7周年 | ナノ
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五年の月日を共にした恋人の東京転勤が決まったのは二年前で、私はその時二十六歳だった。にじゅうろくたすに。にじゅうはち。簡単な計算だ。
私はタイムマシンを使用して月日の流れに逆らわなかったので、きちんと、ちゃんと、二十八歳になっていた。それは当たり前のことだったし、それと同じくらい当たり前のように、彼と私は結婚するのだと思っていた。信じていたわけではない。信じるとか信じないとかじゃなくて、溺れるほど彼が愛おしかったわけでもなくて、小指を結んで指切りげんまんをしたわけでもない。でも普通に、そうなると思っていたのだ。だって、二十歳を少し過ぎた時からずうっと、恋人だったから。私と同じ位の年齢ー……もしくは私よりも長く生きている方にはお分かりいただけるかと思うが、二十代女性のこの期間は、とても貴重で尊くて、美しいのだ。もちろんきっと、三十代も四十代も、五十代だって芳醇で優美だろう。ただ、それとまた違う美しさがあるのだ。二十代ってのは。その期間を捧げた人だ。この後の人生の責任を取ってもらわなくては困る。実家に帰省すれば「孫はまだか」「結婚はまだか」などと嫌味を言われる年齢になった。私から言わせればこの令和の時代に何を述べているのだ!と怒り心頭ではあるが、まあ、言いたいことはわかる。
私も、思っているから。
プロポーズまだかな、と。三年……いや、四年前から思っている。

「何にするん?」

二十八歳になりたてほやほやの私は、彼からの呼び出しに浮かれていた。
大阪出張で数日そっちに戻る。話があるから会えない?
思った。あぁ、待ち望んだアレだ、と。花束と指輪を渡され、結婚してくださいと伝えられるのだ。ついに私も寿退社か。そんな風に思った。
だから、いつもよりも丁寧に化粧をした。化粧水をたっぷりいれた肌。パールの入った化粧下地で艶を仕込んでおく。ファンデーションは薄く、頬をメインにのせて額や顎、フェイスラインは余った分でじゅうぶん。パウダーの前にクリームチークを仕込んでおく。真っ赤なそれは、少量をじわっと滲ませるとぽっと蒸気したような頬になって我ながら可愛らしかった。さて、アイシャドウは……いくつか手持ちのパレットを吟味する。頭の中で完成をイメージしながら、忘れがちなアイシャドウベースを塗布する。よく忘れるのだ、これ。

「明太子と……しゃけ。お味噌汁も飲みたい、ある?」
「後は?」
「……食べすぎでしょ」
「ええやろ、二つも三つも変われへんって」

あ、混ぜご飯あるで。今週限定の。
そんなこと言われたら、頼まざるを得ないだろう。

「……治も食べてよね」
「もう飯食ったわ。一人で食えるやろ」
「ここのおにぎり大きいじゃん。三つは食べられないよ」
「腹減ってるんとちゃうん?」
「限度ってものがあるでしょ。私、食べ盛りの男子高校生じゃないんだから。もうだいたい三十だよ、三十」
「いや、同級生やからそれくらいわかるわ」

しゃあない、いつもより小さく握ったる。
治は面倒くさそうに言う。まだ「三つくらい食えよ」と、ぼやいている。

数時間前の話の続きをさせて欲しい。
私は意気揚々とお気に入りの四色パレットを手に取る。半年ほど前に購入した人気ブランドの限定品だ。右下のチョコレートのように深いブラウンをアイラインの代わりに。その隣、柔らかくしっとり溶け込むようなスモーキィ・ベージュをアイホール。それと眉の境目は毛足の長いブラシを使い、右上の淡いカラーで馴染ませてやる。左上のダイヤモンドを砕いたような眩いラメは黒目の上にのせた。瞬きの度にちらちらと輝き、美しい。ついでに下瞼にもほんの少量。うん、可愛い。いい感じだ。ビューラーでまつ毛の根本と中央、毛先をくるんをカールさせる。ブラックのマスカラは根本にたっぷり、毛先は馴染ませる程度。この方がカールキープ力が高くなる気がするのだ。言うまでもないが、今日はウォータープルーフ。なんでって?泣くかもしれないじゃない、待ち望んだプロポーズなんだから。
いつも通り、でもいつもよりも慎重に眉を描く。毛流れに逆らって眉マスカラを塗る。あぁ、アイライン。忘れるところだった。夜のレストランだ、少し長めに描いてもいいだろう。グレーのアイライナーを仕事の時よりも二ミリ長く引いた。さて、リップはどれを塗ろうか。ベージュよりは華やかな方がいい。濁りのない赤は少しキツいだろう。オレンジはカジュアルすぎるだろうか。散々悩んで、明るすぎず暗すぎないレッドブラウンを滑らせた。全く、こんな落ち着いた色が馴染む年齢になったかと感慨深い気持ちになる。ハイライト、ノーズシャドウ、シェーデイング。全てわざとらしくないように、主張しすぎないように、でも念入りに。
よし、いいだろう。右を向いて、左を向いて、ふうっと息を吐く。
鏡にうつる自分に「お疲れ様」と声を掛けたくなる。今日という日を愛おしく思う。同級生が結婚し、出産し、子育てをし、家を購入する中、それに気づかないフリをして仕事に身を捧げてきた。そんな私も、長く付き合った恋人にプロポーズされるのだ。そりゃあ、愛おしくもなる。

