うちのスーパーには幽霊がいる。
出る、ではなくいる、のだ。
いわゆる地縛霊というやつかもしれない。
いつも休憩室の片隅で、ぼんやり町を見下ろしてる。
私はその様子を豆乳をすすりながら眺める。はじめこそ気になって仕方なかったが、慣れればルームメイトみたいなものだ。
備え付けのテレビから流れる音、それに合わせて笑うレジ仲間。見切り品のハンバーグ弁当のにおい。いつもと変わらない、放課後のバイト。
私ですら退屈しているというのに、あの子はずっとああしていて、何が楽しいのだろうか。
幽霊は、何を思うんだろう?
そんなこと、私に知る由はない。
時計を確認してそろそろレジに戻る時間だと食べたあとのゴミを片付ける。
更衣室に戻りエプロンをつければ、レジのお姉さんの完成だ。
残り3時間。だるいけどがんばろ。
☆
「お疲れさまでした〜」
高校生のバイトは11時までと決まっている。レジに残るバイト仲間に挨拶をして、タイムカードを押す。
あー今日も疲れた。これで調味市の最低賃金なんだから、バイトも楽じゃない。かと言って高時給なバイトはめんどくさいからしないけど。
エプロンを外しながら更衣室に向かっていると、休憩室の灯りがまだついていた。
この時間に残っているのはレジの人たちと社員さんくらいだろう。それも、みんなフロアや事務所にいるからこの時間はいつも真っ暗なのに。
不思議に思いつつもなんでもいいや、とそのまま更衣室へ向かう。とにかく早く帰りたい。そう思っていたその時、
「ソルトスプラーーーッシュ!!!!」
「………え?」
なんか変な声が聞こえた。
ソルトスプラッシュ?新商品だろうか。それにしても、なんで新商品の名前を叫んでるんだ?
さすがに不審すぎるのでそっと休憩室へ向かい、その扉を開けた。するとそこには。
「ソルト…あーー!ダメだよお姉さん!危ないからここに入っちゃ!!」
「……」
グレースーツにピンクのネクタイを締めた、金髪のお兄さんが食塩をばら蒔いていた。
「……えっと…?」
「今ね、除霊してるとこなんですよ。危ないからさっ、外に出た出た」
除霊?もしかしてあの隅にいるあの子のこと?
そういえば店長が、怪奇現象が起きたり、社員が気味悪がるからお祓いを頼むかとか言ってたけど、ほんとに頼んだんだ…。
それにしても…
「……あの、幽霊、あなたの背後にいますよ。塩まく方向間違ってんじゃないですか…てか、それ博多の塩だし」
幽霊と真逆の方向に向かって塩をまく男に、「あ、こいつペテン師だな」と即座に悟った。
私の言葉にわかりやすくギクリ!と肩を震わせた男に、白い目を向ける。
「あのね、これは準備体操なんだよ。プロ野球選手だって急に試合しないだろ?プロにはプロの準備ってもんがあるんだよ。素人は口出ししないでもらえます」
「……(腹立つ)」
あまりにも呆れた男の言い訳にムカついていたら、不意に隅にいるあの子がこちらを向いているのに気がついた。
ぞくり、と鳥肌。
部屋の温度が一気に下がったような気がした。
「…というか、君も見えんの?幽霊。」
男の言葉は私の耳に入って右から左に消えた。
いつも町を見下ろしてたあの子が。明らかな敵意を感じる。
そもそも、怪奇現象が起こったのだって、バイトの女の子が面白半分に誇張した怪談話をでっち上げたり、そういう態度が招いたことなのに。
あの子はずっと、静かに何かを待ってただけなのに。
それなのにこんなインチキ霊媒師まで呼んで、彼女の居場所を奪おうとするから。彼女は。
怒ってるんだ。
ヂヂ、ヂ……と嫌な音を立てて蛍光灯が点滅する。ハッとして天井を見上げる私と、ポケットから携帯を取り出す男。
「…おう、モブ。遅くに悪いな。ちょっと厄介なことになってなあ、今すぐみぞおちスーパーまで来てくれねえか。すぐだろ。……え?もう風呂入って寝るとこ?バッカ、お前まだ11時前だろーが!夜ふかしは大事だぞお、中学生男子には特にな!なぜなら……」
バチンッッ!!!
