既婚者松川 | ナノ
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どうしたの、と聞かれた首筋は、ヘアアイロンで火傷をしたことにした。
指摘される度に、あの日のあの行為を思い出して、顔と身体が勝手に熱くなる。
松川の部屋着と下着は大切に保管して、いつでも取り出せるようになっているし、歯ブラシだってもちろんそのままで、ベタではあるが自分のものと並べて置いてある。ハタから見れば、新しい恋人ができたことを想像させるだろうが、そんなにロマンチックな関係ではないことは誰よりも自分がよくわかっていた。

「おつかれ、さ、まです、」
「お疲れ様」

松川がなまえの部屋を訪れたあの日から、1週間…いや、10日ほど過ぎた頃だ。何の気なしに、なまえはまとめた書類のチェックと検印をもらう為に別部署に足を運んだ。月が変わって、ドタバタとなんとなくやかましくなってしまった仕事に少しばかりうんざりしていた。年末だというのも多かれ少なかれ関係しているように思う。師走というのはやはりそういう月なのだ。忙しいからといってここが松川の部署だと、それを忘れていたわけではない。きちんと把握していたしむしろ多少意識はしていたが、こんなシュチュエーションだとは思っていなかった。
部屋には、松川1人なのだ。
元々この男の所属する部署は少人数体制である。きっとこんな場面に出くわしたのは初めてじゃない。松川が1人。だからなんだと言われればそれまでで、最もここはオフィスである。仕事をする場であってそんな私的な欲をどうこうする場ではない。だが、やはり変に緊張してしまう。お疲れ様です、というなんの変哲もない社会人がよく使うワードトップ5に入りそうな言葉を口にするのだってたどたどしくなるほどに動揺しているのだ。情けないことに。

「…どうしたの、突っ立って」
「え、っ…あ、の、」
「印鑑?」
「っ、は、はい、あの」

松川は楽しそうにくつくつと口元をおさえながら笑い、しばらくすると飲んでいたコーヒーのせいか咳き込み出す。そんなに笑ってどうしたのだろう、と心配になる程だが、途中でなまえも勘付いた。自分のたどたどしさを笑われているのだなと。

「…ここ、ハンコください」
「はいはい、そんな怒んないでよ。可愛い顔が台無しよ?」
「…いいですから、そういうの」
「あらあら、久しぶりだっていうのにつれないねぇ」

あの日のあの別れ際が嘘のように、松川は関係を持つ前と同じような態度で。なまえは拍子抜けしてしまう。自分ばかり意識して、バカみたいだなぁと。きっと松川は奥さんよりも若い女を抱くことができてラッキー、くらいにしか思ってないのだ。自分とはまるで価値観が違うのだ。彼氏と別れた理由が性格の不一致だ、という友人も何人かいたが、それはきっとこういうことなんだろうなとこんな訳のわからないタイミングで痛感する。

「あと、これチェックお願いします」
「はい、了解。ありがとう」
「…失礼します」
「すぐ終わるから待ってなよ。いつもそうしてるじゃん」

まぁまぁ座って、と。松川の隣のデスクは、普段ならなまえと同じくらいの歳の男性社員が使っているものだ。そこに座っていろと促される。確かに、そんなに難しくもなければ重要度も高くない書類だ。毎月松川に確認を依頼しているが、大抵10分もあれば終わる。その為、一旦自分の部署へと戻らず、待たせてもらうことが多いのだが、なんというか、なんとも言えないのだが。

「…気まずいじゃないですか」
「みょうじちゃんが勝手に気まずいと思ってるんじゃんか」
「だって、」
「上手にできるって、そう言ったでしょう?」

ぎぃ、と松川の掛けていた椅子の背もたれがしなる。2人きりの空間はやはり静かで、言葉を止めると静粛が押し寄せてくる感じだ。松川は久しぶりに対面したなまえの姿を、嬉々として眺めている。頭のてっぺんから、つま先まで撫でまわすように視線をやり、女の部屋で会ったあの時の姿と比べて楽しんでいた。この地味な女があぁも化けるのだ。末恐ろしいとさえ思う。

「…ずるい」
「こっちの台詞。はい、座って待ってなさい。マネージャーから出張土産もらったけど食べる?」

うちの部署男ばっかりだから甘いもの減らないのよねぇ、と。男は独り言のようにぼやき、なまえの方に可愛らしい箱に詰められた菓子を渡してやる。確かに松川の所属する営業部に女は1人しかいない。数個減っていたが、まだほとんどが箱の中におさまっていた。

