まわらない。アルバイトのスタッフが急に休んだせいだ。水曜日だし、さして影響はないだろうと思っていたが、こんな時に限って何故か団体客が多くやってくる。フロアを駆け回る。でもほとんど追いつけない。
「なまえさん、22時で上がりっスよね」
飛雄は忙しい時ほどしっかりと動くが、それにしたって人手が足りなかった。彼の言う通り時刻は私の上がる時間だったが、そんな空気ではない。
「そんな状況じゃないでしょ」
「まぁ、そうっスけど。予定ないんすか」
「ないよ。はい、これ8番ね」
「…うす、」
飛雄は腑に落ちないようだったが、基本的に従順なので言葉を飲み込んで飲み物を運ぶ。
結局私はお店の閉店時間、日付が変わるまで職場にいた。飛雄を含めたアルバイトの子は、終電の時間に合わせて帰宅させる。
「…なんで、」
「遅かったね。お疲れ様」
疲労困憊。へろへろな身体に鞭を叩いて店の外へ。近くのコインパーキングに見覚えのある車。運転席の男はこちらをじいっと観察している。先に気付いたのは彼の方で、勢いよく車から出てきた。
「仕事終わるの22時って聞いたから」
「…言いましたっけ、」
「昨日飲みに来たらなまえちゃんいなくてさ」
「なんで来るんですか、急に」
「サプライズサプライズ。あのアルバイトの…影山くん?だっけ。あの子に聞いた。電車ないでしょ、送ってく」
「いま、何時だと思ってるんですか」
「え?」
「…待ってたんですか」
「え、うん。ほら、乗って」
もうとっくに日付は変わっていた。2時間以上も、この男は私を待っていたのだろうか。バカというか、健気というか…。
「よくこんな時間まで待ってましたね」
「お店混んでるみたいだったし、残業かなぁって」
「私こなかったらどうするつもりだったんですか」
「影山くんが嘘ついたってのも考えたけどとりあえず日付変わるまで待ちたくて。そしたら影山くん、1時間位前に出てきたから話しかけたんだよね。そしたら店忙しくて残業してるって。だから待ってたよ」
そんなにつらつらと説明しなくてもいいよ、とも思ったが黙っておいた。わざわざ、待っててくれたんだから。終電もないし、タクシーを拾わなくてはならないと思っていたのに。
「疲れたでしょ。乗って」
「…すみません、ありがとうございます」
「いーえ、どういたしまして」
こんな時間でも及川は綺麗だった。髪型も、服装も、表情も全部。心身共にボロボロの私とは大違い。
「大変だねぇ、こんな時間まで」
「アルバイトの子が急に来れなくて」
「水曜日なのにね」
「本当に。なんだったんですかね」
彼は苛立った様子もなく、私の心配ばかりしていた。がんばったね、大変だね、そうやって優しい言葉を優しい表情で発する。
「すみません、本当。ありがとうございました」
「ね、」
「はい、」
自宅に到着し、車から降りようとしたところを彼が呼び止め、ぐいと腕を引かれる。及川のくりんとした瞳が目の前にやってきた。まつげ長い。
「え、ちょ、」
そのまま及川は私の唇と自分の唇をふわりと合わせた。触れるか、触れないか。遊び人とは思えないような、柔いもので。
「…ごめん、今日こうしたくて待ってた」
及川は私の腕を掴んだまま、そう発した。こちらはそんなことはどうでもよくて、この密室が恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がない。
「…なまえちゃん?」
「ずるい、及川さん」
「え?」
「ずるい」
「真っ赤だよ」
「もういい、降りる」
「ちょっと、だめだよ。もう一回」
そう言って口角を釣り上げ、少し長く唇を合わせた。なんで急にこんなことになるのだろうか。頭の中はこんがらがっていたが、それよりも身体中が熱くて仕方がなかった。
2016/01/24