「うっそ、まじで?」
「すみません、この間買ったのに、」
結局雨に降られ、ぐっしゃりと濡れていた。松川のスーツのジャケットは水気を帯び、色が変わってしまっている。髪はくしゃりと濡れ、ぽた、と勢いのない雫が落ちた。
それはなまえも同じで、ちゅるりと巻いた毛先はもうすっかりぐだりと脱力していた。トップスは元々ぺたりと肌に張り付いていたので支障はない。
「まぁいいわ。んじゃね、おやすみ」
「え、っちょ、待ってください」
「なによ」
「土砂降りだし…ちょっとだけ、待ってみませんか、」
「なにを」
「あめ、やむの」
なまえに全く下心がないかと言われれば、グレーな返事を返すことしかできない。願ったり叶ったりなこの状況だ。言い訳はたくさんある。急に降り出した雨。濡れた洋服と身体。少しずつ秋めくこの時期。そしてなによりアルコール。切り札はたくさんあるのだ。
「私のこと、送ってくれて、それで濡れちゃったわけですし」
風邪ひくと明日の出社に関わるじゃないですか、と。あくまでも仕事があるんだから風邪ひいちゃったらまずいですよね、というニュアンスで話を進めてみる。普段の行いがいいからか、外は街を濡らす音が響いている。松川は何も返事をせず、少し考え込んでいるようで。しかしすぐに返事をする。
「酔ってんの?」
「…え?」
「俺、一応結婚してるし、その前に一応男なんだけど大丈夫?」
酔ってっから誘ってんの?となまえの瞳を覗き込む。松川のとろとろとした瞳に捉えられ、頬は一気にぶわりと熱を溜め込んだ。
「えっ、ちが、ちがいます、だって、風邪」
「冗談。お優しいお言葉に甘えちゃおっかな、雨すごいし」
なまえはバスルームからタオルを持ち出し、松川へ渡した。男はそれで身体の水分をあらかた拭き取り、部屋に上がる。見慣れた部屋に水も滴るいい男がいる。なんだか異様な雰囲気だった。
「おじゃまします、」
「すみません、狭くて」
「謝ることじゃないでしょ」
松川はそれなりに戸惑っていた。この状況、いいのか?と何度も自分自身に問うが、誰かが自分の身体に住み着いているわけもなく、答えが返ってくることはない。若く、それなりに綺麗な女。職場でのオフィスカジュアルではない洋服を纏った女に、男の方も多少どきりとしていた。思っていたよりも主張し、上を向くバストと、自分の手で包んでしまえそうなウエストがピタリと張り付いた洋服のせいでよくわかった。よく見れば下着のラインがうっすらと浮かび上がっており、生々しい感じがした。
「寒いですか?」
「ん、ちょっと」
「カフェオレ飲めます?」
「ん、」
女の必死な質問に、松川はさらさらと答えた。それよりも気になるのは彼女の部屋だった。若い女の、1人暮らし。とにかくじっと凝視してしまう。化粧品や洋服、アクセサリーにヘアピン。色々と物は散乱(と言うと大袈裟だが)しているが、床に埃や塵は落ちていないし、シーツだって真新しいように見えた。散らかっているけれど、清潔な部屋だと松川は思った。
「すみません、散らかっていて」
「ん?んーん、こっちこそ急にあがってごめんね」
部屋を眺める松川に気付いたなまえは、そういえばそれなりに散らかっている部屋に気付き、謝罪をした。コトリと置かれるマグカップからは白い湯気が出ている。急いでお湯を沸かしてくれたのだろう。熱いカフェオレを一口含む。いつものブラックに比べて甘ったるいそれは、もうほとんど砂糖と牛乳が溶け合った液体のようだった。
「酔い、覚めたの?」
「えっ、あ、はい…少し…。松川さん、あんなに飲んでたのに大丈夫なんですか?」
「うん、まぁ」
ぽつりとしか続かない会話を可笑しく思った松川は、女の顔をチラリと覗き見る。アルコールのせいだと思っていた赤い頬は、多分そうではないのかもしれないと、この時初めて思った。照れたような、困ったようなその表情。
「なんで緊張してんの」
「…別に、違います」
「違うって?」
「緊張なんて、してないです」
「ふーん」
自分の部屋なのに落ち着かない様子の女に、松川はいよいよ疑問を持ち始めていた。なんだっていうんだ、この雰囲気。いつもオフィスで話す時とは違う、このとろとろとした雰囲気。俺のこと好きなのか?と思ったりもするが、なんせ自分は既婚者だし、なまえは比較的真面目そうな女なので、まぁまさかそんなことはないと勝手に判断をしていた。
「ねぇ」
「なんですか」
「みょうじさんてさ、彼氏いるんだっけ」
「いない、です」
「あのさ、雨止まなかったら、どうするの」
その問いに女は耳まで赤くし、もごもごと口を動かすばかりだった。なんだ、本当に俺のことすきなのか。だとしたらこの状況、どうしたらいいんだろうか。そう思いつつ、少し楽しくなっている自分に苦笑するばかりだ。
2016/10/03