ついに蛍光灯の灯りが消えた。
同時に、バギン、ドモン、と得体の知れない音がどこからともなく聞こえてくる。ごくり、と生唾を飲む。
見えない何かが、この部屋中に渦巻いていることが本能的にわかった。
「出ましょう!!今はとにかく、この部屋から出た方がいいッ!!」
真っ暗闇の中、近くに居るだろう男に叫んで、踵を返す。手探りで扉の位置まで戻り、ドアノブに手をかけた。しかし、
ガギッ、ガギギッ…
「あ、開かない……」
閉じ込められた。
だらだらと冷や汗がこめかみを伝う。
せめて電気をつけようとスイッチを何度もつけたり消したりするが、部屋は真っ暗のままだ。
「閉じ込められたか……どうやらこの依頼、マジモンだったようだな…」
ようやく聞こえてきた男の声に、少しほっとする。目も少し暗闇に慣れてきた。
それにしても、インチキの癖にこの状況で妙に冷静だ。この男、一体何者なのだろう…?そう、考えていると不意に女の子の声が聞こえた。
『…………しないで。』
「……」
「な、なんか聞こえるぞ」
『ジャマ、シナイデ。』
ガッシャアアアン!!!
置いてあったグラスやマグカップが派手に割れる音。それにびくりと肩を震わせる。ヒタヒタヒタ、部屋中を歩き回る音と共に、テレビや、テーブル、花瓶、様々なものを破壊していく。
「ど、どうしよう……どうすればいいの!?これ!!」
「うーむ…とりあえず……姿を表わせえええ悪霊めえええええ」
パカッ、と開いたのは携帯電話。
「除霊フラッシュ!!!!」
「いやそれただのバックライトオオオオ!!!!」
でもこれで少しは部屋の全体像が見渡せた。バックライトに照らされた休憩室は、予想以上に物が散乱し、ひどい状態になっていた。
『ジャマシナイデ。シナイデ。シナイデ、ヨ。アシタデ、オワリナノニ。オワカレナノニ。』
「!!」
明日で終わり。お別れ…?
彼女は、ずっと誰かを待っていたの?この、部屋の片隅で。
「…ねえ!お別れって何!?私たち、何も知らなかったんだ。あなたが誰かを待ってること。もし!その願いが叶ったら成仏してくれるっていうなら、もう私たち何もしないから!邪魔しないから!!だから……ッ」
ヒタヒタヒタヒタ、ヒタ。
耳元に冷たい息。蛇が這うような感触がする。
『ソウ。マッテタンダヨ。アンタミタイナオヒトヨシガアラワレルノヲネ。」
「ぐっ!?」
何かに体を貫かれたような痛み。
どくどくと、心臓や血管が脈打つのがわかる。何かを体が、必死に拒否しているように。
「オイッ!?何があった!?!?大丈夫か!!!」
男ののんきな叫び声が聞こえる。
大丈夫かも何も、そもそもあんたのせいでこうなったんでしょうが。インチキ霊媒師め。
ぐら、と意識が遠のく。
『……チッ、アンタ、レイノウリョクシャダナ。ノットリズライ、ノットレナイ……デモ、タイシタコトナイ。』
「かッ、あ……」
『ダカラ、アト、スコシ。』
息ができない。全身すごい汗だ。指先や足先が冷えて、酸素が行き届いてないことがわかる。よだれも、涙も、鼻水も止められない。
意識が遠のく。精神が破壊される。そう、感じた。
バタンッ
それは、私が倒れた音。ではなく。
背後から光。
開いた扉の先にいたのは、光の中に佇む真っ黒な男の子。カミサマみたいな、死神みたいな。彼が手を翳した先で、彼女がみるみる浄化されていく。
「モブ!!おっせーよ、結構ヤバかったんだからな!!!」
男が叫ぶ。
モブ、と男は彼のことをそう呼んだ。見たところ、詰襟の学ランを着た、男子中学生のようだ。
彼女の断末魔が部屋に響き渡る。
『ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!!……ッッ、ワダジワア゙ア゙……アノヒト、…ニ、あの人に……気持ちを、伝えたかっ…』
「待って!!!」
シュウウウ、と音を立てて小さくなっていく彼女が、消えてしまう寸前で彼を止めた。
ジジ、と何事も無かったかのように蛍光灯がつく。明るい中で目の前の男の子と初めて顔を合わせた。男の子は、きょとんとしたような、何とも言えない表情で私を見上げていた。
「……彼女、何か思い残したことがあるみたいなんだ。それを聞いてあげたい」
「へっ!?お姉さん、何言ってんの?君さっき殺されかけてたんだよ!?悪霊に慈悲なんかいらないって。弱味につけこまれる前に早く溶かせ!モブ!!」
「まあまあ師匠。確かにこの霊、何か言ってましたし、少しくらい話を聞いてもいいじゃないですか」
「モブ〜〜…お前なああ〜〜」
ちみっ、と小さくなった彼女に、視線を移す。彼女はパワーを失ったせいか、先程のように禍禍しい雰囲気はなく、ほんとうにただの、一人の女の子のようだった。
「…何の未練があるの?話してくれる…?」
『……デートするはずだったんです。10年前の、明日。』
「……」
か細く小さな声で、ぽつぽつと語る彼女。部屋はしんと静まり返り、店の横を通る国道の喧騒がどこか遠く聞こえていた。
『知ってましたか。ここは昔映画館だったの。今でも覚えてるわ、“小さな恋のうた”っていうタイトルの映画を、彼と観るはずだったの。ここで。』
『私は体が弱くて、小さい頃から風邪を引いては入退院を繰り返すような子供だった。それは高校に入ってからも同じ。学校も休みがちで、クラスにも馴染めなかった私を、幼なじみだった彼はぐんぐん引っ張って行ってくれた。明るい場所へ。まるで、太陽のような人だった。』
『私はそんな彼が好きだった。だから、偶然懸賞で当たったっていうチケットでも、私を誘ってくれたことが嬉しかった。その日は、30分も早く待ち合わせ場所だったここに着いちゃったの。』
『そわそわしながら待ったわ。何度も腕時計を確認して、前髪や洋服をきにしたりして。でも、それがとても嬉しくて楽しかった。早く彼の顔が見たい、そう思っていた、そんな時。持病の発作が起きて……』
「………」
私たちはただ黙って彼女の話を聞いていた。彼女はどこか、爽やかな表情でこの話をしていた。そしてどこか嬉しそうに、恥ずかしそうに、恋する女の子の顔をしていた。
『近くにいた人が救急車を呼んでくれて、すぐに病院に運ばれたけど、そのまま…。』
「……」
「………」
『結局彼に会えないまま、想いを伝えないまま、私は死んでしまった。今でも思うの。あの映画はどんなお話で、それを観た彼はどんな表情をして、私たちはどんな感想を言い合っただろう、って。そんなことを思っていたから、こうしてこの場所から動けないまま10年も過ぎてしまったんだろうね…』
「……」
『でも、それも明日で終わり。』
「…終わり、って…どうして?あなたの未練はまだ断ち切れていないのに」
『……彼、あれから毎年、かかさず10年間。この場所に花を手向けに来るのよ。映画館が潰れて、スーパーになっても。…それで、去年。彼女をつれてきたわ』
「!!」
「彼女…」
『彼なりの過去とのケジメだったんだろうね。そこで言ったの。“俺は来年彼女と結婚する。ここに来るのは、来年が最後だろう”って…。』
「それで…」
「……」
