「いないですよ」
どきり、と心臓をうるさく動かした後、聴覚に全神経を集中させた。パソコンのキーボードを叩いていた指を止める。
「えっ、嘘。意外だな」
「そうですか?」
「学生の頃から付き合ってる彼女いそう。可愛い系の」
どのくらいいないのか聞け。あわよくば好きなタイプも聞け、と指導係の上司に念じたが、私にそんな力はないようだ。赤葦はひょいと話題を転換する。いないのか、彼女。でもまぁ彼が真実を伝える義務はないし、嘘かもしれない。
あの日はきちんと彼が家まで送り届けてくれた。ゴールデンウイークが終わって出社すると仕事が山積みで吐き気がした。それもどうにか落ち着いてきた今、あの時迷惑かけたからって食事にでも誘えばいいのだろうか。赤葦くん、1人好きそうだし、迷惑かな。
「歳下で職場内って条件最悪じゃない?」
「でもかっこいいんだよ」
「顔?」
「顔というか…雰囲気?」
週末、女友達に相談してみる。予想通りの反応だった。そりゃあね、そうですよね。
「写真ないの」
「ないよ。連絡先も知らないもん」
「はっ?なんで」
「だって用事があったら会社で話しちゃうし」
「色気ゼロだね」
そういえばそうだ。この時代だというのに連絡先も知らない。聞くタイミングなんて何度もあったのに。というか少しでも気があれば向こうから聞いてくるものだ。口実なんて幾らでもある。
「やっぱりダメかな」
「いいんじゃない、付き合うくらいなら」
「えー、付き合ってくれないよ」
「…めんどくさ、」
「ちょっと、こちら真剣なんですけど」
「まだ相談どうこうってところじゃないじゃん。そもそも好きなの?」
そう問われると返答に困ってしまう。付き合いたいとか、結婚したいとか、そんな気分は特にないが、知りたいと思ってしまうのだ。それは好きだからなのだろうか。それとも彼のあの怪しい雰囲気のせいだろうか。
「なんかいい子そうじゃん。ご飯くらい嫌々でも付き合ってくれるんじゃない」
「…嫌々なら付き合って欲しくない」
「贅沢言わないでよ。なまえだって上司の誘いなんて迷惑だけど断らないでしょ。それ意識して」
「…すごい説得力」
そう言われたのもあって、今日こそは彼を誘おうと意気込んでもう週末。もちろん業務に関する会話は毎日幾つか交わしていたが、変な意識が働いて本題を切り出すことはできなかった。それどころかそればかり考え込んでしまうせいで、仕事が思うように捗らない。踏んだり蹴ったりだ。
「みょうじさん、帰らないんですか」
「…嫌味?」
「違いますよ、週末だし予定ないのかなって。定時過ぎてますよ」
いつも定時に帰るの、バレてたか。月初以外の残業なんて仕事ができない奴しかやらないとバカにしていたのに。
「終わらないんだもん。残るよ」
「そうですか、珍しいですね」
「赤葦くんは?予定あるの?」
嫌味っぽく聞いてやる。彼はいつかみたいにちょっとムッとして、すぐ表情を戻して言った。
「ありますよ」
「へぇ、彼女?」
「…違いますよ」
「じゃあ誰?」
「前も言いましたが、恋人はいません。学生の頃の友人と会います」
冷酷な声で彼はそう言う。皮肉たっぷり。いい性格してるな、こいつ。前も言った、と彼は主張するがそんな覚えはない。
「予定あるなら早く帰りなよ」
つん、と彼に言い捨てる。にやりと笑っている男は、憎たらしく可愛げもない。
「お先に失礼します」
「はいはい、お疲れ様」
「…何も覚えてないんですね」
「え?」
「なんでもないです。お疲れ様でした」
なんでちょっと悲しそうにそういうこと言うかなぁ。気になるじゃない。何も覚えてない?なんのことだ。身に覚えがあるとするならばあの歓迎会の後だ。私、あの日なにしたんだ。あぁ、食事にも誘えないし、仕事は終わらないし、連絡先も聞けないし、最悪。
2016/01/31