「……全く、鶴見中尉殿は何を考えているのだ。貴重な人員をあんな、一介の小娘の見張りに割くとは」


不満とともに吐き出した二酸化炭素は熱を持って白く色づく。少し前までは歩く度小気味良い鋲の音が軍人たらんとした軍靴は今は踏み締めるたび手応えのない雪の中へ埋まる。凍てつくような寒さは何度経験しても慣れることはない。他に故郷を持つ兵士の多くは冬が訪れる度懐郷心を募らせた。それもまた幾ら戦場で互いに命を預けて戦った同志であれ、一枚岩と成り切れぬ要因ではないのか、と尾形百之助は考えた。そして同志、という自らが選んだ言葉を内心鼻で笑った。



「懇ろな間柄なのでは?」

「そんな私情を挟んでいたのなら益々中尉殿にはついて行けんな」

「……冗談はさておき、あれほど鶴見中尉殿が目をかけているのだ。娘の身柄がこちらへ渡ればいい交渉材料になるやもしれん」


「……」


交渉材料、とは企てた造反が失敗に終わった時の保険である。そんな岡田、野間、そして玉井伍長の会話を横目に尾形もまた玉井と概ね同意見だ、と考えていた。ただしひとつ決定的に違うのは娘の存在がこちらへ渡れば、ではなく俺へ渡れば、という点だが。尾形はその無言の中にたしかな裏切りの意志を込めた。が、そんなことを他の三人が知るはずもない。一枚岩に成り得なかったのはこの造反を企てる者たちもまた同じであったようだ。


「………」


あの時。月島軍曹や太物屋の証言を元にあの森で女を見つけた時、その三十年式歩兵銃の銃口が狙っていたのは女の足ではなく頭部であった。目障りな女だった。そうでなくとも、目移りの激しいあの人の周囲には常に彼の気を引く何かがあるようで、この女もその内の一人であった。ただ、引き金を引くその指先の動きを止めたのは、鶴見中尉が押収したあの女の私物を思い出したからだ。
奇天烈な機械に、舶来品のような化粧品、萬年筆のようなもの。その中にあった数冊の本。それはあの女が宣う未来から来たのだ、という言葉を裏付けるようなもので、全てを解読することはできなかったがこの先に起こる戦争のこと、歴史的事件を簡単な説明を添えて箇条書きにした読み物だった。その中には鶴見中尉が女に興味を持つ切っ掛けとなった南満州鉄道会社が設立された、という出来事も過去のこととして記されている。その傍らにあったロシア語の本、そして『社会心理学』と冠された本。


心理学。約二十年ほど前に帝国大学で行われた精神物理学の実験が、いわゆる心理学と呼ばれる分野の初めての講義であったらしい。その後明治三十年に入ってからは京都帝国大学でも教えられ、そして昨今は教育学、医学、犯罪学と応用分野の発展が目覚ましい。書物の頁を捲りながらそう説明をする鶴見中尉の表情は読み取れなかったが、その横顔は尾形には見覚えがあった。例えば盤上遊戯における駒が思い通りに動いた時、そこに滲む満たされた支配欲と勝利への確信。



あの女を殺すのは鶴見中尉殿の目の前がいい。そんな思いが、尾形が覗くスコープの先の景色をほんの僅かに変化させたのだった。










「尾形上等兵殿〜〜みかん剥いてあげようか?」




「………」


無心で天井を見上げて数週間、否、約一ヶ月。頭上から見下ろす女の髪が影になって尾形の顔の上で揺れていた。尾形上等兵殿、と顔も見飽きた同僚が時たま誂うように畏まって呼ぶその呼び名を、どこで聞いたのか真似る女は体の調子も、少し前まで痛々しいギプスが嵌められていたその左腕も、すっかり回復したようで尾形のベッドに腰掛けてふてぶてしくみかんを貪り食っていた。その様子に尾形は無言ながらもう一本くらい骨折れればいいのに、と思った。


尾形が再び目を覚ましたのは初めに病院へ運び込まれてから約一週間後のことだった。それ以降は意識もはっきりとし、ナマエとともに彼の体もまた回復へと向かっていった。しかしナマエ以上に重症だった彼は未だベッドから起き上がることができず、それを不憫に思ったナマエはこうして甲斐甲斐しく世話を焼いているのだが、如何せん尾形本人にとっては鬱陶しいことこの上ない。


無視を決め込む尾形にさらに無視を上乗せしたナマエは本人の返事も待たずに剥いたみかんの欠片をぐいぐいと尾形の口へ押し付ける。そんな攻防を繰り広げる二人の背後で聞き慣れた軍靴の足音が一人分。それに反射的に視線を移した尾形の双眸は、ナマエ越しにある一人の兵士の姿を捉えた。



「二階堂……一等卒がお見舞いに来てくれたよ」



入り口の前で敬礼の姿勢を保つその男はたしかにナマエが言葉を濁したように洋平なのか、浩平なのか判断がつかないのは相変わらずだった。しかし、今の尾形には此奴が誰であるか、はっきりとわかる。そしてこの時を待っていた、と思う。そんな内心がうっそりとした彼の笑みに現れていた。特に一等卒、二等卒には不気味だと敬遠されていた尾形上等兵はしかし案外彼の表情は雄弁なのである。



