『ーーああ、そうだ。きみに良い土産がある。』



溶けかけの雪と泥に塗れた地面に蹲る私の眼前にひとつ希望の光のような美しい金色が落ちてきた。それは薄汚れた泥の中で輝いて、それが、その指輪があの七ツ屋の常連客であったおじさん……津山睦雄の純金の芍薬の指輪だと理解した時の私の心情は想像に難くない。あの日小樽の森奥で女将の息子の名を出し、私を見えぬ鎖で繋いだその男は、まるで食後のデザートを提供するような声色で私の頭上からその指輪を落としたのだ。そうして裏取りをするように外套の内側の、自分の助骨服の留め飾りをひとつひとつと外していった。その下に男ーー鶴見中尉が身につけていたのは、一枚の刺青人皮だった。それはかつて誰かの皮膚であったもの。


『この皮を手に入れるのに私は部下を三人失った。この指輪は津山睦雄の最後の質草だ。そしてもう取りに来ることはない。部下三人の命と引き換えにはあまりに安すぎるがね』


涙は出なかった。泣くには共に過ごした時間が短すぎたし、おじさんも、もとい津山睦雄も決して自分が穏やかにこの世を去れるとは思っていなかっただろう。ただ、信じたかったことは、彼がこの指輪を最後の時まで身につけていたという事実だけだ。
きみに託そう。そう言って鶴見中尉は事も無げに踵を返した。その亡くなった部下たちやおじさんの指輪に対する思いも、すべて引き受けて指輪は一層残酷に輝いて見えた。刺青人皮が示す金塊も、この指輪も、黄金色に輝くそれらにはどこか人を狂わせる魔力がある。その美しくも恐ろしい指輪を泥と雪で汚れ、かじかんだ指先で拾い上げると私は一体どれほどの屍の上にこの金塊争奪戦の覇者は立つのかと考えて肌が粟立った。













「ーーとても、きれいな指輪ですね」





ある日の昼下り、小樽の兵舎の縁側でひとつ太陽の光の下に指輪を翳しながらあの日の出来事を反芻していた。そんなところに不意に少し甲高いような、けれど色気のある声色で誰かが声をかけてきた。目をやれば、目元の朱と口周りに薄らと彫られた刺青が印象的な、アイヌの民族衣装を纏った一人の女性が佇んでいた。そんな彼女に私は「どうも、」だとか「こんにちは」だとか曖昧な返事をすると、女は厠を借りていたのだが帰り道がわからなくなった、と暗に案内を要求してきた。


「あなたも占いをさなるんですか?」

「…占い?」


「先ほど指輪を光に透かしていたでしょう。ウェインカラ……千里眼をお持ちなのかと」


「まさか。御船千鶴子じゃあるまいし」



女に元居た部屋の様子を聞くと、どうやら応接間から来たらしかった。そもそも兵舎に女性が訪れることがほぼないので、珍しい客人だとは思っていたが、唐突に占い、やら千里眼の話をされて一体何の目的で軍人の兵舎にやって来たのかと少し訝しく思う。
女の口ぶりからすると占い師か何かなのだろうか。千里眼、という懐かしいような言葉を聞いて不意に頭に浮かんだのはその界隈ではそれなりに有名な御船千鶴子の名前。明治末期のオカルトブームの火付け役となったらしい人物だが、この女もその流行に肖る商売をしているのかもしれない。



「あなたは占い師?」

「そう呼ぶ人もいます」

「……失礼ですけど、ここへは何をしに?」


「探しものをしている道中です。ここは目的地ではありません」


「……」


いまいち要領を得ない答えばかりを口にする女にふと足を止めて振り返ってみれば、出会った時から崩れることのない笑顔がこちらを向いていた。首に巻かれた狐の毛皮の襟巻きも相まってなんだか化かされているような気分になる。腑に落ちない顔をして正面を向き直ろうとしたとき、不意に女の目尻の皺が消え、その涼し気な切れ長の目がひっそりと開かれてあやしい瞳がこちらを映す。そうしてゆるやかな動作で女の腕がこちらへ伸び、手のひらが向けられた。



「あなたも同じでしょう?」




そう言った彼女の指先が眼前に迫って、その手のひらを介した先の彼女の瞳が、どこか遠く私自身も知らない私の隅々までを見透かしているようで、慌ててその手のひらを掴んで彼女の腕を下ろした。そんな私の行動に彼女は一度目を軽く見開いたが、すぐにあの貼り付けたような笑顔に戻る。


「すみません。占いはお嫌いでしたか?」


「嫌いじゃないけど……あまり信心深くないので。いいことは信じるけど悪いことなら信じません」



「それもいいですね。悪いことにばかり気を取られていてはいいことを楽しめません。一度決まった運命は変えられないのですから」


「………」


「では、いいことをお伝えします。夕張へ向かってください。きっとあなたたちは探しものを見つけることができる」


「……あなた、たち」


「悪いことはーー、……北へ向かってはいけません。あなたは信じないかもしれませんが、忠告しておきたいのです。北へ向かえばあなたは」



あなたたち、とは、私と第七師団ーー鶴見中尉のことだろうか。夕張、という地名はあの鰊御殿でまんまと逃げ果したけちな泥棒が口にしたものだ。夕張のどこかの家に盗みに入った泥棒が妙な刺青の人の皮を目撃した、と。そのことはすでに宇佐美が鶴見中尉へ報告したし、その手柄があったからこそ再び逃亡疑惑をかけられた私だったが大した仕置きも受けず(宇佐美には指導と称して何十本も背負投げされたが)今日に至るのだが。

ただ、悪いことは。この女の言うことを真に受ける訳では無いが、妙な説得力と偶然にも一致した夕張の地名のせいもあり疑心暗鬼になってしまう。私の方もこの時代に来てから七ツ屋で占い師の真似事をしていたが、それはすべて単に未来の出来事を語り聞かせ、時に客の悩み相談に乗り、いわばカウンセリングのようなものだった。いいことは信じて悪いことは信じないというのは、その実不信心なのではなく、反対かもしれない。統計学でも心理学でもない根拠のない占いが当たってしまうことが怖いのだ。



「……おや、お嬢さん方。こんなところで立ち話かな」



北へ向かえばあなたは。その言葉の続きを聞く前に数メートル先の客間の襖が開いた。そう言いながら中から出てきたのは鶴見中尉で、おそらく厠に立って以降戻らない女を探しに出ようとしたところなのだろう。鶴見中尉の姿を見ると女はやはりあの目を細めた笑顔へと戻り、「帰り道がわからなくなり彼女に案内していただきました」と軽く会釈をして応接間の方へ歩いて行った。
女が何の目的で、そして鶴見中尉もまた同じく、この部屋で会話をしているのかはわからないが、また何か一波乱起きそうなことだけはわかった。この予感もまた根拠のない占いと同じようなものだろうか。そうだといいのだけれど。


閉じてゆく襖の向こう、女がもう一度ちらとこちらに顔を向けた。その伏し目がちな、目尻を朱く彩られたまぶたの奥の瞳と視線がかち合う。そして彼女は小さく唇を動かした。その薄い唇が形作った言葉は、私には「し、ぬ」のように見えたのだった。



12062023



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