「別れよう」

その言葉がやってきたのは、まだアミューズが運ばれてきた頃だった。ホテルの十七階にあるレストラン。スパークリングワインで喉を潤したところだ。仕上げに髪をうるんと巻いて、オイルで艶を出して、身体のラインが綺麗に見えるタイトなニットワンピースを身に纏い、シューズクローゼットの奥底で眠っていた七センチのヒールに足を突っ込んで、ここ数ヶ月の私で一番可愛い私だった。
彼はその後、つらつらと「別れ」を選択した理由を述べていたが、ほとんど私の耳には届いていなかった。身体が拒否をしていたのかもしれない。頭が真っ白だったのかもしれない。どれくらい時間が経ったのかも検討がつかないが、夫に「なるはず」の彼が心配そうに私の名を呼んだところで席を立った。何も言わなかった。言ってやらなかった。そのまま店を出た。彼ではなく、給仕係が私を呼び止めようとして、大声で笑いたくなった。こんな人だったのか。別れ話をこんな洒落たレストランでする人だったのか。そんな男だ、こうなったことを感謝するべきなのかもしれない。いや、そうじゃない。私が「追いかける価値のない女」なのだ。私は、その程度の女なのだ。そういうことだ。
さよならさえも言わなかった代わりと言ってはなんだが、エレベーターの中でメッセージアプリを開き、彼をブロックした。非常に簡単なピリオドだった。続けて電話帳を開く。彼を探す。着信拒否をする。登録を削除する。数十秒の作業だった。
令和って、いい時代だ。指先で縁を切れる。もう二度と、声を聞かなくて済む。顔を合わせなくて済む。そう思わないとこの小さな箱の中で泣き崩れてしまいそうだったから、きっとこれでいいんだ。これで。

「はい、お待たせしました。どうぞ」

他所行きの、接客モードの治の声が可笑しくて、私は少し笑った。その後で泣きそうになって、慌ててつやつやでほかほかのおむすびを頬張った。美味しくて、あたたかくて、満たされて、遂にほろっと泣いてしまった。
近所に彼が店を構え、時折お邪魔するようになったのは二年前だろうか。仕事で疲弊し、くたくたの身体を引き摺って入店することも多かった。角のカウンターの席をいつも案内してくれる。ヨレヨレのメイク、引っ詰めただけの髪。彼はいつも「今日も疲れてんなあ、お疲れ様、偉いなあ」って声を掛けてくれたもんだ。女がバリバリ働いてどうするんだ、みたいな。そんな類の言葉を寄越したことはない。どちらかと言うと、そんな泥まみれの私を称賛しているような感じだった。

「……そんな美味い?いや、まぁ、美味いやろうけど」

住み慣れた部屋に、どうやって帰ってきたのだろう。多分……、多分というか、絶対に電車に乗って、駅から歩いてきた。その証拠に、履き慣れないヒールのせいで靴擦れを起こしているから。それでもいまいち、記憶がなかった。どうやら私、ちゃんとショックを受けているようだ。洗面台に駆け込む。鏡に映る自分がちゃんと綺麗で、ホッとする。よかった、美しい私のまま彼とお別れができて。いつか、どこかで後悔すればいい。あの時プロポーズしておけばって、後悔しながら生きればいい。そんな風に思う私だからいけないのだろうか。結婚するほどでもない女、という烙印を押されてしまうのだろうか。もう用無しとなった 甘美なメイクを施した自分を見ていると、今朝を思い出し、腹が立ってきた。お気に入りのクレンジングバームを手に取る。一万円ほどする、高価なものだった。あーあ、もったいない。そう思いながらもまだ美しいままのメイクをゆったり落とすのは気分が良かった。目元は入念にくるくると馴染ませ、ふっと指先が軽くなった頃にぬるま湯で流す。こんな時でもその後でいつも通りのスキンケアを行う自分を褒め称えた。すっぴんとお気に入りのワンピースはとても相性が悪くて乱雑に脱ぎ捨てる。繊細なレースの下着もお役御免だ。一緒に脱いで、裸になって、ノンワイヤーのブラジャーに色気も何もない綿のショーツ。裏起毛の上下のスウェット。そのまま洗面所でへたりと座り込む。静寂。今日、何が起きたのか、わかるようでわからなかったが、わからないほうがいいのかもしれないような気がした。数時間前の浮かれた自分が恥ずかしくて、惨めだった。油断すると泣き叫んでしまいそうで、怖かった。それでも、こんな時だっていうのに、情けない音色でお腹が鳴る。コース料理と聞いていたので遅めの朝食を胃におさめただけだった。時計を見る。夜の八時。可笑しいなぁ。こんな、人生のどん底にいるというのに、腹が空くのか。人間ってどうしようもないな。