「お加減は如何でありますか」

「ずいぶんいい。入れ、二階堂浩平一等卒」


「はい」


簡単な挨拶を交した後に二階堂ーーもとい二階堂浩平一等卒はナマエの隣を横切り尾形が横になるベッドの足元で歩みを止めた。その間彼の重たい一重まぶたの奥の鋭い瞳は一度たりともナマエを映すことはなかった。そんな様子を横目に、ナマエは何も言わず相変わらずもりもりとみかんを頬張る。ちなみにこのみかんは言わずもがな二階堂浩平からの尾形への見舞いの品である。


「……」

「……オイ、いつまで食ってる席を外せ」


「ええ!別にいいじゃないですか何か聞かれると困る話でもするんですかやらし〜〜」


「……」

「……」


「…ハイハイわかりましたよ」


無言に冷たい視線だけを浴びせられて、ナマエはなんだか打っても響かない奴らだ、と肩をすくめて尾形の言う通りに渋々従った。ナマエとしても、宇佐美上等兵がわざわざ非番の日に訪ねてきた二階堂一等卒、は何か理由があるはずだ、と二人の会話に興味津々なのだが。まあ、一先ずそれは今晩にでも問い詰めよう、と目論みつつナマエは部屋を後にした。


彼女が去った病室には先ほどの比ではない静寂が訪れる。となるとあんな空気の読めない、喧しい奴でも有り難みがわかるものだが、しかし二人の間に遠慮や気不味さといった気遣いの心はなかった。二階堂浩平に関しては本来、案外繊細なところがあったりするのだが、今の彼の心情としてはそんな些末なことはどうでもよかった。



「……で?谷垣源次郎一等卒の居場所は掴めたのかい」

「谷垣は現在小樽の森奥のアイヌの村で療養しているようです。村に男手は少なく家には老婆が一人。出入りしているのは村の子供くらいのものです」

「良し。よくやった二階堂一等卒」


「………」


「決行は翌週の宇佐美が非番の日だ。アイツがいると厄介だからな」


「………」


「どうした、何か言いたげだな。忌憚なく述べてくれて構わんぞ」


あくまで上官としての強気な態度を崩さない尾形と対象的に二階堂の方は普段の物怖じしない姿は鳴りを潜めていた。そんな尾形の言葉に促されるように彼は青白く、少しかさついたその唇を僅かに動かした。


初めに尾形に接触してきたのは二階堂の方だった。『杉元佐一をぶっ殺してやりたい』。そう、ただその言葉だけが現在の彼を突き動かすものだと尾形は悟った。二階堂洋平一等卒が殉職した知らせを聞いたのは、共に造反を企てていた者の内四名が行方不明だと聞かされた少し後のことであった。ふじみ、奇しくも自分が恨みを晴らすため伝えた言葉がこうも上手く逃走の機会を手繰り寄せる手綱になるとは、と尾形は内心ほくそ笑んだ。
元より、造反組の中で二階堂兄弟を誘い入れようか、という声はあった。しかし彼らの結束力の強さは意見が割れた際に厄介ではないのか、との見方もあり谷垣同様保留扱いとされていたのだ。しかし、現状の独りぼっちとなった二階堂の片割れに関しては好都合だ。ミョウジナマエにまんまと転がされたところを見ても、この北海道の地にも過酷な任務にも辟易としているのだろう。加えて血を分けた兄弟の死。彼が復讐の道を選ぶのは想像に難くなかった。



「……ミョウジナマエを、道連れにすべきかと」


「……何故だ?」

「鶴見中尉殿にとってあの女は手元に置いておきたい存在です。造反を企てるのであれば切り札は残しておいた方が良いと考えます」


「本当にそれだけの理由か?二階堂一等卒」



尾形百之助は口元に滲む笑みを隠し切れなかった。こうも上手く、事が運ぶとはツキが向いてきたとはまさにこのことである。二階堂一等卒が言わんとすることは尾形にも理解できた。しかしそれだけが本心ではないだろう?と突付きたくなってしまうのはこの男の意地の悪いところで。とりわけ谷垣源次郎や二階堂浩平といった、内心にどこか純粋さを宿している人種にはどうにも、その顔が苦悩に歪むのを見てみたい欲望が芽生える。


「……それ以外に何がありますか、尾形上等兵殿」


「いや、聞いてみただけだ。そんなに怖い顔をするなよ二階堂」


「……」


「いいだろう、女は俺が連れて行く。お前は安全な逃走経路を用意しろ。いいな」


「はい」


少し言い淀んだ後二階堂はあくまで白を切る。そんな様子も健気で、尾形は性の悪い笑みを抑えることができなかった。
尾形の記したふじみ、の文字により杉元佐一が拘束された。それはミョウジナマエの逃亡を手助けした人物を炙り出し、同時に二階堂洋平一等卒の死を招いた。部下を殺害され、あまつさえ逃亡を許した鶴見中尉の心中はいかばかりか。地の果てまでも追い詰めて杉元佐一を殺す心積もりであるのか、それとも利用価値有りと判断した場合泳がせよく肥え太ったその時に捕食するのか……。どのみち、あの女の存在は鶴見中尉にとって尾形たち造反組と同様いい交渉材料でしかないのだ。煮るなり焼くなりお好きに、利用価値無しと判断した場合無下に殺されるのが関の山だろう。


ほんとうはそんな女を残していくのが忍びないのだろう?



「美しい兄弟愛だな」



騙され、裏切られ、あまつさえ平気な顔をして笑う女を前にしても二階堂はその情を捨てきれずにいるのか。情と言うよりももはや、彼の中に残った唯一の穢れない感情に縋りたいだけなのかもしれない。
これは好都合、と尾形は少し優しい顔をして笑った。


01112022



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