厄介だ。一人暮らしにもだいぶ慣れたのに。あかりが付いていない部屋に帰るのも、湯船に浸からずにシャワーだけで済ませることにも、コンビニのご飯にも、この街にも。
「いいじゃーん、教えてよ〜、連絡先」
おそらく、そう言っていた。飲食店というか、居酒屋が多いからだろうか。週末になれば酔っ払った連中が辺りをうろつく。メインの通りから少し離れているのにフラフラとした人間が多くてうんざりとした。街灯だってまばらなのに。
だけど、ツカツカと胸を張って、朝より浮腫んだ足を動かすのだ。流行りの洋楽は何を歌っているのかさえわからないから丁度いい。歌詞の意味なんていちいち頭で考えていられない。
「ねぇ、おねぇさん」
イヤホンを取られて耳元で言われた。清潔感のない男は中肉中背、着ているスーツはペラリと安っぽい。靴は汚れていて、磨かれたことなんて一度もないんだろうなぁと同情する。上から下までじろっと見て、そう判断した。
「ねぇってば、ねぇ」
中途半端な体温が不快で。ぞくりとした感覚が身体中を駆け巡る。触るんじゃねぇよ、離せや。
「…離していただけます?」
こちらは月曜から金曜をどうにか殴り倒し終わったところなのだ。頼むからこれからのありがたい休日のスタートを邪魔しないでいただきたい。丁重に言葉を発しているつもりなのに、彼の勘に触ったようで。やっぱり、離していただくことはできますでしょうか?くらい丁寧に言えばよかったのだろうか。
「んだよ、てめぇ」
「それはこっちの台詞だろ」
イヤホンを付けたままの右耳から声が聞こえた。振り返ればジャージ姿の男。ランニング中だろうか、額にはじわりと汗が滲んでいたし、呼吸は少し乱れている。背が高い。180を簡単に越えているのではないのだろうか。
「お前もフラフラしてんじゃねぇよ。帰るぞ」
「え、ちょ、」
唯一付けていたイヤホンも取られて、耳に音楽が届かなくなった。耳元でぼそっと言われる。
話合わせろって。
「今日夕飯なに」
「え…カレー?」
「おー、いいじゃん」
安っぽい男はポカンとして、私に執着するのをやめた。走っていたせいか、こちらの男の手は熱い。掴まれた手首からじんじんと熱が伝わってくる。
「…あの、」
「わりぃ、勝手なことして」
「そんな、とんでもないです」
「大丈夫?」
「はい、あの…ありがとうございます」
「どういたしまして。あの辺変な奴多いから気をつけた方がいいよ。女の子なんだし」
“女の子なんだし”
そんなの、久しぶりに言われた。とくんと弾む胸はいったい何なんだろうか。暗いからか、彼の顔立ちも年齢もはっきりわからない。
「ありがとうございました、」
「ん。じゃあ、」
走り去って行く彼。だけど、数メートル行ったところでくるりと戻ってきて。あれ、と思っていると気まずそうに言われる。
「この辺?」
「え?」
「家」
「いえ?」
「家どこ?近い?」
「わりと、近いと思います、」
「送ってく」
なんで?と聞こうかと思ったがそうはしなかったし、いいですと断ることもしなかった。いいんですか?ってちょっとかわい子ぶって、精一杯瞳をきょろりとさせて言うんだ。
「いいよ。通り道だから」
小型電子機器の停止ボタンを押した。こんなもの必要ない。水分が溜まってパンパンだった足はなんとなく軽くて。
さっき声を掛けてきた汚らしい男にお礼を言った。なんだ、出会いってあるじゃないか、こんなに近くに。
2016/03/07