ギルギルギルティ | ナノ
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「#エロ」のBL小説を読む
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あぁ、一緒にいなくてよかった。黒尾は真っ先にそう思った。なまえと一緒にいる時でなくて、本当によかった。ホッとさえしている。三月に入って一週間と少し。先日三年間お世話になった高等学校の卒業式を終えた。第二ボタンは約束通り期間限定の恋愛をする彼女の元へ。ただのボタンだ。ただのボタンなのに、なまえにとっては宝石みたいにキラキラとして見えるのだ。その辺の手芸屋に売っているであろう、よくあるつまらないデザインのボタンを何度も手に取り、眺め、愛おしそうにするなまえ。そんな健気な女の姿を見て、黒尾はまた、好きになるのだ。もうこれ以上ないってくらいに好きなのに、また、もっと好きになる。相変わらずの微睡んだ時間。終わりを意識しないわけではないが、それでも共に過ごす日々が楽しくて、幸福で、ずっと続くのではないかと錯覚せずにはいられないほどで。そして、とても暖かな今日。こちらにも漸く、春一番が吹いた。若く溌剌とした女性アナウンサーが嬉々として伝えてくれる。そうだ、本来こういうものなのだ。嬉しいことなのだ。春の訪れを知らせる、和やかで細やかなニュース。なのに高校を卒業したばかりの十八歳の男は、瞳にたっぷり涙を溜めていた。彼女は、なまえさんはこのニュースを聞いただろうか。というか、もう、自分たちは終わったんだろうか。胸がキリキリ苦しくなる。こうなるとわかっていた。何度も描いたエンディングなのに、辛いと、悲しいとわかっていたのに。生まれてからまだ十八年しか経っていない黒尾は、たったそれっぽっちしか生きていないと言うのに生意気にも思うのだ。大人たちが言う「社会に出たら大変なことなんか沢山あるし、いま辛いと思っていることなんてちっぽけで何でもないことだと思える」みたいな、あの類の助言は自分には当てはまらないと。どう考えたって、今日が。今日この日が最も、黒尾にとっては受け入れがたい日だ。去年より八日遅い、春一番だった。

「見た?ニュース」

暫くした頃、まだ乱れたままの心と一緒に朗らかな声に会いに行く。偶然なのか必然なのか、今日は元々、夕方から会う約束をしていた。行ってもいいのか、男はずいぶん悩んだが、言うまでもなく会いたいわけで、通い慣れた彼女の家までの道のりをざわざわとした心境で進む。呼び鈴を鳴らせばあっさりと顔を出した彼女。玄関の扉を開けると、真っ先にそれだ。黒尾はなまえが何を考えているのか全くわからなかったし、なまえは震えずに発せられた自分の声に安堵していた。所用を済ませ、家に戻ろうと乗った電車の中。スマートフォンを弄っていると、ディスプレイに見たくもない見出しを見つけた。関東地方で「春一番」発表。世界一くだらない発表だと思った。黒尾同様、なまえも考えた。いま、この瞬間に私たちは終わったのか、と。連絡をしようと思ったが、繋がらなかった時のことを考えると吐きそうになったのでやめておく。じいっと、待つだけだ。すっかり彼が馴染んだあの部屋で、インターホンが鳴るのを、ただただ、待つしかないのだ。

「うん」
「そっか」
「…おじゃましてもいい?」
「うん、どうぞ」

だから、黒尾の姿を見た時、真っ先に思ったのだ。よかった、来てくれた。お別れの場を設けられた。それだけでもじゅうぶん、ありがたかった。だから、絶対、泣いたらダメだ。そんな風にして彼を引き止めてはならない。気分屋な南風が私たちに微笑まなかっただけだ。そりゃあそうだ、してはならない恋愛をしているのだ。成人式を五年も前に終えた女と、やっと高校を卒業した男。とても、罪深い恋愛だ。

「去年よりはちょっと遅かったみたいね」
「八日遅いんだって、やっぱり結構マチマチだよね」
「ね、二月のこともあるもんね」
「わりと、頑張ってくれたよね」
「頑張ってくれたって?南風?」
「そう、南風。頑張ってくれたなと思って」
「でも、あともうちょっと、」
「ん?」
「…ううん、いい。ごめん、」
「春分の日まで吹かなければいいって、思った?」
「え?」
「なまえさん、それ知ってんの?春一番、吹かない年もあるって」
「…黒尾くんこそ、知ってるの」
「理科の授業で先生が言ってたから」
「あの時にもう、知ってて言ったの?春一番が吹くまでって、」
「…俺ね、まじで思ってたから。運命だって、俺たち」

