私たちが真面目にプランを立てた熱海旅行は、滞りなく進んでいた。彼の協力もあって、宿や旅の流れも問題なく決められたからだろう。
「人数確認しました」
「ありがとう。運転手さんに声かけてきて」
「はい。行ってきます」
午前中は業務に取り組み、午後になると手配したバスがやってくる。それに乗り込んで移動をし、一通り観光スポットを巡った(毎年来ているので正直飽き飽きしている)
これからのことを考えるだけでゾッとした。また私はいいように使われ、もはや自分はこの会社の社員ではなく、旅館の従業員なのではないか、と錯覚してしまうのも仕方がないように思える。お酌にまわって、カラオケの曲を入れて、酔っ払いの介抱をして。
せめてもの救いは彼が隣にいることだった。もちろん、観光スポット巡りでは大人数で行動をしたけれど、バスの座席は私と彼が隣。単純に運転手と会話をしたり、点呼を取ったりせねばらないからだ。
あぁ、もちろん恋人になったということは誰にも伝えていないし伝える気もない。
「疲れてませんか」
「全然。赤葦くんがいてくれるから楽」
小声でぼそりとやりとりをしてみる。学生に戻ったような気分だ。授業中に好きな男とコソコソと話すあの気分。この時間があるから、まぁこんな罰ゲームのような旅行も仕方ないか、と割り切れるのだ。去年まで私はこの時間をどうやり過ごしていたのだろうか。自分を自分で讃えたかった。
「19時から夕食なので、二階の富士の間に集合お願いします」
時間まではあと2時間弱だ。この部署に女は私だけということもあり、自動的に1人部屋。毎年ここだけが救いだった。赤葦くんは比較的年齢の近い男どもと同部屋で、あぁ可哀想に…と同情せずにはいられない。
「みょうじ、お前どうするの」
「あ…私、旅館の方とお料理の確認してきます」
「僕も同行します」
「あー?いいよ赤葦。温泉行くぞ」
「でも、」
「いいよ赤葦くん。行っておいで」
ひらひらと手を振って送り出してやる。苛立った表情の男はそれを一瞬で隠し、私にすみません、と謝って背を向けた。私だって彼がいてくれた方が心強いが、あまりにも一緒に行動をするとまずいと思うし、ここは1人でも問題ないと判断する。
一時間程で全て一通り確認を済ませ、部屋でぐだりとしているとドアが叩かれた。あらかた予想はついたが、そっと開けてみると彼だった。
「どうしたの」
「どうしたのじゃないですよ。生贄にしないでください」
「酷いでしょ、卓球大会」
そのまま部屋に入れてやる。毎年恒例行事なので薄々勘付いていたが、彼には教えてやらなかった。喧しい上司数名は必ず温泉を堪能した後で無駄に本格的な卓球大会を開催したがる。参加すると接待試合をしなくてはならないし、さして面白いものではないので、夕食の時間まで部屋に引きこもるのが賢明だと判断したのだ。
「毎年やってて何であんなに下手なんですか」
「今年も下手だった?ねぇ、どうやって抜けてきたの」
「電話がかかってきたフリをして」
「赤葦くんも中々黒いよねぇ」
「…だって」
みょうじさんと一緒にいたかったし。
そう言って首筋をペロリ。噛まなくなっただけまだいいのだろうか。
「…絶対しないからね」
「コンドーム持ってますよ」
「いや、論点が違うから」
確かに紺色の浴衣を着た彼はとても色っぽかったし、まだ微妙に濡れている髪もとても官能的だった。でも、あくまでも社員旅行で、同じ建物の中に同部署の人間がいると思うととてもじゃないがそんな気分にはならない。
欲情する彼を受け流し、戦場と化す宴会場へ2人で向かう。案の定乱戦だ。私はあちらこちらに瓶ビールを運び、赤葦くんは上司に捕まってアルコールを飲まされていた。下手くそなカラオケ。“くだらない”を凝縮した環境。酔ってもいないのに吐き気がする。
「みょうじ、わりぃ、こいつよろしく」
酔っ払った人間をゴミのようにこちらに投げるのはやめていただきたいが、拒否権なんてものはない。私より2年先に入社した男に大丈夫ですか、と声をかけて浴衣の帯を緩めてやる。だいたい、いい年になってなんで飲める量というのを把握しないのだろうか。理解に苦しむ。
そうは思いながらもこれも業務の一環なので呻く男の背中をさすってやる。時計をチラリ。あと1時間もあれば終わるだろう、と半ば願掛けのような気持ちでいると、酔っ払った男が何かに気付いたようで。
「お前、それ、キスマーク?」
動き回って少しはだけた浴衣の胸元はゆるりとスペースができる。そこから、あの噛み癖の悪い男がつけた痕が見えたのだろうか。平然を装い、答えてやる。
「それ、よく言われるんですけど生まれつきあるんですね。この痣」
「へぇ、」
にやにやと笑う上司は気味が悪い。そそくさと襟元を直す。
「わり、肩貸してくれるか。トイレ」
「あぁ、はい」
何で私が、とも思ったが彼の肩を持ち宴会場から一時離脱。廊下に出た途端、びたんと壁に押し付けられる。酒臭い吐息は私を不快にさせるだけだった。何してんるんだこいつ。
「…やめていただけますか」
「みょうじ、まだ彼氏いるの」
「いますよ」
「ふーん」
20代半ばにもなって壁ドンかぁ、と笑いそうになった。次の女子会のネタにするしかない。しまいには顎をくい、と掴まれる。なんだこいつ、とここまでは笑って流せたのに。
アルコールまみれの唇と自分の唇が近付いてまずい、ということにようやく気付く。私が彼を突き飛ばす前に、目の前の男は私の左方向に崩れ去っていった。かわりにすこぶる機嫌の悪そうな赤葦くんが立っている。
「てめ、赤葦」
はぁ、とため息。さて、どこをどう回収していこうか。上司と彼氏、どちらの肩を持つべきか頭の中で盛大に迷った。
「…何考えてんの」
パターンとして、脳内に描いていない展開だった。赤葦くんまで苛立っている。あのねぇ、君が睨んでるの一応上司だから気をつけようね。なんて彼を宥めようとしたらそれは私に向けられた視線で。耳元でそうぼそりと言われる。びくり、と反応して。赤葦くんはやはりスムーズに表情と声色を変えると突き飛ばした上司に向かって言う。
「すみません、僕、ちょっと酔っ払ったみたいでふらついてしまって…本当に申し訳ないです。お怪我ないですか」
「あ、あぁ、そうなの。だいじょぶ」
突然の変化にか、上司だってオロオロしていた。そして彼はすっ転んだ上司を起き上がらせ、お手洗いまで2人で自然に向かう。廊下にポツンと取り残された私。チラリと振り返る赤葦くんは、変にニコニコしていて恐ろしかった。底知れない恐怖感。一番厄介な展開だなぁと変な汗をかく。
「みょうじー!ビール!」
部屋の中からそう呼ばれて戦場に戻る。さて、あと40分だ。それが終わった後も、なんとなく恐ろしいのだけれど、今は考えないことにした。
2016/02/18