さんねんごくみのくろおくん | ナノ
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「ごめん、なんか探るようで申し訳ないんだけど」

楽になりたかった。人間ってそんなもんだ。あの日の彼女の表情がどうやったって、離れない。
もう説明も不要な水曜の昼下がり。面倒なことなど、なるべく避けて通りたい。見て見ぬふりをしたい。破裂しそうなものには触れたくない、近付きたくもない。でも、いつまでも放置するわけにもいかず、俺はできるだけ自然に問うた。前の彼氏とどうだったの、と。

「どう、って」
「あー……その、どっちから告白したのかな、とかさ」
「それは、向こう…ですけど」
「へえ」

彼女の言葉はぷつぷつと途切れがちで、やっぱりこんなことを質問すべきでなかったと、後悔し始めた頃だ。気まずそうな、情けなさそうな表情を浮かべたなまえちゃんは、悩んだ様子で言葉を寄越す。

「……黒尾先輩と付き合って、アレって好きじゃなかったんだなって。私、誰かと付き合ったことなくて、初めて付き合ったのが彼だったので、それであんなもんなんだって思ってたんですけど……黒尾先輩のおかげでこんなに、なんていうか、その、楽しいし、しあわせで、こんな、いいのかなって…自分なんかが」
「……いいでしょ、勿論」
「その、この間、ごめんなさい、すみませんでした、急に」
「ん?」

彼女が何に対して謝罪をしているのか、わかっているのにわからないふりをする、そんなどうしようもない男でごめん。不釣り合いなのは俺の方だよ。

「私、何も経験なくて」

食い違う。先日、気だるい昼休みにクラスメイトから聞いた情報と、彼女の発言。思考が止まる。いけないと思い、すぐにスルスルと動きだしたが、脳はたっぷり混乱したままだ。

「なのになんか焦っちゃって、ご迷惑をおかけすると思うんですけど」
「あいつとは?」
「あいつ……?あ、前の」

数ヶ月前のことだろうに、幼少の記憶を掘り起こすようだった。頭の中をぐるっと一周巡った彼女は、己を嘲笑うかのように、恥ずかしそうに言う。なんにもなかったんですよねと、小恥ずかしそうに。俺がそう思いたいだけなのかもしれないが、それにしたって、どこからどう見たって、嘘をついているようには思えなかったのだ。

「付き合ってたって言っていいんですかね、何もなかったのに」
「……三ヶ月くらい、付き合ってたんじゃないの?」

恋人の過去の恋愛にグタグタと顔を突っ込む男など、ダサくて惨めで救いようがないとわかってはいる。それでも、聞いていた情報と彼女の口から発せられる言葉の差異は疎ましく、質問をひっ込めておくことができない。ちゃんと、安心したい。

「告白してもらって、そんなの初めてだったから浮かれて……なんとなく付き合って、二回くらい一緒に帰りましたけど、手も繋ぎませんでしたよ。未だに友だちに揶揄われるんです。それって付き合ってたにカウントしていいの?って」
「……あのさぁ」
「はい、」
「ごめん、言わないほうがいいのかもしんないけど、俺、そいつといま同じクラスで」
「あ、そうなんですか?」

教室であったことを、掻い摘んで伝える。だからごめん、最近それが引っ掛かってて。なまえちゃんにどんな顔したらいいかわかんなくて。それを口早に、ほとんど独り言のように、吐き出すように。

「そう、だったんですか」
「ごめん、大変申し訳ない」
「いえ、あの……黒尾先輩が信じたい方を」
「キスしていい?」
「えっ」

で、吐き出して、勝手に楽になった俺は随分と勝手な発言をした。彼女の親切で丁寧な言葉には、心の中で返答してやる。信じたい方なんて、そんなの、なまえちゃんに決まってるじゃない、と。

「もう終わっちゃった?俺とキスしたい期間」

ずいっと、顔を覗き込む。パッと目が合って、あっという間に逸らされて。可愛いなぁ、もう。もっともっと意地の悪いことをして彼女の困った顔が見たいような気もしつつ、好きだからずっとただただ笑っていてほしいとも思いつつ。好きって、複雑で、面倒だ。

「終わってない、です。終わってないんですけど、なんていうか、こ、心の準備が」
「……ほっぺならいい?」

それもダメ?
彼女は気まずそうに視線を泳がせ、何か言いたそうにするものの何も言わず、唇を噛んで、解放し、息を吸って、止めて、のろのろ吐いた。俺はそれを黙って待った。「ごめんね、まだ早いよね。やめておこうか」なんて言えるほど、成熟した高校三年男子じゃなくてごめんね。はっきり言うと、選択権なんてないんだよ、なまえちゃんに。

「っ、……は、はい、あの、黒尾先輩、」
「はあい」
「私も、したい、……です」

頬も耳も真っ赤に染め、瞳は潤んで、その様子はあまりにも愛おしくて、つい「可愛いね」と、声に出してしまう。何度言えばわかるだろうか。本当に可愛くて、可愛くて、どうしようもないのだけれど。

「ごめんね、この間」
「……この間?」

髪を撫でる。彼女がいちいち、びくびくと反応し、水分をたっぷり抱え込んだ目でこちらを覗く。

「……わかってるくせに」
「……黒尾先輩が謝るようなこと、ひとつもないですよ。私が勝手に、」

柔らかい頬。唇でそっと触れる。離れる。たったそれだけのこと。それだけのことなのに、なまえちゃんも、そして何がなんだかわかっていない俺も黙って、互いに恥ずかしいと嬉しいをじわじわ蓄積させていた。ごめんなさいね、格好悪い彼氏で。こちらも初めてだから、勝手がわからないのよ。それでも湧き上がってくる感情。彼女の耳に唇を近付けて、言う。

「ごめん、唇にしたら嫌だ?」

嫌だったら嫌って言って、しないから。
そう続けると、彼女は困ったような顔で「嫌じゃないです」とぽそり、答えた。

2021/05/03