既婚者松川 | ナノ
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しばらくとろとろと口付けを交わしていたところで、なまえはふいに顔を逸らす。松川と視線を合わせず、ぽそぽそと言葉を紡ぐのはサヨナラを告げるためだ。私から言うのか、と。なまえは比較的冷静に、そう思っていた。多分松川の方から言ってくるだろうとそう思っていたので意外に思う。それでもこのあたりでピリオドを打たなければもうずるずるとこの関係を続けてしまうだろうから。ぐだりとした身体はしっかりと疲労を蓄積していたが、どこか心地よく充実していた。もっとこうしていられるのならこうしていたいけれど、そんなことが許されるはずもなく。

「…松川さん、」
「ん?」

一静と、一度だけでもその名前を呼びたかった。何度も何度も呼んで、彼の耳に馴染ませたいとそう思った。名を呼んだ時にこの男がどんな顔をするのか知りたかった。だけどもう、一生知ることのないその男の表情。それはきっと、恐ろしく優しいのだろうとそう思わせて欲しくて。

「そんなに、もう、優しくしないでください」

もう私、松川さんのこと嫌いになりたいのに。
ぽそりと女はそう言って、松川の唇にやさしくキスをした。松川はその意味がわかるようなわからないような。頭をある程度動かして真面目に考えてみる。嫌いになりたいということは自分はきっと愛されているのだろう。久しく幸福だという感情が沸き上がる。こんな時の女は強くて、男は異常に弱い。熱いはずの唇は、ひやりと冷たく感じて。

「朝になったら」

もう、誤魔化せなかった。松川はめそめそと泣き、それを見てなまえは少々自惚れながらも、男の想いを汲み取った。ほんの少し、自分を愛してくれたのだろうか。すきだと、愛おしいと、思ってくれたのだろうか。なんて幸せなことだろうと思い、きちんと、すっぱりとお別れをしなければならないと思った。
そりゃあ、ぶっ壊れればいいとも思うが、そんなことをしたって誰も得はしないのだ。わかりきっていることである。そして男の性格も、微量ではあるが理解していた。恐ろしく優しい男だと、それをわかっているから、自分から切り出さねばならないと、きっと心のどこかでわかっていた。だから比較的落ち着いているのだろうと思う。どこかでイメージしていたから。長く続かないとわかっていたから。

「もうやめよう」

もう、女は泣いていなかった。松川にはきちんと言葉が届いているようで、こくんと首を縦に。弱々しい雨のようにしとしとと泣く松川をゆるりと抱き、弱く芯の通った女は強いふりをした脆い男に言う。

「今日で最後にするから、今日で」

ぺとりとした身体のまま、湿ったシーツに横たわる。言葉は交わしていないのに、全てがと言うと嘘臭いが、本当に全てが、伝わってくるようだった。離れたくないとお互いにそう思っているが、もちろんそうはいかない。時折想いが込み上げ、落ちそうになる涙を2人は必死に堪えるものだから、たっぷりと酸素を吸うその音が部屋にぼやぼやと聞こえる。こんなところまでおちてしまって、もう元の関係になんて戻れないと思う。会社で顔を合わせた時にどんな表情をつくったらいいのか、どんな声を出したらいいのか、大人で策略家の松川でさえも、そのビジョンは立っていなかった。

「ねぇ」
「…はい」
「ごめん」
「なにが、ですか」
「…俺、みょうじちゃんのこと」
「言わないで」
「…え?」
「言わなくていい。もういいから」

女も、正確にはわからなかった。その言葉の続きが「好きになってごめん」というものなのか、それとも「好きにさせてごめん」なのか。もしくは全く想像もつかない言葉なのか。わからないけれど、どっちにせよ聞きたくないのだ。ただただ、辛く苦しいだけだから。

「なかったことに、しましょう」
「みょうじちゃんできる?そんなこと」
「上手にやれるって、そう聞いてきたの松川さんじゃないですか」
「…つれないねぇ」

なまえがそうしたいならそれでいいよ、と。そう言ったものの松川は正直、なかったことになんて出来ないくらいなまえにのめり込んでいた。明日も明後日もこうやって、この決して広くはないありふれた部屋でたっぷりと女を愛したいと、そう思っていた。愛しているよと、好きだよとそう言った時にこの女がどんな顔をするのか結局知らないままだ。喜ぶのだろうか。それとも落胆するだろうか。

「なまえ」
「…はい、」
「後悔してる?」

しているに決まっている。なかったことにしたいくらいだ。でも、後悔なんてそんな言葉だけでは自分の感情を表すことなんてできない。松川さんは後悔しているんですかって、そう聞きたかったが、質問に質問で返すのは失礼だと思いやめておく。

「…して、ない、と思います。多分」
「なにそれ、どんだけ曖昧なの」
「松川さんは?」
「してないよ、ねぇ」

離したくないけど離さなきゃいけないってこんなに辛いんだねと。
松川はそう言って女をきゅっと弱く強く抱いて。寝ようか、と提案する。こくんと頷き、ぎゅうと身を寄せて眠った…と言うと嘘になる。

眠ったふりをした2人は、一睡もしないまま朝を迎える。ただ互いの作り込まれた寝息を感じながら冷たい色をした空気をやり過ごす。そんなことにも気付いていながら、松川はもそもそとベッドから抜け出すし、ゆっくり瞼を開けて女の存在を確認する。なまえが眠ったふりをしていることに気付いていながら、唇に1つキスをしてそれでも眠ったふりをする女にもう脱帽。あぁなんて強い女だろうと、松川はまた女に惚れ込んでしまう。あの、どこにでもいるようなオフィスレディがこんなに賢くて、こんなに色っぽくて、こんなに自分を夢中にさせるのだ。だからこんなに好きになってしまったんだろう。好きなのに好きだと伝えられず、女の喜ぶこと1つしてやれない。自分の情けなさを恨めしく思う。左手の薬指を引きちぎれば、この魅力的な女と一緒に居られるだろうか。そうできるなら指の一本くらいくれてやる。松川は賢いからわかっていた。指1本では全てをいい方向に持っていくことなんてできないと。

「…おやすみ」

悔しいとか、悲しいとか、苦しいとか、やるせないとか、たくさんの感情を抱えたまま部屋を出た。もうこの部屋に来ることもないのかと思うとまた泣きそうになってしまうのは、やはり未練があるからだろうか。

ガチャン、と扉の閉まる音がして、あぁ終わったんだと、なまえは不思議と安堵し、その2秒後には嗚咽を漏らして泣いた。松川の熱と香りが残ったベッドが、もう、憎くて愛おしくて、どうしようもなかった。後悔しているに決まっている。きっと永遠に、この人恋しい季節を忘れることなんてできないのだから。

2016/12/31 (end)