彼は生物の教師の癖に説明に空想じみた例えを使う。
「魚の鰭は空中を飛んだり水中を泳ぐために薄く柔らかい仕様となっています。しかし、皆さん考えて下さい。
 例えば空を飛ぶ魚が居るとしたら。鰭の一筋一筋に空気が通り、口からは酸素を取り込んで作る。私達の周りをふかふかと浮いていると考えたら。それは、素敵なことではありませんか?」
 時刻は昼下がり。皆、満腹の胃袋を抱えて欠伸を噛み殺したり頬杖をついたり、携帯を弄ったり。大半の人は聞く様子を見せていない。一番の優等生でさえ夢の中。けれども彼は気にせずふわりと笑って言うのだ。

「想像してみて下さい。ほんの少しのことを想像することから、生物ははじまります」

 理系の癖に随分と国語教師顔負けの浪漫的な事を言うと思う。しかし、僕はその響きや―思考の流れが―嫌いではない。だからこそ目を閉じて彼の言う通り、想像するのだ。
 空には大山椒魚が泳いでいる。





 放課後、北校舎の地下一階。上り坂の脇の木陰に隠れるようにひっそりと位置する彼に宛てがわれた部屋へと荷物を持ってふらり、立ち寄った。鞄の中には先程声を掛けられて渡された手紙と手作りのお菓子。二つに結いた女の子。体育館の横、夕闇に染まった渡り廊下は誂えたように浪漫チックで―赤く染まる頬が可愛いな、と思いながら受け取って直ぐ様手紙を流し読みした。彼女の目の前で。真っ赤になった瞼へ唇を落として、にっこりとお断りの返事。奇声と、ほろほろと落ちる涙を舐め取ってひらりと踵を返す。禍根は、懲り懲りで。
 そんな調子で攫ってきた砂糖菓子の煌きは感情なんて何のその。何も知らずに沈黙を保ち今も尚、僕の手に抱かれていた。

「やあ、いらっしゃい」

 扉の開いた音に悟ったのだろう。彼は一度此方をちらりと一瞥し、煙草の煙をふかりと吐き出した。疲れたような笑顔。まま一日を終えたのだから仕方が無い、とは一般論である。彼は始終疲れきった笑顔のままなのだから。たとい、朝であっても。ならば仕様なのだろう。
 対して僕は何も応答することは無く、ソファへと寝転がった。昼間日差しに暖められた革張りのソファは今の時間でも充分に温かい。ぐるりと視線を遣れば扉の影に水を張った水槽。中には赤と黒の金魚が混在してふかりふかりと優美気ままに姿を見せていた。僕を捉えてはくはくと動く口は歓迎しているように思える。金魚からの歓迎の口上とは。
 熟思考が溶けているのか。目を逸らした先に、差し出される珈琲。

「お疲れ様」

 湯気を立てるそれを受け取らず瞼を下ろせば。苦笑と共に、ソファ横にある低い足のテーブルにマグカップが置かれた音がした。かつん。その合間も止まない紫煙に堪え切れなくなって言葉を漏らす。
 煙草臭い、と言えば今更でしょう、と揶揄するような声。調子に乗るなと返して鞄の中から先程受け取った菓子を取り出して後頭部に向かって放る。感触は焼き菓子。間抜けな悲鳴にややあって身を起こせば、ぱちくりと困惑に充ちた視線が横から突き刺さる気配。

「これ」
「貰った。センセイ食っていいよ」
「え」

 女の情念が籠ってそうだが、彼なら大丈夫だろう。記憶にある限り―何を食べてもお腹を壊すことはない。恐る恐る封を開ける彼を横目に珈琲に口を付ける。僕用に、といれてくれる物には何時だって安売りの牛乳と一摘みの砂糖。何も言わずにそれが出てくる辺り、僕がこうやって此処に出入りすることに彼なりに慣れてしまったと言われているようで少しばかり背中がこそばゆかった。
 僕の感情は何のその。先程頂いた焼き菓子が余程美味しいのか無言でポリポリ食べるくたびれた白衣。

