「送るよ」という彼の提案を断らなかったのは、はじめてのことだ。「えぇ、いいよ、大丈夫だから」なんて一度も言わず、代わりに微笑んで「ありがとう」と。駅から自宅までの道のりを彼と肩を並べて歩くのは、やっぱりとても、心地よかった。高校生の男の子に送ってもらうほどか弱くもないし何かあったらそれなりに自分で対応できるのだけれど、ごめんね。一緒に居たいから甘えさせてね。
「さっき、ごめん」
「ん?」
「酷いこと言って」
「酷いこと?」
「…タイプじゃないとか、なんか、その辺のこと」
ぐちゃっとした心境の中、勢いに任せてついた嘘だが、きっと傷つけてしまっただろう。何ならそれを口にした私も精神的にすり減っているほどだ。彼に付けてしまったそれを癒して、同時に自分も楽になりたくて。
「あぁ、その辺のこと」
「うん、」
「いいよ、そんなの」
「好きだから」
「うん」
「ごめんね」
好きになってしまって、それを隠しておけなくてごめんね。終わりを見据えたこの恋が幸せなエンディングを迎えないことは考えずともわかることだ。期限付きの、有罪にほど近い恋愛。まだ罪悪感があるだけマシなのかもしれない。十二月がゆっくり私の生活に馴染んでくるのと同じように、この罪の意識も溶け込んで、普通の恋愛をしているように感じてしまうのが今からもう、怖かった。そうなってはいけないと思うが、今日だって数時間前までは何もしないと、心に決めていたわけで。なのに、沈めておいた好きは瞬く間に浮き上がり、言葉になって飛び出してくるのだ。つまり、私の決意なんてものは、子どもが楽しく重ねた積み木みたいにぐらぐらなのだ。放っておいたって、崩れるのだ。
「なまえさんが謝る必要はないでしょ」
「いや、何て言うか…うまく言葉にできないんだけど」
「俺が先に好きになったんだし」
「それ、関係ある?」
「うーん、まぁ、なんつーか…」
高校三年生の男の子が、五年も前に成人した女に気を遣い、言葉を選んでいる。滑稽なことだった。私は感情に任せた発言をし、幾度も彼を困らせたというのに。多分この先も私は何度も何度も彼に酷い言葉を投げつけるだろう。でもきっと彼は、そうしたりしない。いつも立ち止まって、私が安心するような言葉を贈る。ほら、今だってそうだ。
「優しいんだよね結局、なまえさんは。俺みたいなガキが迫ったって相手にしなきゃいいのにちゃんとほら、考えてくれるから」
「…違うよ」
「ん?」
「優しいから、相手にしてるわけじゃないよ」
そもそも、優しかったら、親切だったら、相手にしてはいけないのだ。履き違えてはいけない。私と黒尾くんは「もう会わない」が正解なのだ。それを知っていながら、わかっていながら関係を築いた私に、優しさなどありはしないのだ。
「黒尾くんだから、相手にしてるの」
じゃあ逆に、こうなってしまったのだから。これから彼にどの言葉を届ければ、喜んでもらえるのだろうか。初めて部屋に招いた時からずっと、私は彼に攻撃的だった。どうにもならないよ、もっといい人がいるよ、うまくいくはずがないよ。そんな類の言葉ばかり吐いていたから、せめて、今日から春になるまでは。
「黒尾くんのこと、好きだから。本当に、好きだから」
好き。その二文字で正解なのかはわからない。大好き、の四文字の方が、喜んでもらえるのだろうか。いや、もっとも文字数は関係がないように思うけれど。これでいいのなら何度だって言おうと思う。こんな、たった数文字の言葉で黒尾くんを喜ばせることができるのなら、何度でも。
「大好きだから」
それにしたって、やっぱり駅から近すぎる。物件を契約するときはとても魅力的だったその条件が、こうなっては不平不満の原因だ。案の定あっという間に到着し、やや暴走気味だった私はふと冷静になって彼に謝罪を。
「…ごめん、急に」
「いや、」
「ありがとう、送ってくれて」
「うん」
「…黒尾くん?」
彼は一歩、私に近付いて絵に描いたようにゆっくり、おそるおそる、背中に手を回す。抱き締める、なんて言葉は不似合いだった。包まれている、みたいな表現の方が、いくらかしっくりくる。擽ったくて、あぁやっぱり好きだと、愛おしいと、じわじわっと、溢れてくる。
「黒尾くん、」
「すみません」
「なんで謝るの」
「いや、なんか」
「いいでしょ」
微弱な彼の力とは裏腹に、私はぎゅうと、これでもかと、たっぷり、しっかり力を込める。彼の大きな背中に手を回し、ぎゅうぎゅう抱き締めてやる。ますます困惑している歳下の彼氏は、誰がなんと言おうと、可愛らしかった。
「付き合ってるんだし、いいでしょ」
そのままキスでもしてやろうかと思ったが、こうやってみるとわかる。私がどんなに背伸びをしても彼の唇には届かない。黒尾くんが屈んでくれるのを、辛抱強く待とうと思った。上がってく?と言うのは、もう少し先になりそうだ。
2018/12/23