『だから、私は今日の0時すぎ…つまり明日になった頃に現れる彼に想いを伝えたくて、あなたの体を乗っ取ろうとした。…あなたはいつも私を見ててくれたね。だから、余計あなたに情が湧いたのかもしれない。まあ、霊能力者の体が乗っ取りづらいなんて法則、知らなかったけど。』
タハハ、と笑ってから、『ごめんね。』と眉を下げて謝る彼女に、気づけば口が動いていた。
「いいよ。私の体使って」
「はっ!?ちょっ、お姉さん!さっきから無茶言い過ぎだって!地縛霊だよ!?」
「僕も、さすがに危険だと…」
ペテン師はともかく、本物の霊媒師らしい男の子までそう言うのだから、本当に危険なのだろう。けれど。
「そう。私はあなたのこと見てた。幽霊が何考えてんだろう、って。何を思うんだろう、って。本当は、知りたかったのかもしれない…」
『……』
「だから、それを教えてくれたから、私は少し救われたんだ。死んだ人の気持ちなんて、本人にしか聞けないからね。」
ハハ、と小さく笑う。
私は幽霊が見えても何もできなかった。できないと思っていた。そんな自分が誰かを救えるとわかったなら、協力したい。少なくとも私はそう思う。まるで罪滅ぼしにも似た。
「使ってよ。私の体。使って、彼にきちんと想いを伝えてきて。」
そう言うと、彼女は少し涙ぐみ、こくこくと頷いた。
『…ありがとう…、ありがとう…。きっとあなたの体は無事に返すから。想いを伝えて、成仏するから…』
私はこくりと頷いて目を瞑った。横で何やら不満そうな声が聞こえる。
「おい、モブ。大丈夫なんだろうなあ?彼女。相手は地縛霊だぞお。そのまま体乗っ取られて精神崩壊させられるかもしんねーぞ」
「…わかりませんけど、」
ちら、とずいぶん小さくなってしまった彼女を見るモブ。ここまでちいさければ、憑依したところで体は乗っ取れないだろうという冷静な意見があった。けれどそれより、
「彼女を、信じてみましょうよ。師匠。」
そんな弟子の物言いに、霊幻ははあああーーっ、と盛大にため息をついて愚痴をこぼす。
「甘ぇぇなぁぁぁ。天津甘栗より甘ぇぇよぉぉぉぉ」
ブツブツそんなことを言う霊幻の横で、憑依は行われていく。
小さな霊体の彼女が、ナマエの中に吸い込まれるようにして消えていく。ぱあああ、とひとつ大きな光を放った後、ナマエはがっくりと俯いた。幽霊の姿も見えない。
「オ、オイ…!!お姉さん、大丈夫か……!?!?」
「大丈夫ですか?」
『……』
ゆっくり顔を起こした彼女は、少しキョトンとした顔をしてから、キョロキョロと辺りを見回した。そして手近にあった壁掛けの鏡の前に行き、その姿を見る。
『…映ってるわ。そして、触れる。』
そう言って自分のー正しくはナマエの顔を鏡で覗き込んだり、頬に触れたりした。
「オイオイ、妙な気起こすんじゃねーぞ?あくまでその体は借り物なんだからな」
『ええ…わかってる。ただ、久しぶりの感覚だから嬉しくって。』
「お姉さんは…どうなったんですか?」
『眠ってるわ。大丈夫、ちゃんとこの中にいるから。あっ……』
霊幻に口酸っぱく言われ、苦笑する彼女。そんな時、何かに感づいたように声を上げた彼女は、タタタ、と窓際に走って行き、外を見下ろした。
『来たわ…。彼よ…』
嬉しそうな、けれど少し寂しそうな表情をして、彼の姿を見下ろす彼女。そしてパッと後ろを振り返ると、彼女を見つめる霊幻とモブの姿があった。
「行ってこいよ。しっかり気持ちを伝えてやれ」
「がんばってください。応援しています」
『……ありがとう。』
思いの外あたたかい二人の言葉に、少し涙ぐんで休憩室を飛び出した。エレベーターを待ちきれなくて、階段を駆ける彼女に、すれ違った社員たちは驚いたように道を譲った。
