最初に、被災された方、お見舞い申し上げます。

※ここからは私の見た『東日本大震災』(震災直後『東北地方太平洋沖地震』)の記録です。ノンフィクションです、が、東北など報道されている被災地(震度7〜6強の地域)より被害は全然マシです。もし「そんなんで被害者ぶってんじゃねぇよ」と怪訝な目で見る方、不快に思われる方は読まないことをお願いします。ただ、あの瞬間を私が忘れぬように。刻みつけるために。「弱音」じゃなくて、ここからはじまる「強い一歩」として。本当に、嫌な方は読まないことをおすすめします。




1【2011-03-11 14:46】

 そのとき、私は。

 あの日、私は学校にいました。翌日に控えた、卒業式の準備を、準備担当になった三つのクラスといくつかの部活と先生方で、進めていたのでした。当日いきなり告げられて、早く帰れるとうれしがってた私達は口を尖んがらせていました。とくに午前中に帰宅出来ると思っていた私は昼食がなく、さっさと終えてさっさと帰ってやる、と思っていました。その一時間もしない前に、担当にならなかったクラスの親友と。「卒業式の準備やだよーいいなぁ先帰れて」「いいでしょー。頑張れー」と。「また明日」、と。普通に、別れた。その明日が、遅れてやってくるなんて。誰も思ってなかったと思います。
 私のクラスの女子はその時、体育館の壇上を雑巾で拭いて、そろそろ綺麗になったかと言いあって階段を降りたところでした。壇上で全体を見渡して、「そろそろ終わりそうだねー」「帰れるーっ」と笑いながら、短い段階を降りたことを、よく覚えています。
 私が体育館の床にたって、使い終わった雑巾をどうしようかと辺りを見ていた、その瞬間。――グラ、とそれほど大きくない揺れが体を襲いました。
 私は一番はじめの小さな余震のとき、なんとなく直感だったのですが「これはでかいな、」と思いました。そして一番に床に座りこんで思わず「座れ!!伏せろっ!!」と叫びました。
 近くの友達が「座るほど(震度は大きく)ないんじゃない」と私に声をかけ、――その瞬間、ぐん、と大きな地震が来ました。(本当になってこれはさすがにびっくりしました)
 周りにいたクラスメイトは声をあげながら、最初に伏せていた私や冷静に私の近くで座った私の友達がいる場所に集まってきました。まだ壇上にいた友達は不安な顔で走り降りてきました。「上にものがある場所からは避けて!」「大丈夫、大丈夫だから!落ち着いて!」そんな声をまだ冷静でいれた私や数人が言いながら、みんな床に座りこんで地震が止まるまで待っていました。
 そのとき友達の一人が私の胸に飛び込んできました。私はびっくりしながらも、その女の子に覆いかぶさりました(近くの電球の光が切れ、この揺れで落下したら離れていても危険性がある、というまた直感でした。この直感は当たらなくて、落ちなくて本当によかった)地震中、ふるふると震える彼女の身体をずっと抱きながら、地震のおさまるまであやし続けました。
 ……が、怪我もなく大きな地震は終わり、校庭に避難することになりました。
 校庭でクラスメイトが全員無事が確認されるとみんな安心しました。校庭へ向かう途中、恐怖で弱々しく泣く抱き着きてきた女の子を私は「大丈夫だって」とあやすことしか出来ませんでした。外に出てもまだ余震は続いており、地面から直接感じる揺れは縦揺れか横揺れかさえリアルにわかりました。
 その後、雨が降りはじめ体育館に戻り余震のおさまることを信じながら待機し続けました。
 電車がとまり、情報もうまく得られない。余震の中、不安に取り囲まれました。唯一のよりどころは一緒に避難している友達と、先生の冷静さでした。
 私達はみんなで並べたパイプ椅子に座り、次の情報を待っていました。卒業式のために綺麗に並べた椅子は、その時は床に直接座るより十分マシなものでした。座りながら私達は続く余震に堪えたのでした。
 揺れがおさまる間、地震により動いてしまった卒業式のための金の屏風やピアノ(さすがにピアノが動いたのには驚いた。倒れたり落ちたりなかったのが救いでした)を元の位置に動かす先生方が視界に入りました。ピアノの音をチェックしながら弦を調節する先生がなんとなく印象的でした。
 余震と余震の間隔があいてきたとき、先生が荷物をとりに教室への出入りを許可をしてくれました。教室へと向かったのですが、教室までの廊下で見た学校内はめちゃくちゃでした。下駄箱のロッカーが四方八方に向き中身が飛び出し、図書室は暗闇でもわかるくらい棚から本が消え(もしかしたら棚さえ斜めになっていたかもしれません)、保健室は中のものがぐちゃぐちゃ。窓ガラスが割れていなかっただけましです。
 体育館に戻っても余震は続き、先生の「緊急地震速報が流れたから外へ出て!」という言葉を何度も聞き。一時、地震酔いで椅子に座りながら体を縮めていました。
 本当は携帯は禁止な私の学校でも(生徒達が持っていると確信していたのでしょう)今日だけは特別、と使うことを許可してくれ、とりあえず持っていた私も家族との連絡をとるために携帯を使いはじめました。
 ですが、いざとなるとやはり携帯では電話、メールが全く繋がらず……家族との連絡は相変わらずでした。友達もそんな感じで、みんな家族の安否を、そして今日帰宅が出来るのかさえ、わかりませんでした(すでに電車でしか帰れない、親が迎えに来れないor家が近くの人の車に乗せてもらえない等の交通手段がない生徒は学校で野宿(って先生達言っていたけど、学校で“野宿”?((苦)笑))することが決定していました)
 電車を利用しなくても帰宅出来る生徒、そして親に迎えに来てもらえる(or家が近い車に乗せてもらえる)生徒は先生方の人力で速やかに帰っていきました。たくさんの友達が手を振って帰っていきました。
 私はその間、とりあえずなぜか電話やメールより繋がりのいいネットを使い、兄と連絡を取り合おうと努力をしました。
 私はこのサイトに最初に自分の安否を書き込みました。皆さんの無事を祈りながら。また自分を心配してくださっている方がいてくださるかもしれない、と。同様に兄もこのサイトを知っていたため「見たら連絡して」という意味も含めていました。書き込んでからあまりたたない間に、書き込みがありました。それは、ユーノ大好きっ子さんからのコメントでした。簡潔に安否を知らせてくださったそのコメントに私はらしくもなく、家族と連絡がつけない状況だったためか瞼が痛くなりました。
 どうにかネットと、学校の公衆電話を駆使し兄と私はお互いの安否を確認しあえました(公衆電話で声を聞いたとき、最初に言った言葉は「馬鹿やろー」。やっと声を交わせるのにまともな話をした記憶がないんですよね実は……。罵声っぽい愚痴ばっかだった気がします)。親は二人とも仕事なので直接は連絡出来ませんでしたが、兄の仲介により安否は確認しあえました。兄は震災直前に兄と私の分の昼食を買って帰ってきたらしく「おまえのカキフライ弁当食わずに残しといてやるから帰ってこいよ!」とふざけて言っていました。だから「私昼食まだ食べてないんだからな!絶対に食べんなよ!」と、私もふざけて返したのを今でもネタにされます。





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