あの日。何度も思い出す、あの、数ヶ月前の誕生日。クラスメイトに雑多に祝われたあの日。いつも通り部活動を終えて、いつも通りに電車に乗る。近くに立っていた、歳上であろう女。鞄から何かを取り出した時に入れ替わるように飛び出し、もちろん重力に逆らうことなく落ちていくカードケースに気付かず、彼女は電車から降りてしまう。それを咄嗟に拾って咄嗟に追いかけた黒尾は、多分お人好しなんかじゃない。いいや、黒尾はとても親切で面倒見もいいが、ごちゃごちゃとした駅のホームで真っ直ぐになまえを探し出せたのは、引き寄せられるような感覚があったからだ。磁石のS極がN極を引き寄せるように。それはとても弱い力だったが、それでじゅうぶん。だから、後ろ姿だけでも迷うことなく追える。声を掛けて振り返ったなまえは、高校生の黒尾からすると完全に大人のオネエサンで、自分のような恋愛対象外であろう男が彼女の瞳に映ったことが、恥ずかしくて悔しくて。制服という鎧をまとった自分が嫌になるが、そんな自分に引っ切り無しに謝罪とお礼を届けるなまえが可笑しくて、あっという間に好きになる。実際、あの頃は好きなのかどうなのかもわかっていなかったが、今考えると、あれはもうどう考えたって好き以外の何物でもなかった。あの頃から今日この日までずっと、黒尾はなまえのことが好きなのだ。そして季節が変わろうと、歳を重ねようと、これからもずっと、好きなのだ。

「運命じゃなきゃ、一緒に居ちゃいけないの」
「ん?」
「それじゃダメなの?」
「いや、だって、」
「…黒尾くんやっぱり子どもだよ。みんな、そんな、運命なんかで恋愛してない、そんなに綺麗な恋愛してないよ」

なまえは、周りの、結婚していったさして仲の良くない友人に問いたかった。なんで結婚したの?どうしてその人と結婚したの?何が決め手だったの?多分、少女漫画のようなロマンチックで胸がキュンとするような返答はない。なんとなくそんな年齢だし、付き合って四年経ったし、周りもみんな結婚してるし。そんな、なんのネタにもなりそうにない理由ばかりだ。それに嫌悪感を覚えたりはしない。自分もそんな感じでそうなると思っていたから。でも、だったら、だとしたら。いま、自分が歳下のこの男に抱いている感情は、結婚する理由にならないのだろうか。自分がこんなにも言葉で形容しがたい気持ちを抱くとは、予想もしなかった。好きで好きでどうしようもなくて、堪らなく好きで、苦しくって仕方がない。もう会えないのだと思うとぼたぼた涙が落ちて、胸がぎゅうぎゅう、握り潰される。なのに、訳の分からない風が吹いたら別れるって、なんでそんな苦行を強いられなくてはならないのだ。年齢が七つも違うから?彼がやっと高等学校を卒業したばかりの子どもだから?別れた方がいい理由は沢山ある。でも、別れたくない理由も山ほどある。別れたくて仕方ないのに、別れたくなくて仕方なくて、なまえはもう、全然わからなくなっていた。どうするべきなのか…いいや、別れなくてはならないのはわかるが、別れたくないのだ。でも、別れなくてはならない。そんな自分の我儘に、何も知らないこの男を巻き込むわけにはいかない。彼はこれから沢山の人間と出会うのだ。その中でまた今回みたいな程よい偶然を運命だと捉えられたら傷付くのは自分だし、でも彼にとってはきっと、その方がいいのだ。ただ、思ってしまう。それでもなんでも、やっぱり、なまえは黒尾が好きなのだ。どう頑張っても、もう押さえ込むことなどできないのだ。

「ていうか、誕生日同じ人なんて結構いるよ」
「いないでしょ」
「いるよ、わりと」
「俺、誕生日同じ人ってなまえさんが初めてだよ」
「なんなら私、いまの職場にいるよ。女の人だけど」
「は?まじで?」
「まじで」
「…じゃあなに?今までずっと、このガキ運命運命ってうるせえなー、同じ誕生日とか結構いるっつーの!とか思ってた感じ?」
「…思うわけないでしょ」
「でもさ、」
「かわいいなーって、…かわいいな、うれしいなって、思ってたよ」