もう少し。もう少しで会える。話せる。想いを、伝えられる。
店の裏口の扉を開けると、花を手向け、手を合わせている想い人の姿があった。
急に店の裏口から出てきた従業員らしき女の子に、彼は少し驚いたように目を丸くした。けれどすぐに、本当に驚くべきは彼女だろうと思い直して声をかける。
「あっ…すみません、こんなところに、花を……」
『………』
「あの、自分、別に怪しい奴じゃなくて…って、こんな時間にこんなことしてたら充分怪しいか…。でも、違うんです、これには深い事情が」
『ケンちゃん。』
「………え…」
初めは冷静だったものの、よくよく考えると自分の不審さに不安になったのか、あたふたしだした男。言い訳を並べる彼に、言葉を遮って名前を呼んだ。
「……どこかで、お会いしましたっけ」
『……私。ナオコなの。』
「…え?………なんで、その名前を…」
訳が分からないといった風だった男の表情が、少しずつ、信じられない、というものに変わっていく。
口をパクパクさせ、その名前を小さく何度も呟いた。
「……ナオコ、なのか…?そんな。まさか。………じゃあ、俺と観に行くはずだった映画のタイトル、覚えてるか。」
『……忘れるはずないわ。“小さな恋のうた”。主演女優は当時人気だった桜木桃子。ビールの懸賞でお父さんが当てたのを、ケンちゃんがもらって誘ってくれたのよね』
「…ああ、ああ。うそだろ……ナオコ!!!!」
男の目にうっすらと膜を張っていた涙が、どんどんこみ上げ、頬に流れた。ポツリ、ポツリ、と10年分の涙を流すように、降り始めた雨は次第に強さを増していく。
けれど、そんなこと。気にするはずもない。
男は彼女に走り寄り、その体を力一杯抱き締めた。彼女も泣きながら必死に彼の背中に腕を回している。
『ごめんね!!ごめんね……!!!楽しみにしてたのに、一緒に映画観れなくて。ずっとずっと、ケンちゃんに辛い思いをさせて。苦しい思い出を残して。ごめん、ごめんなさい。』
「そんなこと言うな。悪いのは俺だ。あの日、映画になんて誘わなければ。待ち合わせよりもっと早く来て、ナオコを守れたら。何度もそう思った。」
枯れることない涙と雨で、二人はずぶ濡れだった。けれど乾いた心に染み入るように、少しヒリヒリとして、けれど確かな潤いを感じる。
「けどな。」
「それは違うって気づいたんだ。俺がいつまでもこんなことを言ってても、ナオコは悲しむだけだ。そう思った。」
『………』
「なあ、ナオコ。俺は生きてる。どうしようもなく。お前を失ってそんなこと、何度もやめようと思ったよ。それでも生きなきゃならない。時間は止まらない。当たり前に腹は空くし、眠たくなる。どんなに泣いても涙は枯れるし、いつかは笑えるようになる。残酷なのかもしれないけどな。」
『ケンちゃん……』
「……今日は、ナオコにお別れを言いに来たんだ。」
『………うん。知ってた。』
「お別れって言うのは、ナオコを忘れることじゃあない。ナオコへの気持ちにケジメをつけることなんだ。」
『………』
雨が一層強くなる。二人の言葉をかき消すように。もう涙は見えない。雨に流されてしまった。
「ナオコ。俺はずっとお前が好きだった。病気がちで、ドンくさくて、引っ込み思案で、めんどくせー奴だったけど」
冗談っぽく言って笑う彼に、つられて彼女も笑う。
「……そう。その笑顔が好きだった。何度も入退院繰り返して、辛いだろうに、いっつも笑ってた。ヘタレの癖して、そんな時は弱音の一つも吐かなかった。お前は、周りの人を第一に考える、すげー優しい奴だったな!」
