novel | ナノ


Mirror


 それは空が澄み渡った、ある冬の日の事だった。

 …どうして。
どうして今になって思い出すのだろう。
もう二度と全員が集うことのない、同期の仲間たち。訓練兵時代の懐かしい思い出。

 でも、もう。

 今の私には関係ないのだ。
だって、あの時の私は「クリスタ・レンズ」だったからーーー。

−−−−−−−

 その日の訓練は兵舎の近くにある山で行われた。いわゆる山岳訓練と呼ばれるもので、今はその休憩時間。
 非常に足場が悪く、かつ激しい傾斜が組み込まれたルートを短い制限時間で走り終えるという過酷極まりないものだったために、誰一人として口を開く者はいない。
 はぁ、はぁ、という幾人もの荒い息だけがしんとした山中に響いていた。

「なぁ、お前らはさ、」

ーーーそんな中、突如発せられた、場違いなまでに凛とした声。

「巨人がいなくなって、壁の外に行けるようになったら何がしたい?」

 思わずその場にいた者たちが声の主へ顔を向ける。…エレン・イェーガー
彼は104期生の中でも巨人を駆逐するという意志が人一倍強かった。

「お前なぁ、空気っつーもんが読めねぇのかよ」

 側にいたジャンがすかさずつっかかる。この2人が犬猿の仲なのは同期の内でも有名なことだ。

「休憩時間なんだから別にいいだろ。なんだお前、バテて話もできないのか?」
「そんなんじゃねーよ!」
「そうか。俺にはそう見えたけどな」
「なんだとてめぇ!」

 当たり前のように取っ組み合いを始める2人に、周りの者たちは次々と興味を失ってゆく。

 エレンとジャンは、初日からウマが合わなかったらしい。だったらお互い放っておけばいいのに…というのは当時誰もが思ったことだろう。

「まぁまぁ落ち着いて、2人とも」
「そうだよ、みんな疲れてるし迷惑になっちゃう」

 マルコとアルミン(みんなは密かに保護者達と呼んでいる)が宥める事で口論が終わるのも定番だ。

「でも、エレンもどうしていきなりそんな質問を?」

 不思議そうにマルコが問う。

「ほっとけよ、どうせいつもの妄言…」
「純粋に知りたいんだ」

ーーーお前らの、夢を。

 その時のエレンの目といったら。

 もともと大きな深い緑の瞳を持つ彼だが、不思議なことに、稀に金色のように輝いて見える時があった。この時がまさにそう。あの目に見つめられると、誰もが引き込まれてしまう。

 言葉を遮られたジャンもこの時ばかりは怒ることができず、ただその静かな迫力に圧倒されていた。

「夢、か…。俺はせめて家族にいい思いをさせてやりてぇなぁ。俺ん家、小さい妹と弟がいるから父ちゃんも母ちゃんも大変だと思うんだ」

 と、コニーが呟く。

「私は美味しいものをいーっぱい食べたいです!例えば…そうですね…お肉とか、お肉とか、お肉とか!」

 元気な声で語るのはサシャだ。
肉しか言ってねぇじゃん!と周囲から総ツッコミを受けエヘヘ…と笑う彼女は、周りの空気を明るくする天性の才能を持っているらしい。

「僕は憲兵団で王に仕えることかな」
「私はエレンとアルミンの側に立って二人を守る」
「はは、ミカサが側にいるのは心強いなぁ。僕は壁の外へ行って絶対に海をこの目で見るんだ」

 みんなが次々に語っていく。どれも素敵な夢ばかり。その様子をただぼんやりと見つめていた。

ーーークリスタは?

