「第七師団だ!アイヌの舟を奪って追ってきたッ」




白石の言葉に振り返ると彼が指差す先にはたしかに鶴見中尉を先頭に小さな舟を漕ぎ始めた兵士たちの姿があった。約二百メートルほど先で春の日射しに照らされた鶴見中尉の小銃がきらりと光る。けして遠くはない距離。エンジンを搭載したボートならまだしも、こんな小舟で、加えて辺見の相手をしながらでは直に追いつかれてしまう。こちらを見据える鶴見中尉と目が合った気がして慌てて白石の背中に隠れた。



「ちょっ!!白石!!もっと人質感出してよ!!また逃亡したと思われる!!!」


「人質感ってなに!?」


「私に任せろナマエ。要は身の危険を知らせればいいんだな」


「いだだだだ!!!ちょっ!!首締まってるがらアジリバざん!!!」



白石の背中のもこもこの半纏を掴んで抗議すれば尤もな突っ込みが飛んでくる。そんな私の言葉を拡大解釈したアシリパさんは良かれと首輪についた手綱を引くが、妙に楽しそうなのはただ引っ張ってみたかっただけとかそんな理由ではないと願いたい。
そんな私たちを尻目にすでに瀕死なはずの辺見の体はシャチの尾により何度も宙に投げられ、海面へと叩きつけられる。成人男性をまるで玩具のようにもて遊ぶ体の大きさと相反する無邪気さ、そして圧倒的な力は野生動物の脅威を改めて感じさせた。自分がつい先日熊に襲われかけたことを思い出し身震いしていると隣で杉元が徐ろに外套を脱ぎ始めた。「このスキに取り戻すしかねえ」そう言いながら躊躇いなく着物を脱いでゆく男に信じられないものを見る気持ちでわなわなと唇が震える。


「ま、まさか飛び込むの…!?春って言っても、四月の北海道の海だよ!?」

「うるせぇチクショウ!!!オイ、止まるなよ俺の心臓ッ」

「………」


「アシリパさん見ないでッ!!」


身につけていたものを全て脱ぎ捨てた杉元の体はやはり何度見ても緊張が走るようなおびただしい数の傷跡や銃創が残っていて。思わず息を飲んだ私とアシリパさんの視線の間で杉元の股間が揺れる。とても真剣な眼差しで目隠しをした指の間から覗き見るアシリパさんは好奇心旺盛で素晴らしいと思う。
そんな一瞬不思議な空気が流れた舟の上だが、杉元の足が力強く甲板を蹴った衝撃とともに一度ぐらりと舟が大きく揺れると、側で激しく水しぶきが上がった。辺見和雄を、否、彼の持つ刺青をシャチから取り戻すため、杉元は極寒の北海道の海に飛び込んだのだ。


「………」

「…………」


「……あっ、!!」


「ぶはっ、」


体感で三分もなかったように感じる。再び水面に顔を出した杉元はその脇にしっかりと辺見の体を抱えていた。慌てて白石とともに手を差し出すと冷たく大きな手が痛いほどに力一杯こちらの腕を掴んで思わず体ごと持っていかれそうになる。反対側に体重をかけろ!、白石のその言葉に頷き舟が傾かないようバランスを取りながらなんとか二人の体を引っ張り上げる。そしてようやく杉元が上体を舟の上へ乗せた時、その背後にはまるで某サメ映画のようにシャチが今にも襲いかかろうと水面からその背びれを覗かせていて。
万事休すか、と思ったその時、青みがかった黒髪が掲げた矢じりとともにきらりと光って風に揺れた。その小さな足が、しかし力強く船首に叩きつけられて、彼女はーーアシリパさんは両手で抱えた銛を大きく振りかぶると、その背中でふわりと揺れる毛皮の動きとともに迫りくるシャチの頭部へぶん投げたのだ。



「引っ張られるぞっ、つかまれっ!!」




突き刺さった銛はその先端と舟の船首とをロープで繋ぎ、パニックからか勢いよく泳ぎだしたシャチに引っ張られた舟もまた急加速する。アシリパさんの忠告虚しく反動でまんまと転がった私と杉元は舟の後方に強かに頭をぶつける。



「ギャーー!!汚いモンくっつけてんじゃねえ!!」


「うっせ鼻水くれーいいだろが!!」

「鼻水じゃねえよ下を見ろ下を!!」



海水まみれの全裸男の下敷きになった私は鼻水以上に嫌なものを引っ付けられて全力で杉元の体を押し返す。そんな私を意に介さず杉元は鼻水を垂らしながら「このまま第七師団をまいてやろうッ」と息巻く。私が舟の小縁から半分ほど頭を出して後方を確認すると、恐ろしい鶴見中尉の姿はどんどん小さく遠ざかっていった。水しぶきを上げる海水が時折頬を叩きほのかに塩っぱい味がする。ようやく体勢を立て直したらしい杉元が自分の首にマフラーを巻き、少しずつ身なりを整えてゆく。そんな私たちの間にはすっかり生気を無くした、しかしどこか幸福そうな顔をした連続殺人鬼こと辺見和雄が甲板に転がっていた。そうして帯革に装備した銃剣を抜き出した杉元は、これからこの男の皮を剥ぐのだ。



