(LOL)事件から数日がたった頃。あれ以来特に目立った事件もなく、平穏な日々を過ごしていた私。カレンダーは6月に入り、梅雨の少し湿った空気が漂う。

私は放課後、バイトの帰りに家とは反対方向の通学路を歩いていた。昨日は雨が降ったから、ところどころ水たまりがあるのに気をつけながら。
霊幻先生が書いてくれた簡易の地図を片手に、もう片方の手にはみぞおちスーパーのビニール袋が揺れる。その中には赤とオレンジ、二色のフルーツがぼんやり姿を表している。


「……あ。ここだ。」


立ち止まった先にあるのは住宅街の中の一軒のお家。なんの変哲もないそこは、バイト先の先輩であるモブくんのお家だ。

私はメモを制服のポケットにしまって、一呼吸置いてインターホンを鳴らした。霊幻先生曰く、どうやらモブくんが風邪を引いたらしい。私は先生に言われてそのお見舞いに来たというわけだ。

とは言え、こうしてモブくんのお家にお邪魔するのは初めてだし、ご両親が出たらどう挨拶しようかなんて緊張してしまう。私はひとつごくりと唾を飲み込んでインターホン越しに返事があるのを待った。すると、ややあってガサガサとしたノイズのあとに声が聞こえる。


「……はい。どちら様ですか?」

「あっ、初めまして……モブく……えっと、茂夫くんのバイト先の後輩ですけど……」

「……バイト先の……?」


インターホン越しに聞こえたのは男の子の声。声変わりの途中の、少年っぽい声だ。と考えてそういえばモブくんには弟がいたことを思い出す。
ご両親と話すより少しは緊張がほぐれるけど、それでも初対面の人と話すのは苦手だ。たとえそれが自分より年下の中学生でも。そんな私は相変わらずドキドキしながら言葉を紡ぐ。


「は、はい。あの、茂夫くんが風邪引いたって聞いたのでお見舞いに……」

「……そうですか。ありがとうございます。少し待ってください」


なんだかずいぶんしっかりした弟さんだ。そう言って切れたインターホンの前でそわそわしながら彼が出てくるのを待つ。
少しして、ガチャリと開いた扉から出てきたのは、ずいぶん爽やかなイケメンの弟さんだった。正直、モブくんとはあんまり似てないけど、それでも目元とか空気が似てる。これが、モブくんの弟さん……と感慨深げに思っていると弟さんが門の前まで歩いてきてくれた。


「あ……初めまして。ミョウジナマエです。モブくんにはいつもお世話になってます」

「初めまして。弟の律です。こちらこそ兄がお世話になってます」


お互い自己紹介して軽くぺこりと会釈をする。何度やっても初対面のこの雰囲気は苦手だ。どことなくくすぐったい。そう考えつつもとりあえず持ってきたお見舞いの品を渡そうと門越しにビニール袋を手渡す。


「あの、これお見舞いのりんごとみかん……霊幻先生が持たせてくれたんだよ」

「……わざわざすみません。ありがとうございます」


私より長い付き合いの霊幻先生とモブくんだから、当然弟さんにも師匠の話はしているだろうと思って名前を出してみたけど、彼の反応は微妙なものだった。しかし手渡したフルーツは爽やかな笑顔で受け取ってくれた。なんというか、表情や受け答えもモブくんとはまるで違うなあ、と感じる。


「モブくんの具合どうですか?」

「ええ、そんなに大した熱じゃなかったし、明日の学校は行けると思います」

「そうですか、よかった!じゃあ、フルーツも渡したし私はこれで……モブくんにお大事にって伝えてください」


「あれ、もう帰るんですか?」


「えっ……?」


どうやらモブくんの具合も良くなっているようで、安心して家に帰って霊幻先生に報告しようと思った矢先、予想外にも弟さんに呼び止められた。
踵を返す途中だったその足を止めて、門の向こうに向き直る。弟さんは特に何の表情もなく、淡々とした視線を私に向けて問うた。その目はとてもモブくんに似ているなと思った。


「せっかくだし兄さんに会って行ってください。きっと兄さんも喜びます」

「え……でもご迷惑じゃ、」

「今ちょうど両親ともにいないので。気兼ねなくどうぞ……」


そう言ってギィ、と門が開かれる。私は少し迷って視線をあたりにうろつかせたのち、小さく頷いてその敷居を跨いだ。ほんの少しだけ、モブくんに挨拶をして帰ろう。弟さんもこう言ってくれてるし、そうだ、今朝学校で話題になった黒酢中上空の怪奇現象の話でもしよう。そんなことを考えながら促されるまま敷地の中に入る。


