既婚者松川 | ナノ
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「松川さんお子さんいつ頃ですか?」

ざくざくざく、と。身体のそこらじゅうが切りつけられるような感覚の後、だらだらと傷口から出血しているようになまえは感じた。このまま出血多量で息絶えてしまえばいいのに、とまでヒステリックなことは思わないが、できれば音が聞こえない世界に送り込んでほしい、と。聞こえるという機能をキチンと持ち合わせた自分の耳を恨めしく思った。千切ってしまおうか、それともあの女の口を割いてやろうか。そんな禍々しい思考を、男の声がふわり、独特の雰囲気で包み込むのだ。

「お盆なのよ、それが」
「わー、あっという間ですね。いま奥さん実家帰ってるんですっけ?」
「そうそう、向こう戻ってるよ」
「え〜、じゃあ飲みに行きましょうよ!羽伸ばし放題じゃないですか!」

関係を持って、それを断ってからも、松川は全く変わらなかった。いつも通りの彼だ。ゆるりとした雰囲気、艶かしい声色、とろんとした笑顔。一度自分が手にしたものだ。いま、どんなに渇望しても松川はもう、なまえのものにはならない。そうわかっているのに目で追ってしまうから、目玉もくり抜くべきなのだろうか。この8月には赤ん坊が生まれるらしい。子を抱く彼はどんな顔をするのだろうか。そんなことを考えているといつの間にかなまえは名前を呼ばれていた。

「なまえちゃんも参加ね!週末!」
「え、あの、」
「ほら!この間3人で飲もうって言ってたお店あるでしょ?駅裏にできたところ、あそこ松川さんのお友達のお店なんだって!大学の先輩のお店ですっけ?」
「うん、そうそう。みょうじさんもおいでよ」

あの関係は断ち切ったが、断ち切ったって以前までの「会社の先輩後輩」というそれが消滅するわけもなく。なまえはもちろん会社を去ることも考えたが職歴というくだらないそれの為にどうにかのさばっているのが現状だ。松川とはそもそも部署が違うし、こうして気まぐれな男がふらりとこちらへやってこない限りはそんなに、関わることもないのに。なかったのに。飲み会の話は適当で薄っぺらい笑顔でごまかしたが、お次はこれ。向かう足取りは重い。

「失礼します、」
「…おー、お疲れ」

私これから外出しなきゃだから営業部にこの資料持って行って。そうお願いされ、仕方なく向かう。さっき松川さんが来た時に渡せばよかったのに忘れてたよ、と。計算なんて1ミリもされていない言葉をどれだけ呪えばいいのだろうか。そしてほら、都合よく彼は1人で作業をしている。こちらをちらりと見て、こっそり笑ってくれる。どきり、と弾む心臓はなぜ悪びれもせず動き続けるのだろうか。ただただ疑問であった。

「…あの、これお願いします」
「ん、了解。すぐだからちょっと待ってて」
「はい」

2人きりになるのは、あれ以来初めてだから相当に上手く、松川を避けていたのだとなまえは思う。わかっていたからだ。まだ好きだということを。その証拠にどうにか他の誰かにすがろうと好きでもなんでもない男と食事をしたりキスをしたりセックスだってしたが、全然だった。全部、いま目の前にいる男と比べてしまう。好きとか嫌いとか、それ以前の問題。全部を松川に変換してどうにか自らの欲を発散していた。目を瞑って、あの時のあの感覚をじわじわと思い出して、全く異なるその行為になんとか熱をもたせた。そうすると少しだけ満たされたから。その時間が終わればもちろん、比べ物にならない虚しさが襲ってくるのだけれど。

「元気?」
「はい?」
「げんき?」
「…体調はいいです」
「そう、そりゃよかった」
「…おめでとうございます、奥さん」
「ん?あぁ、ありがと」
「楽しみですね」
「…うん、そうね。楽しみだね」

不自然な会話だとお互いに気付いているが、沈黙に耐えられるほどの気力は持ち合わせておらず、訳のわからない言葉で静粛の埋め合わせをした。松川は色々、困っていた。女からその話題を振ってくるとは思わなかったし、その言葉を発している時のなまえの表情が首を絞められているかのように苦しそうで、頬紅なんて意味をなさないくらいに顔色も悪い。まだ自分が苦しめているのだろうかと。自意識過剰かとも思うが、そうだとしたら、あの頃の自分の軽率さを少々恨めしく思う。同意のもとではあった、許可も取った、お互いにこうなるとわかっていた、後悔していないとあの日に確認もしたが、全く意味のないことでもあった。だってあんなにも、愛し合っていたのだから。

「松川さん、いまひとりなんですか」
「ん?」
「お家、奥さんご実家にいらっしゃるんですよね?」
「…うん、そうだね」

誘われているのだろうか。なまえとふたりきりの空間、そんなことしか考えられない松川はもちろん未だに女のことが気にかかっている。もう一度交われば彼女を救ってやれるだろうか。いや、そんなわけないか。そんな言い訳をして実際、自分がもう一度落ちたいだけじゃないか。整理しきれない感情がとめどなくこぼれて、もうよくわからない。うまい言葉を返してやれない。

「寂しくないですか?」
「え?」
「ひとり、寂しくないですか」
「…あはは、そうね。寂しいよ、それなりに」

しん、と静粛。耐えきれずに口を開く松川。それはこの音のない空間になのか、それとも魅力的な女とふたりきりの状況になのか、それは松川しか分かり得ないが。

「あのさ、」
「松川さん、早くみんなで飲み行きましょう」

今夜2人で会わない?その言葉はなまえの提案でかき消され、松川はどうにか出しかけた音を飲み込む。笑う女の顔は、明らかにつくられたもので、どちらかと言えば今にも泣き出しそうだった。何を言いかけたんだと、男は盛大に反省するのだ。

「松川さんの奥さん実家にいるうちに、みんなで行きましょう。私、あのお店行ってみたいんです。ほら、お子さんうまれたら時間取れないだろうし」
「そうね、みんなでね…行こうか、予約しておく」
「はい、是非。よろしくお願いします」

背筋を伸ばして立ち上がり、そのまま姿勢を崩さずに松川から書類を受け取る。くるりと背を向けた女があまりにも美しくて、目が離せないのだ。ありがうございます、失礼しました。そう言って部屋から出て言ったが、そう言わねばならぬのは自分だと、松川はそう思って大きな手のひらで顔を覆う。何を考えているんだ、なんて心が弱いんだ。なんて、失礼なことをしたんだ。
一度落ちたそこから抜け出せない男は、微かに残るなまえの香水が以前と変わっていることに気付き、じわりとくる何かよくわからない感情を殺すためにくだらない仕事たちに集中しようと試みる。まぁそれは全くもって無駄な意気込みなわけだが。

「っ…と、すげぇな、あの子」

松川にそう称賛された女は部屋の外、扉にもたれてぽろぽろ泣きだしてしまう。自分の賢さと察しの良さが憎くて仕方ない。どうにか席について興味なんて全く持ち合わせていない、名字さえ曖昧な男に連絡するのだ。
今夜2人で会おうって。

2017/07/17