「……………いや、これ夢じゃねえな」
大気汚染なんて言葉はこの時代にはなかっただろう。黒煙とともに走り抜けていった汽車をぼんやりと見送ってから数分後、どうにも醒める気配のない夢に現実味が帯びてきた。ベタに頬をつねっても痛い。周りを歩くのは大半が和装の人間で、彼らはこちらを訝しげに見ながら通り過ぎてゆく。ちなみに今の私の格好はパンプスにスキニーパンツ、そしてノースリーブのトップス。そう、ノースリーブ。
めちゃくちゃ寒い。大学の図書館にいたときとは比べ物にならない寒さに正気に戻り、慌ててカバンの中からカーディガンを取り出したものの、初夏の気温ではない。
どうやら私は駅の待合室で寝こけていたらしく、外に出るとその街並みはいわゆる和洋折衷というか、日本の大工が西洋の技術を取り入れた擬洋風建築と思しき建物が目につくところに多くあった。それでいて人々の装いは自分のそれとはまるで違う。
「……………(タイムスリップ………………いや、そんなことあるか……………………?)」
この寒さだというのに変な汗が止まらない。そもそも、タイムスリップとは青い猫と一緒にタイムマシンに乗ったり、車に轢かれたりなにか切っ掛けとなる出来事があって起こるものだと数々のファンタジーから学んできた。それなのに。なんで歴史嫌いの平凡な女子大生をよくわからん(おそらく)北国へタイムスリップさせるんですか。
見慣れない街並みを前に再びフリーズした私はひとまずどう行動すべきか考えていた。ええと、こういうときよくあるのは新聞を見たり……今の年号と現在地を知ることだよな……。日本であることは間違いなさそうだし、言葉は通じるだろう……それから至急上着を用意して……その前にお金の工面もしなければ……カードも現金もおそらく使えないだろうし、
「アンタ外国人?なんか困ってんのか?」
果たしてどう金を工面しよう、そう考えあぐねていた私の肩にぽん、と無遠慮に大きな手のひらが乗った。こんな状況ということもあり思わず大袈裟な反応をした私に声の主もまた「うぉっ!?」と飛び退いた。お互いドキドキしながら相手を確認すると、そこにいたのは坊主頭のもっこりした半纏を纏った男だった。男は目が合うと驚いた顔から再びにやり、とうさん臭い……もとい気のいい笑顔を向けて見せる。
「外国人……私は外国人なんでしょうかそれすらわかりません」
「おうだいぶ困ってんな」
「今は西暦何年何月何日ですか。そしてここはどこですか」
「太陽暦のこと?えーー、一九○六年六月十八日……場所は北海道、小樽」
私の支離滅裂な問いにも男は変な顔をせずに律儀に答えてくれる。初見うさん臭いと思ったけど普通にいい人なのかもしれない。それに何より周囲の人間が警戒するような私に自ら声をかけてくれた人だ。その勇気というか、懐の深さには感謝したい。
が、今の問題はそこではない。申し訳ないがこの男への感謝の気持ちだとかはその答えを前に吹っ飛んだ。一九○六年。北海道。小樽。いやなんでそうなった。
日付自体は私がいた現代のものと同じだが、およそ百二十年近く前の時代である。その上北海道は小樽。たしかに私は居眠りする前歴史書を読んでいたけど……だからといってなんで北海道???
「オーーイネェちゃん大丈夫か」
「いや………大丈夫………ではない………」
「見たところ妙な格好してるが日本語は堪能だし外国人じゃないのね?……ところでそのカバン、動物皮のようだがずいぶんキレーーな色に染めてんなァ。どこで手に入れたのそれ」
「え?」
再び放心する私の前に手をひらひらと翳した男はふむ、と顎に手を当てて品定めするような目をした。私の頭の天辺からつま先までを舐め回すような視線は不快だ。そうして私が肩に掛けていた、黒のハンドルにターコイズブルーのレザーバッグに目をつけると猫なで声で強請るような視線を向けてくる。なるほど、助けたからには見返りを寄越せってことか……。
「……どうやら私は外国人じゃないみたいだけど、この時代の人間でもないみたい」
「………まさか未来から来たとでもいうのかい」
「そうみたい……信じられないけど。このカバンは普通にお店で購入したものだよ。牛革を染めたものだけど……この時代にはたしかにこんな鮮やかな革製品はないかもね」
「………」
私がそう言うと、男はさっきまでお喋りだった口を閉じ、半信半疑といった風情でそのカバンを睨みつけている。この男の反応はまだいい方で、普通の人間なら何を世迷い言を、と一蹴するだろう。私はこの男だったら少しは信用できるし、助けてくれるかもしれない、と話を持ちかけた。
「ねえ、お金を作りたいんだ。協力してくれたら少しはお礼するよ。お兄さん、お腹空いてるんでしょう?」
この男が私に声をかけたのは外国人か、資産家、良家の娘か何かと思い恩を売りたかったのだろう。和暦だと明治末期、まだまだ洋装は一般庶民に普及していなかったはずだ。そんな金持ちに恩を売りたかった理由は、この男自身も生活や食べることに困窮していたから。私の言葉に刺激されたように鳴り出した腹の虫を抱えて男は少し考えた末に首を縦に振った。
「私はミョウジナマエ。お兄さんは?」
「俺は白石由竹。泣く子も黙る脱獄王だ!!」
「脱獄……?」
「アッ……待って……今のナシ、聞かなかったことにして………」
お互い自己紹介をしたタイミングで絶対言ってはいけなかったであろう事実をポロリとこぼしたドジっ子な白石由竹と、私はこの明治末期の北海道は小樽の地でひとまず生活の術を見つけなければならなかった。
21082022