「じゃあ、お邪魔します……」



背後ではガシャンと音を立てて門が閉められた。




















「……えっ!?ナマエさん……!?」


「こんにちは、モブくん。お邪魔してます……」


案内された部屋の扉が開けられて、おずおずと入るとぼんやりしたパジャマ姿のモブくんがいた。しかしその目は私の姿を見つけるとみるみる丸く大きく見開かれる。そして慌てて部屋の中をキョロキョロ見回していた。そんな姿に急にお邪魔してごめんよ……と申し訳なさを感じる。


「兄さん、ミョウジさんがお見舞いにフルーツ持ってきてくれたよ。りんごとみかん」

「わ、ナマエさん……ありがとうございます……」

「ううん。私こそ急に訪ねてごめんね……フルーツ、先生が持たせてくれたんだよ」

「師匠が。あとでお礼のメールしなきゃ……」


初めこそわたわたしていたモブくんだったけど、弟さんが説明してくれて私が先生の名前を出すと次第に表情がやわらかくなる。弟さんの言う通り、あんまりひどい風邪じゃないようで安心した。私もモブくんにつられてホッと笑顔になった。


「じゃあ、僕はせっかくもらったしりんご剥いてくるね。みかんは部屋に置いとくから」

「あ……ありがとうございます」

「律、ありがとう。」


そんな私たちの姿を見届けて、弟さんはりんごを二つ持って部屋を後にした。そんな彼にお礼を行ってその後ろ姿を見送ると、とたんに静かになる部屋。私はなんとなくモブくんの方に視線を移すと、ばちりと見事に目が合う。どこか気まずい空気が漂って慌てて適当な言葉を探した。


「あー、えっと。風邪、治ってきたみたいでよかったね」

「は、はい。ありがとうございます……」

「昨日雨降ってたしね。季節の変わり目だから私も気をつけないと……」

「……」


「あ、昨日と言えば今朝のニュース見た?黒酢中上空の怪奇現象の話題で調味市は持ち切り……って、モブくん……?」


「……」


私の言葉を聞いて急に黙り込むモブくん。え、何か変なこと言ったかな私……とモブくんの反応に不安になる。モブくんは少しの間うつむいていたけど、やがて顔を上げるとぽつぽつと言葉を並べ始めた。


「……実は、あの怪奇現象、僕のせいなんです」

「え……」

「昨日、その……黒酢中の子と喧嘩しちゃって。その子も超能力者で。気づいたらあんなことに……」

「……(モブくんが喧嘩……超能力者……?)」


そんなモブくんの突然の告白に少しの間情報が処理し切れず頭の中に断片的な言葉がぐるぐる巡った。モブくんは自分の意志とは関係なしに起こしてしまった超常現象にとても悔いているように見えた。布団の上でぎゅっと手のひらを握りしめて、何かに耐えるように強く肩に力を入れている。


「……僕、約束したんです。」

「約束……?」

「約束したんです、師匠と。超能力はけして人に向けて使わないって」


「……」

「だけど、できなかった」



淡々とした言葉が、少し震えて尻すぼみに消える。昨日は雨が降っていた。その雨の中、モブくんは傘もささずに濡れて帰ってきたのだろうか。やるせない気持ちを抱えながら。

モブくんと初めて会った時、彼は私の能力を見て「人に向けてもいい能力」だと言ったことを思い出す。その言葉には自分の超能力に対する恐怖や後ろめたさを孕んでいたのだと今になってわかった。


「……」


私は静かにモブくんの隣に腰を下ろすと、その背中にそっと手のひらを添わせた。ぴくりと肩が揺れる。その背中をゆっくりと優しく上下に撫でていった。モブくんは何も言うことなくこの私の行動を受け入れていた。

手のひら越しに伝わってくる、あたたかい体温。まだ熱があるのか、ほんのり平熱より高い気がする。その背中は発展途上の男の子のごつごつとした背骨や肌の手触りを感じるけど、まだまだ小さく頼りないものだ。そんな背中に背負っているものはとてつもなく大きい。同じ超能力を持つ者として、仲間として。少しでもその荷を分け合えたら。


「……私も、あるよ。自分の力が怖くなること」


「え……?」


「コップが割れてもなおせばいい。誰かが怪我してもなおせばいい。それってすごく怖い考えだと思う。だってその過程にある痛みは無視してるから。」


「……」


「いつか私の感覚が麻痺して、その痛みに目を向けられなくなったら……そう考えるとたまに怖くなる」


強大なパワーを持つモブくんに対して、私ができることは、言えることはたかが知れてる。人の悩みがそれぞれ違うように、同じ超能力者でもこんなに異なるのかと思わされる。それでも、一人じゃないよと伝えたい。

霊幻先生との約束を破ってしまったと自責の念に駆られるモブくんの気持ちは計り知れない。けれど超能力にいい面も悪い面もあるように、100%の完璧なんて存在しないんだ。間違いや後悔があってもおかしくなんかない。だからどうか、そんなに一人で苦しまないで。


「……モブくんは、一人じゃないよ。」


考えて考えて、絞り出した言葉がこんなものだなんて笑ってしまう。けれど、今の私にはこれが精一杯だった。
私の言葉に顔を向けたモブくんは、その握りしめていた手をやわやわと解いた。普段はじとりとした目が丸く見開かれ、同時にその肩や背中からも力がほんのり抜けていくのを添えていた手のひらから感じた。



「……ナマエさん、怪我、少しあと残ってる……」



ぽつりと一人ごちるように呟いたモブくんは、何を思ったかそっと私の顔に手を伸ばした。そんなモブくんの行動に今度は私が目を丸くする番だった。モブくんの手のひらは私の頬に優しく触れて、その意外にも太くて立派な親指が私の目尻を撫でる。そこであ。と思い出す。そういえば(LOL)事件の時に鍵を投げられて目尻を怪我したんだった。その他にもカニバリストの殺人鬼に負わされた足の傷や、階段から転がり落ちた時の青あざなど、ほとんど消えてはいるもののほんのりあとが残っているものもある。

そう、この痛みや傷跡を忘れちゃ駄目なんだ。だからこそ私の傷はなおせなくていいんだ。



「……ナマエさんがそんなことを考える日は、来ないと思います」


「……そうかな。そうだと、いいけど」


「そうですよ。僕、わかります。予知はできませんけど」


そう言ってモブくんは、やっと笑ってくれた。その笑顔にほっとする。ほんの少しでも、彼の心が軽くなるといい。心からそう思う。

私も今後モブくんが、故意に超能力で誰かを傷つける未来なんて来るわけないと思うよ。けれど、モブくんが私を信頼して言ってくれた言葉を100%信じることができないように、自分を信じることが案外一番難しい。だからこそ、そんな時は思い出してほしい。霊幻先生や、私がいること。一人じゃないってこと。


そんな気持ちを込めて私も笑った。落ち込んだ空気がほんのりあたたまる感覚がして、ほっと一息つく。そこで私は馴れ馴れしくもモブくんの背中に添わせたままの手に気づいて慌ててそっとそれを引っ込めた。モブくんもそんな私にハッとたように謝罪の言葉とともに私の頬から手を離す。



「……あ。ご、ごめんなさい……急に、その」


「う、ううん……私こそ急に変なこと言って、ごめんね」



今度は私が部屋に来たばかりの、あの気まずい空気が流れて、ころころ変わる場の雰囲気に目を回しそうになる。どちらともなく目をそらした私たちだったけど、ふいにモブくんがちらりと上目がちに意味あり気な視線を向けてきてどきりと心臓が鳴る。


「……なんだか、変な感じですね。ナマエさんが僕の部屋にいるの……」


「え……そ、そう、だね……」


改めてしみじみと言われてこの場に異端なのは私の方だと自覚させられて更に居心地が悪くなる。意味もなくキョロキョロと視線を部屋の中に向けるも、物の少ない簡素なそこには少年漫画雑誌やゲームなど、男の子の部屋であることを感じさせるものが散りばめられていて余計に緊張感が増しただけだった。


「……あ、あれ、そういえばエクボは?」


焦った私が苦し紛れに言った言葉は、自分で言ってそういえばほんとにエクボの姿が見えないぞ、と疑問に思った。モブくんに取り憑いたと聞いてから一週間以上、片時も離れずモブくんに何やら不穏な取り引きを持ちかけていたのに。そんな私の質問にモブくんは少し表情を曇らせてああ、と呟いた。