大型量販店で購入したソファ。黒尾の第二ボタンと同じくらい、シンプルでつまらないデザイン。すっかりおなじみになった二人の定位置。テレビはつけない、あのくだらないニュースはもううんざりだった。なまえの声は随分頑張ったが、とうとう潤んでしまう。黒尾は大好きな女の顔を見たら悲しくなってしまうことがわかりきっていたので、もう見ることができないであろうこの部屋の床に視線を落としていたが、震えた声にパッと顔を上げる。今にも泣き出しそうな、唇を噛んだ女は、さぞ愛おしそうに黒尾を見ていた。そんななまえを見て、黒尾もあっという間に、泣きたくなった。

「うれしい…そうだね、うれしいし、なんか…、何だろう、すきだなーって思ってたよ」

黒尾に出会って、誕生日が一緒だと知らされて。それを照れ臭そうに伝えてくれる彼は、健気で可愛かった。嘘か真か、自分を初恋の人だと言う。十八歳にもなって、百八十をゆうに超えた身長の、ガタイのいいサッパリとした顔立ちの高校三年生。もう恋愛なんか沢山していそうで、そういう年頃で、なのに私なんかを求めてくれる。いじらしくて、ほおっておけなくて、基本的にとても大人っぽくて、そこに不自然さはないのに時々とても子どもっぽくなる。好きで好きで、どうしようもない。そんな彼に泣きそうな顔を見られてしまった。なまえはどうにか落とさないようにして、言葉を続ける。

「そういう、子どもみたいなところも全部ひっくるめて…黒尾くんのことすきだなって。…すきだなぁって、思ってるよ」
「…いまも?」
「ん?」
「…今日もまだ、俺のこと好き?」
「うん、好き」
「本当に?」
「ごめんね、私…、運命じゃなくても、黒尾くんが好きだよ。黒尾くんの運命の人は私じゃなくて、他にいるんだろうけど」

私は黒尾くんのことが好き。
なまえはその言葉と共に、ほろほろと涙を落とす。ごめん、とうわ言のように謝り続ける女の頬を濡らすそれを、黒尾は必死に拭ってやる。謝らないでよと伝えるが、なまえの耳には全く、届きやしない。声を飲み込むように、肩を震わせて泣くものだから、拭っても拭ってもどうにもできなくて、黒尾の指もぐっしょりと濡れる。そんななまえを黒尾はぎゅうと、抱き締めた。背中をゆっくりたっぷり摩って、大丈夫だからって、何が大丈夫なのかもよくわからないが言う。恋愛初心者の黒尾には、こんなことしかできないが、なまえはそれでじゅうぶんなのだ。特別なことなんかしなくていい、ただこうやって、互いの体温を共有できればそれでいい。だが、それも許されないような気がして、やりきれなくなる。好きなだけなのに。ただ、好きでいたいのに。

「くろおく、っごめんね、ごめん…でもね、でも好きなの、ごめん」
「なまえさん、謝んなくていいって」
「でも、だって、っ」
「大丈夫だって、いいから、泣かないで」
「ごめ、っ…わたし、ごめん、」
「大丈夫だから。大丈夫、なかないで、」
「わたし、黒尾くんのこと、…っ、好きになっちゃって、ごめんね…ごめん、」
「…好きになっちゃってごめんね、って、」
「わたし、…っん、ごめ、…っごめん、」
「…好きになれなくてごめんねって言われるのはわかるけど」
「だって、」
「俺も、本当、好きだから」

出会ったあの日も、なまえはたくさん謝っていたなぁと、黒尾は懐かしく思う。力一杯包み込み、柔らかい髪を撫で、大丈夫だからって唱える間…いや、さっきからずっと、胸がギシギシと痛むのだ。こんな言葉をこんな声で漏らすほどに、女は苦しんでいたのだ。優しくて、芯の強いなまえのことだ。自分が歳下なばっかりに、自分なんかよりも何倍も悩んで、考えて、それで、春になったら別れようって、あの言葉を伝えてくれたのだろう。

「なまえさん、聞いて?」

どんなに願ったって恨んだって、こればかりはどうしようもない。なまえも黒尾も全く悪くない。誰も、悪くない。七年という歳月にも罪はない。黒尾はしゃくり上げて泣く女の背中を、赤ん坊をあやすかのように優しく摩りながら、言う。

「俺はなまえさんに幸せになってほしいから…俺と一緒にいたら幸せになれないんだろうな〜じゃあ別れるのが一番いいんだろうなぁと思ってたからさ。だから、春一番が吹いたらって提案したんだけど…。ちなみに、俺は…俺はね?あくまでも俺の意見なんだけど…俺は、なまえさんと一緒にいられればそれで幸せだよ。なまえさんは違うの?」
「っ、ちが、私、」
「泣かなくていいから。大丈夫、なまえさん悪くないって」
「わかっ、てたの…だめだって、なのに、」
「…好きな人に好きになってもらえたのに、謝ってほしいと思うと思う?」
「…だって、」
「歳上とかそんなんいいから、好きな人に好きって言ってもらえんだよ?なのにさ、そんな、…思うと思う?謝ってほしいって」