「ごめん、いま大丈夫?」

ふと、思い出す。電話帳を漁ったときに見た名前。宮治。私の家からほど近いところに店を構えてから、毎月何度かお世話になっている高校の同級生。当時、仲が良かったわけでも悪かったわけでもない。いまもそれは変わっていない。どちらかと言えば学校という狭い水槽から抜け出し、歳を重ねた今の方が関係は良好かもしれない。無性にあの味が恋しくなった。でも多分、営業時間を過ぎているような気もした。いま思えば、電話をかけたのは私なりのSOSだったような気もする。意外にも繋がって、ということは営業時間外というわけで、でも彼は私の腹が減っていることを知ると店に来るように言った。あ、そういえばメイク、落としたんだった。でもまぁ、そんなことはどうでもよかった。ファンデーションも塗らないまま、パウダーだけ叩き、眉毛をぺぺっと、適当に描く。面倒だと思いつつジーンズに履き替え、分厚いアウターを羽織って外に出た。
そして治は私を出迎えてくれた。聞けば、定休日らしい。ごめんと謝っておく。別にいい、と素っ気ない返事がやってきた。着席すると何にするのか聞かれ、先ほどのような会話があり、彼の作った握り飯を咀嚼し、私は漸く泣いた。ここまで特に表情に変化のなかった治がギョッとしたので、私が長年付き合った恋人に別れを告げられ、ここに逃げ込んだとは思ってもみなかったのだろう。それもそうだ。彼に恋人のことは話したことがなかったからだ。聞かれたこともなかったし、正直話題に上げるような出来事はここ数年何もなかった。そう思うと、こうなったのは結構当たり前のことなのだ。私の想像力が足らなかっただけで、周りからみたら「だよね、別れると思ってた」って感じなのかもしれない。

「え、ほんまにどないしたん?急に連絡きたからなんかあったんかとは思うたけど」
「なんかあったと思ったんだ」
「電話なんかしてきたことないやん」
「だからわざわざお店開けてくれたの?」

優しいんだね、と言ってやる。その優しさがボロボロの私に沁みて、泣いているような気もする。色々なことが起こり過ぎて、よくわからない。

「昔から優しいやろ、俺は」
「侑よりはね」
「アレと比べられてもな」
「フラれたんだよね」

しん、と店内が静まり返ったような気がしたが、実際のところどうだったのかは私に判断できない。治が、必死になにか言葉を探しているような気はした。やっぱり優しいんだと思った。

「ごめん、コメントしづらいこと言って」
「いや、聞いたん俺やし」
「それなりにショックだったんだけど」

それなり?違う。「かなり」だろう。もっと言えば「かなり、相当」だ。何を格好つけているのだろうか。せめてもの防衛本能なのだろうか。

「コレ食べたら元気になった。ありがとう」
「ナマエ」
「ん?」
「またおいで」
「……うん」
「いつでもおいで。元気なくなったら」

そういえば治は、いつもそう言ってくれてたな。
疲れたらおいで。
お腹空いたらおいで。
何もしたくなくなったらおいで。
店開いてる時いつでもおいで。
だから私はつい、ここに寄ってしまっていたのかもしれない。行きつけの店なんてないのに、ここだけはつい、寄ってしまうのだ。治のせいだったのか。
営業トークの「おいで」を間に受けている、バカな女だ。だから、長年付き合った恋人にフラれるのだ。

「……うん」
「腹減ってると元気出んから」
「うん」
「あんま無理せんとってな」
「うん、ありがとう」
「ほんで、ちょっと落ち着いたら俺のこと彼氏候補にしてくれへん?」
「え?」

治が、こちらを見つめて言う。一瞬ぱちっと目が合って、私は自分が化粧をしていないことを思い出し、俯く。今更だっていうのに、もうどうしようもないというのに、恥ずかしくって、どうしようもなくて、小一時間前の自分を恨んだ。なんで落としたんだろう、あのメイク。

2023/01/19