「おまえの煌めき…忘れないぜ」



そんな呟きは波音の中に消えてゆき、再び二人にしか理解できない世界観を醸し出す杉元に、前方からはアシリパさんと白石の白い目が向けられるのだった。











辺見和雄……もとい彼の刺青と私たちにピンチをもたらしたのはシャチだったが、私たちを第七師団の脅威から救ってくれたのもまたシャチだった。まるでモーターボートのエンジンのように、私たちの舟を猛スピードで第七師団から引き離し、そして力尽きたシャチは今打ち上がった海岸にその巨体を横たえている。アシリパさん曰く、どうやら私たちを迎えに来た近くのコタンのアイヌたちの舟に驚いたようだ。
レプンカムイと呼ばれるその海の神様は、山で暮らすアシリパさんたちは食べることがないらしいが、こうして浜に打ち上がったものは食べるのだという。シャチなんて、現代ではテレビか水族館でしか見たことがなかったが、こうして太陽光に照らされるとちょっと茄子に似てるな……なんてまだ口にしたことのない食感を想像してみて微妙な気持ちになった。



「……にしても、アンタも中々悪運の強い女だな。俺はてっきり今ごろ鶴見中尉に家畜の餌にでもされてると思ってたぜ」



アシリパさんの獲物の解体作業を見て多少耐性がついたとはいえ、やはり巨大なシャチを大きな刃物を用いて大人数人がかりで解体する様はわりと衝撃的だ。黙々とバラされてゆくシャチを見守っていると、不意にそう声をかけられた。声を、というか皮肉を。隣を見ると今はしっかり服を着込んだ杉元が同じくシャチを捌くアイヌたちの作業をじっと見ていた。



「……杉元こそ。二階堂兄弟とやり合ったって聞いたよ。よく生きて逃げ果せたね」


「ああ。誰かさんのせいでトンデモねぇ目に遭ったがな」


「杉元」


「…なんだよ」



お互い浜辺に目を向けてぽつぽつと交わしていた言葉が、私が彼の名前を呼んだことで一瞬途切れた。ややあって何も言わない私に杉元がようやくこちらへ顔を向けたところで、私の拳は今までにないほど固く握られ怒りのエネルギーに満ちていた。そんな私たちの側では白石とアシリパさんが大量のシャチ肉をやれ鍋にしようだの揚げようだの楽しそうな会話をしていたが残念ながら今の私にはどうでもいいことだ。



「杉元佐一ィィィィイイイ!!!」



「ぶっへ!?!?てめ、いきなり何しやがんだ!?!?」


「何しやがんだじゃねーーよ!!お前、よくも人のこと崖から突き落としてくれたな!?!?」


「は!?………いや、あれは不可抗力で」


「何そのちょっと忘れてたみたいな反応!!!こちとら全治六週間で首輪までつけられたんだぞ!!!」


「首輪は知らねーー!!何そのプレイ!?」



次に杉元佐一の顔を見たら必ず一発ぶん殴ってやろうと思っていた恨み。それをようやく晴らすことができた。いや、ほんとは一発どころじゃ足りないんだけど。そもそも、この男との出会いは最悪で、お互いの第一印象は泥棒とフリチン男である。そんな男に崖から突き落とされ、命の恩人であるアシリパさんには私の死を偽装され……。杉元の方も監禁されるわボコられるわ酷い目に遭ったと首輪を引っ掴んでくるものだから子供が拳を振り回すような情けない喧嘩に発展した。


「ちょっとちょっと!!二人とも何喧嘩してんのやめなぁ!?」


「杉元、ナマエ!!いい子にしないと竜田揚げやらないぞ!!」



「「だってコイツが先に殴って(突き落として)きた!!!」



「………」


「アシリパちゃん……」


諭す白石と叱るアシリパさんを尻目になおもいがみ合う駄目な大人たち。そんな私たちにやれやれ、と肩をすくめたアシリパさんの手元にスッ、と屈んだ白石がとある木製の棒を差し出す。長く、太く、そして妙な凹凸が並んだ禍々しい棒は大きく振りかぶったアシリパさんの手により未だ小競り合いをする私たちの脛、弁慶の泣き所と呼ばれるその場所に強かに打ち込まれた。たったそれだけの衝撃で喧嘩の余韻など何処へやら、崩れ落ちた大人二人が浜辺を転げ回ることになるのは仕方のないことだ。



07062023



prev | index | next

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -