今日はいい日だ。
昼休み、急いでおにぎりを二つ平らげた私は図書室のカウンターにいた。週に一度のカウンター業務、放課後の書架整理。図書委員である私は返却された本たちを棚番号ごとに平積みにしていた。教室を四つぶち抜いたほどの広さのこの部屋には、数えるほどの生徒だけがそれぞれ本を読んだり、調べ物をしたりと穏やかな時間を過ごしていた。
そんな落ち着いた空気の中、入り口の扉が割と勢いよく開かれた。返却だろうか、とちらりと視線を移したその先に立っていた人物に私は思わず目を丸くする。
鈍い金髪。スポーツに打ち込む学生には珍しいその髪色は時折り、生活指導の教師や部活の先輩にどやされているのを見たことがある。少し油断すればあらゆるところに頭をぶつけてしまいそうな長身。そして表情は豊かなのにどこか威圧感のあるひりついた空気。
そこに佇んでいたのは紛れもない、私の思い人、宮侑くんだった。
侑くんは中へ入るや否や、こちらへ視線を寄越しつかつかと無言で歩いてきた。思わず背筋がびっと伸びる。心臓の鼓動が徐々に速まるのを感じた。
「なあ、月バリある?今月号のやつ。こないだ来たら借りられとったんやけど」
「!!あ、は、はい。たしかちょうど、返却された中にあったと思います………」
そう声をかけられて、平静を装いながらも内心慌てて返却本の山の中を探す。
そうか、図書室に来るのなんて珍しいと思ったら月バリ目当てだったんだ。ありがとう月バリ。ありがとう月バリを定期購読してくれた司書教諭。そう感謝しながら山の中を漁っているとようやく一冊の雑誌を発見した。月刊バリボー。私も彼らの試合を見て、バレーに興味を持ってからは時々読ませてもらっている。
「ありました。これですね。貸し出し希望ですか?」
「おん」
「生徒証をお願いします」
そう言うとあーー、どこやったっけ……、と独り言ちながらブレザーの内ポケットからそれを取り出した。差し出された生徒証を受け取り、その裏面にあるバーコードと、本のバーコードを読み取ってやれば簡単に貸し出し作業は終了する。なんて便利な時代なんだ。
私はいとも簡単に終了してしまったこの時間が、もう少し続けばいいのにと考えてしまう。春高、お疲れ様でした。すごくかっこよかったです。これからも応援してます、頑張ってください。え、それ最早同級生同士の会話じゃない。
あの日やっとの思いで口から飛び出した告白は、二度目は、それも今度こそ本人を目の前にしては、そう簡単に口にできるものではない。ぐるぐると頭の中を巡る思考とは裏腹に淡々と処理を済ませた本が彼の手に渡る。
「返却期限日は一週間後の1月24日です」
「おおきに」
そう言って当たり前だけどさっさと背を向けて去ってゆく侑くん。なにか、せめて一言だけでも。この人の記憶に残りたい。そして伝えたい。そんな切実な思いが私のひりついた喉を震わせた。
「春高、心が震えました。あの試合を観られてよかったです」
考えに考えた末の素直な言葉。あの日、最終セットの終わりを告げるホイッスルがなった後、彼のその結果と向き合う真摯で、そして誰よりも自分自身へ厳しい視線を向ける彼に、感動だとか、良い試合だとか、ありきたりな言葉は浮かばなかった。
ただ、心が震えた。彼が拘る結果というものが些末に思えてしまうほど、あの試合に立ち会えた奇跡は一生私の胸に残るだろうと思えた。それをどうしても、伝えたかった。
「……そら、おおきに」
納得はしていないだろうことは声色でわかった。チームメイトに見せるいつもの喜怒哀楽の豊かな表情もない。けれど決して否定はされなかった。ほんの少しだけでも、私の本心が届いたのだと感じた。
冷めたお礼の言葉だけ残して侑くんは図書室を後にした。残された私はまだとくとくと鼓動の速い胸を押さえてほっと息を吐いた。パソコンのモニターには彼の名前と、借りた本とその貸し出し期限が記されている。
次はいつ返却しに来るのだろうか、またその時会えるだろうか。そう考えながら私はこの小さな幸せを噛み締めるように自分の仕事へと戻るのだった。
*
「なん、えらい機嫌ええやん」
放課後、書架整理をしていると不意に背後からかけられた声にびくりと肩を震わせる。あの屋上ランチ以来聞くその声に振り返ると、ジャージ姿の治くんがそこに立っていた。
「びっ、くりしたあ………治くん、どしたん。図書室来るの珍しいね……」
「部活終わり。まだ図書室の電気ついてるからもしかしてーー思て」
「……そういえば、私が図書委員だって治くんに言ったっけ?」
「言うてへんけど。前うちの主将と作業しとるとこ見てん」
「ああ、北先輩」
小さくこぼれていた鼻歌は驚きとともに止まった。窓辺に腰掛けて話す治くんの隣をふわりとレースのカーテンが冬の冷たい風を含んで膨らんだ。
部活終わり、もうそんな時間か。本来二人一組で担当するはずの作業は、インフルエンザの猛威により私一人のものとなってしまった。三年生が引退した今人手は圧倒的に足りていない。治くんの口から聞いた主将という言葉に、ああ北先輩ももうここへ来ることはないのだなと考える。
彼の特進クラスの担任は司書教諭であり、人手が必要な時はクラスの生徒を何人か派遣してくれた。いつも快く引き受けてくれていたのが北先輩だ。
「そんなに接点があった訳じゃないけど、少し寂しいね。いい先輩だったよね」
「せやな」
「卒業後の進路ってどうされるんだろう…?」
「実家の農業継ぐみたいやで。米農家。」
「へえ!そうなんだ。なんだか想像できる。いつか作ったお米食べてみたいなあ」
「今日、昼休み侑ここ来たやろ」
当たり障りない会話が、急に飛んだ。私は黙々と棚へ本を戻していた手を止めて少し治くんを振り返った。本人は部活カバンから取り出したカプリコを食べていた。イチゴ味。売店で売ってるやつだ。
「……図書室内飲食禁止だよ」
「あ、すまん」
「………うん、侑くん、来たよ。月バリ借りてった。春高バレーのこと、少しだけ話せてよかった」
私の注意に証拠隠滅、と言わんばかりに淡々とその大きな口でお菓子を平らげた治くん。私は止まっていた手を動かして、傍ら昼間のことを思い出して胸がほっと熱くなるのを感じた。
「ほおん。よかったやん」
「うん」
「ツムのどこが好きなん?」
「え"っっっ」
「なんで告ろう思たん?」
「ちょ、待って情報量多い」
今まで散々有耶無耶にされていた話題を、急にミサイルの如く浴びせてくる治くんに一番上の、届きそうで届かない棚へと戻そうとしていた本が落ちた。ああ、傷んでたら最悪だ。慌ててしゃがんで拾うも、その一連の様子を治くんは「あらら」と傍観している。
薄々感づいていたけど、この人けっこう意地悪かもしれない。
「そ、そんなん治くんに関係ないやん……」
「うわ、冷たーー。俺彼氏やのに」
「………治くんこそ、なんであんなこと言ったの?私のこと別に好きとかそんなんじゃないでしょ」
ずっと聞きたかった疑問を、ようやく口にできた。落とした本に傷がないかチェックして、軽くほこりを叩いて再び上の棚へ戻す。踏み台を持ってくればいい話だが、なんだかこの状況に負けたようで性懲りもなく指先で本の背を押していると、見かねた治くんが手伝ってくれた。
「手伝ってほしいならそう言いや」
「ありがとう………でも私の仕事だから」
「責任感強いんか意地張っとるんか知らんけど」
「どっちでもないよ」
「………なんか、うまそうなにおいする」
助けてくれた治くんは相変わらず背後に立って言葉を紡ぐものだから、至近距離と私を覆うほどの体格差に少し気圧される。するとまた突然会話をすっ飛ばした治くんが不意に、くんくんと私の耳元で鼻を鳴らす。
え、待って、何!?うまそうなにおい、なんて焼肉の後だとかそのくらいしか思いつかないけど、お昼はおにぎりだったしそんな筈は……。そうたった一言で考えを巡らせてしまうほどには思春期の女子はにおいに敏感だ。
「なっ、に、ちょ、待って待って」
「甘ったるいデザートみたいな」
「ええ……?し、シャンプーとかトリートメントじゃないですか……?」
「あ、そ、なんや腹減ってくんなあ」
そう答えても無遠慮に耳元で鼻を鳴らす治くんはあろうことかその大きな手で一束髪をすくって直ににおいを嗅いだ。そして口づける。私が驚く間もないまま、かき分けられた髪の下に現れた首筋にそっとやわらかいものが触れた。かと思えばぺろりと舐められる。そしていただきます、といつかのランチタイムに聞いたあの言葉が聞こえてくるようにかぷり、とそこに噛み付いた。
「!?!?!?ちょっ、な、なにして」
「…………」
うろたえる私が肩越しに視線を向ければ、大きい体が戯れるように私の首筋に顔を埋めていた。ちらりと上目遣いにこちらを見た治くんは、自分の行動が原因にも関わらずシーーッ、と人差し指を立てて私に注意するような仕草をした。
それに私はまだ棚を隔てて向こうの席に生徒が数人、残っていることを思い出した。ぼっと火がついたように耳が熱くなる感覚。口を噤んだ私を好都合と言わんばかりに、今度はブラウスの襟ぐりを指先で引っ張って肩口に噛みつく。どれも犬がお気に入りのぬいぐるみを甘噛みする程度のやわさ。まるで本当に味見されているような奇妙な感触に思わず体を正面の本棚に預けた。
「………ミョウジさんの名前も、どこのクラスかも、どんな子ぉかも知らんかったけど、アンタが侑のことずっと見とったんは知ってたで」
「…………」
「そんで、見た目大人しそーやのに、あんな情熱的な告白されたら、ツムの何をそこまで好きなんや?思うやろ」
「…………」
「俺ら見た目おんなしやのにさあ」
淡い刺激の中で紡がれる本音に、頭がくらくらする中なんとか思考を整理する。黙ったまま小さく震える私に治くんは答えを急かすように、そして意地悪をするように鼻先で髪をくすぐって耳の裏に口づけを落とした。そのまま軟骨部分に少し歯を立てて、こりこりと優しく食んでゆくものだから体がぴくりと何度も反応する。鼓膜に彼の息遣いや、喉を鳴らす音が生々しく響いた。
「………そん、なん、理由なんか、あってないようなもの………」
「…………」
「ただ、好き、言わずにおれんくらい、好きやったから………」
理由は山ほどある。大勢の女の子越しに見たあの息のとまるような優しいセットアップ。対して自分という存在と、バレーに対する愛情の大きさを叩きつけるような豪快なサーブ、そして何より、自分の欲しいものを全力で取りに行けるその強さ。掴んだ時の何よりも純粋なその笑顔。言葉で言い表せないほど、憧れてやまなかった。
そう告げると、治くんは触れていた唇を離した。同時に生徒へ帰宅を促す最後のチャイムが鳴る。見れば残っていた生徒たちの姿はなく、窓の外の景色もとっぷり日が沈んで夜の色を帯びていた。
私は開いていた窓を閉めて、まだ少し残っている返却本の山と治くんを交互に見つめて暗に手伝えと訴えた。触れられていた肌はまだ、微熱を帯びている。
「そない怒らんでええやん。腹減っとんねん」
「いたずらで空腹は満たされません」
「続きする?」
「しない!!」
今日はいい日だ。そう思った昼間の自分は覆された。今日はいい日、というか双子デーだ。良くも悪くも。
治くんと手分けして残りの本を片付けつつ、俺ら見た目おんなしやのにさあ、そう言った彼の声が頭に何度もリフレインしていた。
24052021