『……っ、う……ケン、ちゃん…。』
ぐずったような不細工な泣き顔を、彼も笑顔が失敗したような表情であやす。二人は泣いていたし、笑っていた。男は彼女の雨と涙が伝う頬を、ごし、と指先でぬぐってやった。
そんなことをしてもすぐにまたずぶ濡れだが、彼女を泣かせたくはなかった。
『っ、私も……!!ケンちゃんが、っずっと、ずーーーっと、!!……好きだったの。大好きだった……』
「…ッ、ナオコ……!!」
ぎゅっと、抱き締める。
愛しさに、後悔や、悔しさや、あったはずの希望に満ちた未来を考えてしまう。けれど、もう。行かなければならない。
「……なあ、知ってるか。あのチケット。懸賞で当たったなんて嘘なんだよ。ホントは、俺がわざわざここまで買いに来たんだ」
『えっ…!?な、なんで』
そんな嘘を、と続けるつもりが、言葉を失った。頬に、やわらかく、静かに、唇を寄せられたからだ。
『!?!?!?』
「……ナオコとしたかったんだよ。デート。」
悪戯っぽく笑うその姿は、頼りになるけど、少し意地悪だった当時のケンちゃんそっくりで。ナオコはまた、瞳から大きな涙を流す。
『……幸せ。私、今、生きてきた中で一番、幸せだわ。』
彼女は泣いていた。けれど、それは悲しみの涙ではなく、笑顔と共に流れる涙だった。
「……やっぱりナオコは、笑ってる方がいいよ。」
しと、しとと。あんなにも降りしきっていた雨が、次第に弱まる。通り雨だったようだ。
男が不意に空を見上げた時、その腕の中にあったぬくもりが、手からこぼれ落ちるように、静かに消えた。
「……!、ナオコ…?」
覚悟はしていた。けれど、いざその時となると声が震えてしまう。彼は涙をこらえた声で、彼女の名前を呼んだ。
彼女は眠っていた。彼の腕の中で。けれど、再び目を覚ました時、その瞳の奥にある彼女自身は、消えてしまったことを感じ取った。
「!………終わった、んですね…」
「すみません、」
即座にパッと彼女から手を離す。
雨は大分やんでいる。残されたのは、濡れたアスファルトと、雨のあとのにおいと、心にぽっかり穴が空いたような、寂しさだけ。
「……」
「………」
二人は何も言葉を交わさず、濡れた地面を見ていた。そんな時不意に、一筋の光が、頭上に現れたように感じた。
思わずバッ!!と顔を上げる男。彼女もそれに続いた。
夜の真っ暗闇に、ぽっかり浮かぶ三日月。その光に照らされて、彼女はそこにいた。
『ナマエさん。私の願いを叶えてくれてありがとう。最後に私を、世界一の幸せ者にしてくれて、ありがとう。』
『……ケンちゃん。幸せになってね。どんな生き方でもいいわ。あなたが死ぬ直前、最高に幸せだったって、そう思えるように生きて。どんな人生も、どんな未来も、けして間違いなんてないのよ。後悔なんて、しなくていいわ。』
『ケンちゃんが選んだ今だもの。きっと大丈夫。きっと上手くいく。私はそう、信じてるから……』
そう微笑んで、月の光の中に彼女は消えた。
男は、涙をこらえるように奥歯を噛み締め、鼻をすすり、「ありがとう。ありがとう。」と静かにつぶやいていた。
するり、と夜風が頬を撫でる。
不意に視線を送った窓の先、サッシにもたれかかって夜空を眺めている二人がいた。
その前髪をふわり、と夜風が持ち上げる。まるで『ありがとう。』と言っているように。
金髪の男の方がこちらを見下ろし、視線が合う。その目はなんだか優しく、あたたかく、私の労を労うように小さく細められた、気がした。