「実は、エクボも昨日の喧嘩に巻き込まれちゃって……」


「そうなんだ……?」



「それで、そのあと探したんですけど結局見つからなくて……まあ、悪霊だしもしかすると取り憑くのに飽きてどこかに行っただけかもしれないけど、」


「そっか……」


エクボまで巻き込む喧嘩って、あの超常現象からも想像つくけど相当激しいものだったんだろうな。
モブくんはそう言ったものの、ほんの少し心配そうな、寂しそうな表情をしていた。確かに悪霊だし、気まぐれに嘯いては勝手に姿を消してもおかしくないけど、私も奴には借りがあるしな……と考えて少ししんみりする。モブくんも同じような、複雑な気持ちなんだろうか。



「……そういえば、律遅いね」

「あ。ほんとだ。たしかりんご剥きに行ってくれてるんだよね……?」


「はい。ずいぶん時間がかかってるなあ」


「私、見てくるよ。キッチンの場所教えてくれる?」

「すみません……階段降りて左手の扉の向こうです」


「わかった。見てくるね」



そんな空気を打ち消すように思い出したようにモブくんが言った。あまり悪霊に深入りしてはいけないのかもしれないけど……私も帰り道探してみよう、と考えて立ち上がる。
モブくんの言う通り弟さんはずいぶんりんごを剥くのに時間がかかっているようだ。風邪のモブくんに様子を見に行かせるのは悪いと思いキッチンまで行ってみることにした。申し訳なさそうにするモブくんに小さく笑いかけて部屋をあとにする。本当は緊張で居た堪れなかったから丁度良かった、なんてそんなことは悟られないように。






















「弟さん……えっと、律、くん……?」


「ミョウジさん、」


モブくんに言われた通り階段を降りて左手の扉の先にはリビングとキッチンがあった。そこでまな板に向かう弟さんの後ろ姿を見つけて恐る恐るといっま風情で声をかける。名前を呼んでいいのか、少し迷ったけど弟さん、なんて言い方は少し変だしあまりにも他人行儀だ。

私の声に弟さん……律くんも私の名前を呼んで振り返った。その手には包丁が握られておりまな板の上にはところどころ千切れたりんごの皮が散乱している。その様子にいまいち上手く剥けなかったのかな、と思う。なんだかとてもしっかりして見えてなんでもそつなくこなせそうなイメージだったけど、この子もちゃんと年相応の男の子なのだとどこかほっとしてしまって笑がこぼれる。


「よかったら私に剥かせてくれる?」


「……すみません、お願いします」


そっと律くんの元へ歩み寄って訊ねると、彼は申し訳なさそうにそう言った。その姿に弟がいたらこんな感じなのかな、なんて考えてしまう。初対面の頃はモブくんに対しても同じ気持ちだっけど、様々なことがあって今ではモブくんは弟と言うより仲間、とか対等な関係に思える。

反対に初対面時は同世代と接するような感覚だった弟さんだけに、こうして年下の男の子、という一面を見せられて律くんにはどこか庇護欲のようなものが湧いてしまった。けれどそんなことを言ったら難しい顔をされそうだ、と考えてまた少しおかしくなる。なんというか、さっきの反応を見てもプライドが高そうな印象を受けたから。


そんなことを考えつつ私は律くんから包丁を受け取って残りのりんごの皮を剥いていく。芯や種もとって、少し歪になってしまった形を形成する。隣でその様子をどこか感心するように見つめている弟さんに目を向けると声をかけられた。


「……上手ですね、」

「ほんと?ありがとう。あ、律くんはおろし金で皮むいたやつおろしてくれる?」

「兄さんの分ですね。わかりました」

「指おろさないように気をつけてね」


そう言うと少しの間キッチンの周辺をガタガタと漁っていた律くんだったけど、ようやくお目当てのものを見つけたようでさっそく皮をむいたりんごを片手に作業に取り掛かろうとする。私は手近にあった器をことりとその下に置くと律くんはお礼を言った。


「……ミョウジさんのこと、兄さんからよく聞いてます」

「えっ……モブくんが私のことを……?」

「ええ。優しくて、とても頼りになる素敵な人だって兄さん言ってましたよ」

「ええ!?そ、そんな褒められ方したら……照れるなあ……」


思いがけず律くんから聞いたモブくんの言葉に、恥ずかしさを隠すように無駄に笑って見せる。そんな話をする律くんもりんごをおろしながら小さく笑っていた。なんだかすごく不思議な気分だ。初対面のバイト先の先輩の弟さんと、こうして並んでキッチンでりんごの皮を剥いてるなんて。
そんなことを思いながらも私もこんな時だからこそ、とモブくんや先生に対する本音が口からこぼれ落ちた。



