむら)の名残のようなものだと考えていただければ合点がいくでしょう?」
手際よくちり紙を取り出す猿飛に礼をいい、鼻血を拭う姿を尻目に、大谷は真田に向き直る。何か用件があったはずだ。
問われた真田は涙を拭い、ぱぁと表情を輝かせた。忙しい人だと泣かせた張本人と共犯者は思う。
「そうであった! 実は長曾我部殿が」
「えーっと、こんな状態の旦那に言いづらいんだけどさ。鬼の旦那がお土産に持ってきた草餅、毛利の旦那が全部食べちゃったよ」
「!!!!?」