「美味い?」
「うん」
「変なもんは入ってないみたいだね」
「え、酷い」

 抗議の声はさらりと流す。愛らしいラッピングと赤く染まった顔。
 可愛いな、と思った感想は疾うの昔に遠くへ行ってしまっていて。飲み物の温かさに惚ける僕の目の前を魚がふありと泳いでみせる。

「ねえセンセイ」
「ん?」
「また、さ。言ってたよね。《魚》の話」

 好きだね、と言って思わず漏れた忍び笑い。はたりと咀嚼する音が止む。沈黙に彼を窺えば夕日に負けじと真っ赤な顔が此方を見詰めていた。つられて赤く成りそうな脳味噌に叱咤して、彼の動揺を鼻で笑ってみせる。

「何赤くなってんの。今更でしょう。センセイが《魚》好きなのは」
「う、うう」
「大丈夫。変なことは言ってない」

 空を気ままに泳ぐ《魚》。人に巣食う鱗。授業中の例えや空想だけではない。彼が、本当にそれが見えると言ったのは、春の日差し温かな4月の頃。何をいきなり、とは思えども絶好のサボり場所であった此処のソファを手放すのが惜しくてその秘密を甘んじて受け入れた。秘密の遵守者として、そして。現在彼は僕の素行の悪さに目を瞑るようにして空間を共有する。
 だから授業に僕が出なくても。彼が帰ったこの部屋に、僕が突然寝ていても。何も苦言が飛ぶことはなかった。くたびれた微笑み。僕を捉えて歪む瞳。

「広めるつもりは無いし。追っかけられないこの空気は好き。僕は良い昼寝場所を手放したくない」
「じゃあ、これ」
「うん。赤い―お祭りに売られてる金魚みたいな女の子に貰った」

 僕は食べたくないからセンセイにあげた、と言えば文句ありげな表情。分厚い眼鏡の下に隠された感情に軽い謝罪を投げると幼子みたいに膨らむ頬。―全く。大人の癖に。
 感情を素直に表現する幼い人であると思う。

「明日は、カイコガの交配?」
「うん」
「じゃあ、鰭の話は今日で終わりか」

その後に続いた言葉は何気無く口に出したものだった。

「今日も《金魚》は元気だった?」

けれど、

「うん。特に、君のものは。美しかったよ」

 酷く熱を孕んだ応えに。後悔する。息を飲んだ。からかうなと言いかけた口を閉ざす。今度こそ悲鳴を上げた心に、彼に顔を見られないよう背中を向けた。馬鹿、―馬鹿は、油断して踏み込んだ僕だ。

「煩い」

 センセイについて知っていることが沢山ある。宙を舞う金魚。美しく巣食う鱗。特に僕の《魚》が気に入りであること、金魚を飼っていること、煙草を僕の前でしか吸わないこと珈琲をいれてくれること。何も言わなくても感情を、察知するということ。
 彼の視点から。僕の《魚》はどんな動揺した行動をしていることだろう。
 途端、居た堪れなくなって立ち上がる。鞄を掴んで扉まで歩めば不安そうな声。

「もう、帰るの」

 置いていかれたような声をしないでほしい。大人なんだから。
 その言葉を言うのも癪で扉を開けた僕へ、彼が言う。

「女の子なんだから。帰り道、気をつけてね」

 要らない気遣いと明日も来てね、と告げられた言葉に無言で手をひらりと振った。スラックスに包まれた足。彼の前で性別に合った規定の制服を着た覚えはない。着るつもりもなく、眠ったスカートは箪笥でお迎えを待ち続けている。
 ただ、彼には僕の金魚が酷く美しく―愛らしく写っているという。その世界こそ恨むべきかと吐き出した溜息は熱かった。火照る頬に平手を打ち帰路に着く。空はあっという間の闇夜。
 肌寒い秋が、その後ろから冬が足音を立ててやってくる。明日の放課後を夢想して、そっと《金魚》たちが屯う校舎を後にした。短時間で染み付いてしまった紫煙。少しだけ甘い珈琲の味は癖になるようだと呟きは冷えた空気に消える。


20121014


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