「…いいんですか」
「いいよ、誰も食べないし。コーヒー残ってるから飲めば」
「カップないから、」
「俺の使えばいいでしょう。ちょっとは自分で考えなさいよ」

男は書類に目を落としたまま、淡々とそう告げた。何で着色しているのかは全くわからないが、美しい色をしたマカロン。自ら買うほど好きではないが、記憶が正しければ有名なお店のもののような気がして、思わずそれに手を伸ばす。図々しいと思いながらコーヒーメーカーに残っていた黒い液体とどこにでも売っていそうなデザインの、おそらく会社用にその辺の100円均一ショップで購入したのではないかと思われる松川のマグカップも拝借した。

「すみません、仕事増やしてるのに私休んでお菓子までいただいて」
「ん?んーん、いいよ」

松川はやらなくてはならない仕事は真面目に行うタイプの人間だ。意外と集中して確認の作業をしている為、女の問いかけにはなんとなく返事をし、短い沈黙。女がコーヒーを口に運ぶ音こそ聞こえたが、それだってなんとなくしか聞こえていない。書類のチェックはちょうど半分ほどは終了した。時間にすると5分くらいだろうか。連日酷使している目はすっかり水分を失っている。年齢のせいか、季節のせいが、瞳が乾燥していると感じることが多くなった。ぎゅう、と瞼を閉じて、開ける。ついでにぱっと女の方を見ればバチリと目が合って。ぼっと赤くなる女の頬はやっぱりあの日を思い出させる。

「…なに見てんの」
「っちが、ちがう、」
「あのねぇ…目が合ったくらいで赤くなってたらバカでも気付くから」
「ごめんなさい、」
「いや謝んなくていいんだけどさ」

しゅんと、視線を落とした女はいまだ顔を赤くしている。なんでこんなに初心なんだろうと疑問に思うほどだ。飲み会なんかでの話を聞いていたらそれなりに合同コンパに行ったり、よくわからない男と食事に行ったりしている…はずなのに。松川は曖昧すぎる記憶を辿るが、はっきりと思い出すことはなかった。正直当時は、この女にさほど興味がなかったのだから仕方がない。

「こ、いいから」
「ん?」
「…お仕事してる、松川さん、かっこよくて、あの、普段あまり見れないから、」

だからつい見惚れてしまって。
そんなことを言っていいのだろうかと悩んだ末に、女は口に出した。この男とは、いつこうやってまともに顔を合わせて話せなくなるのかわからないから。思うことがあったら、今までだったら言わないような言葉でも、とりあえず口に出してみることにした。松川はまたしぱしぱとする目をどうにか書類に向けて文字と数字を追うのを再開した頃だったので、言葉の意味を理解するのに少々時間がかかってしまう。

「…すみません、やっぱり私戻ります」

その変な間の空気に耐えられなかったのか、女はガタンと席を立ち、踵を返したように出て行こうとするから。未だなんと声を出したらいいのかわからないのでとりあえず女の華奢な手首を掴んでみる。ちょっと、という発言が精一杯で、手首を掴んだはいいもののもうそれ以上どうしたらいいのかわからない。だっせぇ、と心の中で思っているせいか、ドラマみたいなベタすぎる呼び止め方をしたせいか、それとも女からの恥ずかしい褒め台詞のせいか、理由はたくさんありそうだが、己の顔も熱くなっているのが自分でわかった。

「…会社で誘惑すんのはダメでしょう」
「誘惑、なんか」
「月半ばの週末に、奥さん帰るからさ、実家」
「…え、」
「また前飲んだメンバーでご飯行こうよ。そっちの部署で予定合わせといて。こっちもあけるから」
「…は、い」
「また、行ってもいい?」
「え?」
「なまえの家、泊まってもいい?」

背の高い松川に、見上げられるのは新鮮で、それだけでドキンとしてしまうのに、それと合わせてなんとも嬉しい言葉をくれるから。頷くのが精一杯でそれ以上何も言えなかった。松川に手を引かれるまま、再び席に腰を落とすと、2人は何事もなかったように、しかし顔だけ赤くしながら仕事を片付けていくのだ。松川はどうにか書類のチェックを終わらせようと試みるのだが、隣にいる女に意識を全て持っていかれてしまい、1ミリも集中できない。情けない自分は久しぶりで、なんだか笑えてくるのだ。

2016/12/03