「……でも、モブくんや霊幻先生にはほんとに感謝してる。何の目標もやりがいもなくただ毎日を浪費してた私を拾ってくれて、自分の能力を生かせる場所を与えてくれた。たくさん助けてもらって、たくさん楽しい思い出ができた」

「……」

「お兄さんには内緒だよ、恥ずかしいから」


思わず気恥しいことを言ってしまってへへ、とへらりとして笑う私に律くんは黙って視線を向けていた。そんなことを喋っているうちに残りのりんごもすべて皮を剥き終わった。律くんの方も無事にモブくんの分のりんごをすり下ろせたようで、声をかける。


「あ、ごめん律くん。大きめのお皿ってある?切ったりんご入れるやつ」


「はい。ちょっと待ってください」


私がそう言うとすぐに返事をした律くんは食器棚の方に向かって歩いていって、手近な適当なお皿を持って戻ってきた。それにお礼を言ってお皿を受け取ろうとする。そんな私に律くんはさっきの話の続きだろうか、言葉を続けた。


「……ほんとに、兄さんからはよく話を聞いてます。引きこもりの悪霊を除霊したことも、異常殺人鬼を倒したことも……」



「あ、そうなんだ。そんなことまで……」



さっきの言葉を繰り返す律くんに少し疑問に思いながら手を伸ばした。けれど、その皿は受け取る前に私の指先を掠めてフローリングの床へとナナメに落下していく。……あ!と思った時にはお皿の縁が床に叩きつけられ、無残にもそれは粉々の破片を周囲に飛ばして割れてしまう。そんな事態に焦った私はすぐさま謝罪の言葉とともにその場にしゃがみこむ。


「ごっ……!!ごめんなさい……!!私の不注意で、その……」


「……」


慌てて謝る私の言葉にも律くんは無言でその場に立ち尽くしたままだった。怒っているのだろうか、と少し怯えながらちらりとその顔を見上げると、何の表情もなくこちらを見下ろす律くんの姿がそこにあった。私はひとつごくりと唾を飲み込んで割れた破片に手を伸ばす。

……モブくんの弟だし、超能力は見慣れてるだろうし、いいよね。それに、律くんも超能力者かもしれないし……。そんな言い訳を頭の中で浮かべて破片に触れた。すると無残に砕けた破片が手元に集まり、瞬く間に割れたお皿は元の形に形成されていく。

すっかり元通りになったお皿を手にする私に、黙っていた律くんがようやく口を開いた。けれどその言葉に、私の背筋にはぞくりと冷たい悪寒が走る。


「……聞いてます。ミョウジさんが優しくて素敵な人だってことも、その超能力を使ってたくさんの人を救ってきたことも……」


「……」





「なおす能力を、持ってるってことも。」





「え……っ、」



その律くんの言葉に、思わず声をつまらせる。嫌な考えが頭を過ぎって慌ててそれを打ち消すようになおした皿を掴んで立ち上がった。目の前には私よりほんの少し下にある双眸が、私の目をじっと見つめて視線が絡み合う。どくどくと音を立てる心臓と首筋にじとりとかく湿った汗の感覚に、何かを紡ごうとした唇もわなないて終わる。けれど、そんな私に律くんは困ったような顔で笑うと、皿を受け取って再びキッチンに向かう。


「ごめんなさい。僕の不注意で。でも、ミョウジさんがなおす能力を持ってるって知ってたから、少し安心しちゃいました」


「あ……そ、そう……」


「りんご、剥いてくれてありがとうございます。僕一人じゃきっとできなかったので助かりました」


「う、ううん。全然……」


そう言いながらお皿にりんごを並べる律くんに、私は緊張の糸が切れたようにほっと息を吐く。そんな彼に何を馬鹿な考えを、と思い直したけれど、それでもやっぱり心臓はまだどくどくと嫌な音を立てて忙しなく動いていた。


まさか。まさか律くんが、私のなおす能力を知っていて、わざと皿を落としたなんて。


そんな馬鹿なこと、あるはずないんだ。



「……あ。りんご、褐変しちゃってる」



ふいに視線を向けるとモブくん用にすりおろしたりんごはもちろん、お皿に並べられたものもすべて茶色く褐変してしまっていた。あまり鮮度のいいものではなかったようで、塩水に漬けておけば良かったなと考える。