久しぶりに声に出したが、やっぱり、変な言葉の響きだと思った。初めて身体を重ねた日、何と無くもどかしい気持ちでいっぱいだった黒尾に、なまえは悪戯小僧のように笑ってそう問うた。好きな人に好きって言われて迷惑だと思うと思う?とてもヘンテコな日本語で、ちょっとひっかかる音の響き。なまえも一瞬ぽかんとして、その前の問いを忘れかけてしまうが、でも、答えは決まっていて。

「…思う、と思わない」
「でしょ?」
「けど、」
「けど、禁止にしません?だって、もダメね」
「…黒尾くん、」
「俺の好きな人が俺のこと好きって言ってくれんだから、嬉しいに決まってんじゃん」
「でも、」
「でもも禁止〜」
「…どうせ、は?」
「禁止です、つーかその質問必要?」

泣きながら笑うのは変な感じだった。黒尾は少しずつ落ち着いてきたなまえに安心しつつ、まだあやすのをやめない。大丈夫、大丈夫って、呪いのように唱え続ける。半分は自分に言い聞かせているような感じだ。大丈夫、まだ自分たちは終わっていない。また進んでいける、大丈夫。そうやって己のキリキリとした心を宥めているのだ。

「ありがとね、なまえさん」
「え?」
「俺のこと好きになってくれて、ありがとう」

じいっと、見つめ合う。お互いに何か言おうとするが言葉よりも重ねる方がよっぽど、分かち合えるような気がして。黒尾の方から提案する。キスしちゃダメ?って、聞いてみる。女の耳元で、精一杯かっこ良さそうな声を出して言ってみたが、それが彼女を喜ばせているのかどうか、この十八歳の男には全くわからない。黒尾は少々それが気掛かりではあるが、大丈夫。ちゃんと、なまえの心臓はこしょこしょ震える。二人の唇はそおっと近付いて、そおっと一瞬触れ合い、そおっと離れた。まだひっきりなしに鼻をすするなまえは、ぷつぷつと途切れる声で、絞り出すように言葉を紡ぐ。

「くろおくん、」
「ん?なに?」
「…約束して、」
「うん?」
「他に、好き人ができたら、ぜったい言って」
「…うん」
「私、ちゃんと別れるから、」
「なまえさんもね」
「わたしは、もう、」
「わかんないじゃん、春から超カッコイイ新入社員来るかもよ?」
「来ないよ」
「…そこはさ、来てもクロオクン以外興味ないって言ってよ」
「ふふ、そうだね、ごめん」
「つーか、俺ももう、なまえさん以外興味ないよ?」
「…そんなこと言って、絶対、大学行ったら可愛い子見つけて好きになるじゃん」
「ならねーって」
「行ってみないとわかんないでしょ」
「それがわかっちゃうんですよ、俺」
「…約束ね?」
「ハイハイ、なまえさんもね。こんなクソガキに飽き飽きしたら遠慮なく言ってください」
「…言っていいの?」
「そうならないのが一番いいけどね。俺はなまえさんが幸せならそれでいいからさ」
「…もうちょっと高校生らしく我儘言えば?」
「もう卒業しましたから。…ま、とにかく、なまえさんが俺と一緒にいて幸せなうちは、一緒にいてもらえると僕としてはとても嬉しいです」
「…はい、」
「はい、よろしくお願いします」
「いいの?」
「ん?何が?」
「別れなくて、…約束したのに、」
「いいんじゃない?元々、俺たちが勝手に作った法律だし」

漸く落ち着いてきた女の背中を摩るのを、黒尾はまだ、やめない。いま、なまえが隣にいることを確認しているのだろう。こうやって、触れられている。手のひらから体温が伝わってくる。

「破ったって誰も咎めたりしないよ」

その言葉を聞いたなまえは、やっと黒尾の背中に腕を回す。程よく草臥れたソファでぎゅうぎゅう抱き合う二人のことなんか、黒尾の言う通り誰も責めたりしない。二人がいいのなら、これっぽっちも問題ないのだ。確かに、春一番が観測されない年もある。今年はきちんと、やってきた。だからなまえと黒尾は運命の相手じゃない?だったら、別に赤い糸なんて結ばれてなくていい。こっちで勝手に結べばいいから。糸の色なんて青でも緑でも黄色でも、なんだっていい。その辺にある適当な糸で二人の小指を括り付ければ、それでいいのだから。

2019/03/12 end