 …?
突然声をかけられたことで、遠くへ行きかけていた意識が一瞬にして引き戻される。

 問いかけてきたのは…エレンだ。

 …エレン。
わたしはね、クリスタじゃないのよ 。そんな人物は存在しないの。そんな名前じゃないの。ぜんぶぜんぶ、偽物なの。

 だから。
今までみんなの前で作り上げてきた「クリスタ」の答えを言わなくちゃ…。

「そうだなぁ…みんなの夢が叶うことが私の夢かな」

 そう女神様として100点満点の答えを言うと、たちまち歓声が湧く。さすがは女神。やっぱりクリスタは優しくて可愛くて最高だ。食い意地の張ったサシャとは大違い。

 サシャが「もう!皆さん失礼ですよ!」と叫んでいる。そうしてまた笑いに包まれるのだ。

 私にとってはサシャの方がよっぽど羨ましいというのに。わかってない。みんな全然わかってない。

「またお前はそういう事言って好感度上げるつもりか?」
「ユミル…」
「いい子は大変だなァ」
「…そんなことないわ」

 ユミルは、自分が他人にとっていい人になろうとしている事を見破った唯一の人物だ。
 彼女はクリスタにとことん甘かったと思う。そして何よりも大切にしてくれていた。

 だが、ユミルはまだクリスタとしての自分しか知らない。もし「ヒストリア」である自分に幻滅してしまったら?見放されてしまったら?

 そんなの嫌だ…怖い。

 かつて実の母親に虐げられた不必要な子としての記憶はクリスタの中にはっきりと残っている。
 その記憶は黒い影としてつきまとい、自身を縛り付けていた。

ーーーなぁ、お前さ

 今までずっと黙ってこちらを見つめていたエレンが、ふいに声を発する。

「いつも不思議に思ってたんだけど、人のことばっかり考えてて疲れねぇのか?…なんか少し…不気味だ」

 …不気味?
そう言われたのは初めてで、クリスタは少しばかり動揺した。女神だの優しいだの肯定的な言葉ならいつも言われていたが、こうもはっきりと否定されたのは初めてのことだった。

 この人、すごい。素直にそう思った。
自分に少しでも違和感を抱いたエレン。自分を見ていたのは、ユミルだけじゃない…?

 …不気味ってことは、エレンは私のことが嫌いなのかな。…でも、それでも…。いい子なクリスタという虚像を好かれるよりよっぽどマシだった。

 ユミル以外にも本当の自分を見破った人がいる。エレンは何気なく言っただけなのかもしれないが、その事がなんだか少し嬉しくてクリスタは思わず笑みをこぼす。

ーーーエレンになら、ちょっとは本音を零してもいいかな。

「だってそれが私にとって一番楽なんだもの。いい子として無難に、揉め事は避けて生きるのが一番よ。エレンもそう思わない?」

 エレンは一瞬きょとんとした顔をした後、苦笑した。

「は…お前って結構図太いんだな!そっちの方がおもしれぇや」
「このことは内緒ね」

 2人でクスクスと笑い合う。

 クリスタの秘密。
そのほんの一部を、ほんの少しの時間だけ彼と共有した。小さなことだが、クリスタにとっては大きなことだった。

 その日以降、クリスタは少しだけエレンに興味を持つようになった。

 エレン・イェーガー。彼の夢は「この世のすべての巨人を駆逐すること」

--------------

ーーーねぇ、エレン。あの日のことを覚えてる?森の中でみんなで夢を語り合ったあの日。

 ヒストリアは、猿轡をかまされているエレンを見やる。

 今の…私の夢は、…使命は、この世から巨人を駆逐することよ。

 …笑っちゃうよね、あの時のエレンの夢が今では私のものになってるなんて。

 きっと今、彼は深い絶望の中にいるのだろう。

 あぁ…、なんて哀れなエレン。
 …なんて哀れな私たち。

 私の事を見てくれていてありがとう。
…ヒストリアになった私の事を、「普通」だと言って認めてくれてありがとう。

 その美しい大きな目を輝かせながら夢を謳ったエレンは、もうどこにもいなかった。


***

話の都合上、クリスタとヒストリアで二重人格みたいにしていますが…私は「クリスタ」だった時の彼女もまた、紛れもなく彼女自身であったし、根本に「人から善く思われたい」という意識があったのだとしても、彼女の温かい性格は本物だったのだろうなぁと思います。

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