■26
「あ」
「あ、どうも。お疲れ様です、七海さん」
警視庁の廊下を歩いていたら、目の前から工藤さんがやってきた。
…「七海さん」?
「あれ?工藤くんと七海ちゃんて名前呼ぶような仲だったの?」
工藤さんの横にいた渉さんが私も感じた疑問を投げかけてくれた。
「あぁ、だってわりと近いところに『佐藤刑事』が2人いるんで便宜上」
まさか年上の佐藤刑事に美和子さんて言うわけには、と工藤さんは苦笑いしながら言った。
まぁ…確かに一理、あるような、ないような。
「今日はどうされたんです?」
呼び方に特に拘りがあるわけでもない私は、そのまま話を進めることにした。
「この間あった奥多摩の殺人事件の聴取に呼ばれたので」
この後用があると慌ただしく出て行った渉さんの背を見送りながら、工藤さんが答えてくれた。
警視庁のみならず、警察庁でも顔パスという噂もある迷宮なしの稀代の名探偵工藤新一。
…の、力を惜しみなく借りなければいけないほど犯罪が起こっているというわけで。
渉さんが慌ただしく出ていくだけあり、捜査一課はいつも大変だ。
「そう言えば七海さんは、先日キッドに催眠ガスを嗅がされて体調崩されたと聞きましたが、その後大丈夫ですか?」
慌ただしいはずの一課でも噂話はしているようで、工藤さんも先日の一件については既に耳にしていた。
「ガス、では、ないんですけどね」
少し体に残ってしまったみたいで、と私が言うと、
「なら今ごろキッドは後悔してますね」
工藤さんはキッドを知っているかのような口調でそう言った。
「後悔ですか?」
「えぇ。アイツは、特に女性には甘いんで」
知りませんでした?と目を大きくして工藤さんは聞いてきた。
「甘い、というか、キザだなぁとは思います」
「ははっ!確かに!」
あの予告状にしろ、普通ならあんな文言思い浮かばないだろう。
日常的に使っているのか、それとも
ー月が見える場所でー
何故その時脳裏を過ぎったのかわからない。
でもフッとその言葉を思い出した。
「変なこと聞いていいですか?」
「どうぞ?」
「工藤さんが、月が見える場所で会えて嬉しいと思うのはどんな人です?」
「へっ?」
私の唐突な質問に、工藤さんは声を裏返した。
…まぁ、気持ちはわからなくもない。
「誤解のないように言いますが、プライベートなことではなく」
「あ!いいです、いいです!」
「え?」
「妻から女性のそういう話には深く突っ込まないよう釘を刺されていて、」
手のひらを私の方へ向け、困ったように工藤さんは笑った。
「…奥さんに弱いですね」
その私の言葉に、
「まぁ…、はい、そうですね」
工藤さんは頷きながらあっさり認めた。
「俺はこういう性分だから、どこにでも行ってしまうんです。でも俺がどこに行っても、…どんなに時間がかかっても、アイツはずっと待っててくれるんですよ。そりゃー、文句も言われるけど、それでも絶対待っててくれるんです。俺のそんな性分につきあってくれるなら、他は弱くいてもいいかな、と思って」
彼の笑顔の向こうに、道着を着用して構えをしている毛利蘭の姿が思い出された。
…あの米花の女拳士と全国区で名を馳せた彼女もすっかり良い奥さんをしているようだ。
まぁもっとも、自分に弱くいてくれる夫でなければあの拳が容赦なく繰り出されそうだし、良い奥さんにさせてもらっているとも言えるのかもしれない。
「それでなんでしたっけ?月の見えるところで会えて嬉しい人?」
彼の奥さんを懐かしく思い返していたら、工藤さんが話を戻してくれた。
そのことに1つ首を縦に振ると、うーん、と考えるような仕草を見せた。
「そう、ですね…、俺なら、ですが、」
「はい」
「逃げ隠れている犯人に会えたら嬉しいですね」
「…」
今でこそ快斗さんという異性の友人が存在しているが、恋人とは別に、そこまで仲の良い異性の友人がいなかった私でもわかる。
「工藤さん、結婚出来て良かったですね…」
「それ宮野から、あ、俺の探偵業の相棒なんですけど、ソイツからよく言われます」
あはは、と笑う工藤さん。
毛利蘭は忘れ去りたい人物トップ5の1人だ。
でも彼女がこういう人を夫に選んだということを知って、過去のそれが全てチャラになったような、そんな感情になった。
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bkm