「大丈夫ですよ。味は変わりませんって」

「うん……」


まるで何事も無かったようにあの爽やかな笑顔を向ける律くんに、曖昧な笑みを浮かべる。そうだよ、そんな馬鹿なことあるはずないんだ。そう自分に言い聞かせて、私たちは無事に剥き終わったりんごと器をお盆に乗せてモブくんの部屋へと戻った。






















「今日はありがとうございました。フルーツとか、色々。」


「ううん。こっちこそ長居しちゃって……モブくんに、お大事にって伝えてください」


「わかりました」



あれからモブくんの部屋でりんごを食べた私たちは、少しの間たわいない話をしてそろそろお暇することにした。玄関まで見送るというモブくんを慌てて寝ててと部屋に押し込めて、代わりに律くんがこうして見送ってくれている。ローファーを履いて立ち上がった私が挨拶をすると、続けて律くんも自分のスニーカーを取って履こうとするものだから慌てて止める。


「送ります」

「い、いいよ!悪いよ……モブくんも一人になっちゃうし、」

「じゃあ、そこの角まで」


「ほんとに……ごめんね、ありがとう」


どこまでもしっかりした律くんに、ほんとに中一かと疑いたくなる。律くんが白のスニーカーを履くのを待って(そのスニーカーも白なのにまっさらでよく手入れされていて)、玄関扉を開けた律くんに続いて家を出る。「お邪魔しました、」と誰が聞いているでもないけど告げてモブくん家をあとにした。門を開けて住宅街に出る。



「明日もバイトあるんですか?」

「うん。最近目立った依頼なくて暇だけど……」

「そうなんですか。霊幻さんにもフルーツありがとうって伝えてください」

「わかった。言っておくね」


そんな会話をしながら住宅街を歩く。あたりはほんのり夕日が沈んで夜の色を帯びている。ふいに自転車で通りがかったおばさんに律くんが挨拶するのを見て私もぺこりと頭を下げる。近所の人かな、律くん、ほんとに礼儀正しくていい子だなと思う。

そんな感じで歩いていると曲がり角なんてあっという間で、立ち止まった私たちは顔を見合わせて挨拶をする。今日はなんだか色々あったなあと思う。初対面の人と会うのは気疲れするからかもしれないけど、ずいぶん時間が長く感じられた。けれど、こうしてバイト先の先輩の弟がこんなにもしっかりしたいい子で、いろんな話もできて良かったと思う。そう思った私は笑顔で律くんに言葉を続けた。


「送ってくれてありがとね。モブくんのお見舞いなのにこんなこと言うの変だけど、なんだか楽しかったよ」

「……こちらこそ。わざわざありがとうございました。兄さんがまた元気になったら3人で話しましょう」


社交辞令かもしれないけど、笑顔でそう言ってくれる律くんに嬉しくなる。そんな彼を背にじゃあ、と手を振って踵を返す。目の前に沈んでく夕日を見ながら、りんごの鮮度は悪かったけど、みかんはおいしいといいなあと考えながら歩き出す。すると数歩歩いたところでふいに背後から声がかかる。どうやら律くんがまだ見送ってくれていたようだ。なんだろ、と振り向きかけたところで律くんの言葉が紡がれる。


「……霊幻さんのこと、あまり信用しすぎない方がいいですよ」


「……え、……?」


「それじゃあ、おやすみなさい。」




振り向いた時には、それだけ言ってさっさと踵を返して歩いていく律くんの白のスニーカーの踵だけが曲がり角の向こうに消えていくのが見えた。残された私は夕日に照らされて、呆然としながら言われた言葉を反芻した。

霊幻さんのこと、信用しすぎない方がいい?

たしかに、ハタから見れば霊幻さんは胡散臭い詐欺師に見えるのかも。それに、フルーツを手渡した時に霊幻さんの名前を出すとあまりいい顔をしなかった。律くん、あんまり霊幻さんのこと好きじゃないのかなあ。と考えて少しさみしい気持ちになってとりあえず家路につくためとぼとぼと歩き出す。

それにしても、律くんは賢くていい子だけど、いまいち何を考えてるのかわからないな。何か、不穏な空気を感じて胸騒ぎがしたけど、モブくん同様私にも予知能力なんてものはない。あまり考えても仕方ないか、と無駄な楽観性を発揮した私は今晩の夕飯は何にしようか、と考えつつ夕日に向かって歩いた。



prev | index | next

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -