魔術というのは奥が深すぎる。
 朽ち果てた廃墟が蜂蜜色の外壁が美しい建物に変わったときは、事前に聞いていたとはいえザップは思い切り声をあげてしまった。クラウスも傍目からはあまり表情に変化がないようだったが相当驚いていたようだ。しかしそんな客は珍しくもないのか、案内の女性は気にも留めない様子で歩んでいく。
 スティーブンの話通り、エントランスホールからは依頼主であるクラウス・V・ラインヘルツのみが奥に進めるようだ。出された紅茶には手をつけないままソファに深く腰掛けたザップは、案内人のブラックドレスから浮かび上がる細い腰と尻の丸みを眺めながら二人を見送る。そして重そうな扉の向こうにその姿が消えていったのを確認すると、おもむろに立ち上がり机に土足で飛び乗った。

「よォし、どっかの狼女とは格が違う優秀さを見せてやらねーとな」

 懐から取り出したジッポライターに指を食いこませ、血をにじませたその手を机に勢いよく突く。褐色の手から血が細い糸状になって飛び出したかと思うと、蜘蛛の巣が床を這っていくかのように部屋の中へと広がっていった。
 ザップは同時にクラウスを入っていった扉の下から抜けられないかと血液を伸ばしてみるものの、やはり弾かれてしまう。部屋をくまなく探すしかないらしい。彼にしては辛抱強くじっと『媒体』とやらを探していたが、ついに穂先の一部が何かのエネルギーに触れた。ザップは血液を鋭く細い刃に形成すると、躊躇なくその媒体を破壊する。バチンと彼の手元に軽い反動があったが、問題はなさそうだ。

(なんか硬いもんだったな。石か……砕けたか?)

 エントランスホールからすぐ横の廊下、床の隅に設置された物体。スティーブンに回収を命じられていたそれをクレーンゲームの要領で持ち上げると、それは直径2,3cmの透明な石で、魔術には詳しくないザップにはただの宝石か水晶のようなものに見えた。
 同地点から先ほどと同じ要領で血液を伸ばすと、次の石はすぐに発見できた。旧式の魔法陣とは完璧な真円の線上に作られる。二つの地点を結んで円を辿ればあとは簡単だ。時間を惜しんで走り出したザップの耳に、チェインからの通信が入る。

『こちらチェイン。門内建物外の入館者管理の魔術クリア。媒体は黄色の宝石です。6つ全て魔封じの銃弾にて破壊成功よ、クソモンキー』
「偉っそうに耳元で喋るんじゃねえ犬女!アー、こちらザップ。防護魔術のほうは5つ目まで壊した。こっちは透明の石だ。これで……アガリだぜ!」

 中心部を囲うように張られた魔法陣を破壊し、ザップは建物を一回りして元のエントランスホールへと戻ってきた。次に看破するのは扉のセキュリティロックだ。クラウスの血液は前もって用意してあるものの、この魔術は機械との組み合わせという厄介な面を持っている。力付くで壊すという手もあるが、出来ればもう一つの魔術を破壊してしまうまで魔術師に気付かれるのは避けたいところだ。
 扉に設置された血液認証システム前でザップが立ち止まっていると、その後ろに音もなくチェインが現れる。さすがに今回はちょっかいを出し合うの止め、二人は難関の正面に立った。ザップはポケットから小型の暗視ゴーグルのようなものを取り出し、キリキリと横の目盛りを調節したかと思うとそれを目元に装着する。

「……ンー?アー?ンだよこれ見えねえじゃん」
「『魔術暗視ゴーグル』?うちが用意したものに欠陥なんてあるかしら」
「発注はスターフェイズさんだけどよ、品自体はブラックバーン商会だと。案外ご機嫌取りのオマケ製品だったりしてな」
『聞こえてるぞザップ』
「ゲッ」「あっ」
『安心しろ、品質は本物だ。目盛りをもう少し絞ってみろ』

 インカムで全員の会話が繋がっていることなどすっかり忘れていた二人は、気まずく肩を竦めながらもスティーブンの指示に従う。ザップが慎重にレンズのピントを拡大していくと、扉のドア持ち手部分の中心に小さな円があることが分かった。大きさは小指の爪よりも小さく、さらに迫ると呪詛のごとくその円に術式が組まれている。
 今のところ旧式魔法陣を壊す方法は二つ。六芒星の頂点に置かれた魔力の媒体を破壊するか、もしくはーーー頂点を6つ同時に破壊し、術式の均衡を崩すこと。この小さな魔法陣の針の穴のようなそれを見て、ザップは手元の文字が見えない老人のような表情で固まる。しかし無慈悲にも耳元で急かすスティーブンの声に、いよいよ頭を抱えたのだった。


▲▼


 スティーブンにはかなり渋られたが、クラウスは紹介状に「クラウス・V・ラインヘルツ」と本名を記載することにした。適当な商人や闇組織を名乗るよりも、由緒正しきラインヘルツ家の三男坊である男が、なにか表沙汰にできないものを売りに来る―――そのほうが真実味があるからだ。
 黒のモーニングドレスに身を包んだ案内人の後ろを歩きながら、クラウスは朧げにひとつの疑問を抱きつつあった。館内には不気味なほど他の生物の気配はない。前を歩く淑女の完璧な所作と、ベールハットに覆われた表情。静かな足音。この建物から見える風景。その全てが"まやかし"であると、人ならざる者と戦ってきたその血が教えている。ほとんど本能でそれを感じる。

 もしかするとこのホテル・カリフォルニアにおける唯一の魔術師は、目の前の彼女ではないだろうか?

(しかし、血界の眷属ではない……)

 壁に掛けられた鏡にも、ガラスにも、彼女が運んできた紅茶の水面にもその姿はしっかりと映り込んでいた。クラウスが今まで出会ってきたどんな敵とも彼女は違っている。吸血鬼を筆頭とする夜の種族(ミディアン)でもなければ異界の異形でもなく、また人知を超えた者と契約した魔術師でもない。これほど高度の魔術を複数扱うだけの魔力を持つ人間は絶対に存在しない。
 ブレングリード流血闘術は基本的に対吸血鬼を想定した格闘技である。この魔術師に物理的攻撃が通用するのかどうか怪しいというのに、こちらは相手の情報を何も握っていないのだ。いや、それよりもーーーまだ年端もいかぬ少女がなぜこんなことをしているのか、クラウスの頭にはそればかりが浮かんで離れなかった。スティーブンはやり合いになっても構わないと言ったが、彼の心は既に当初とは違う向きに傾きはじめている。

「では、こちらでお掛けになってお待ちくださいませ。紅茶とコーヒー、どちらにいたしますか………ミスタ・クラウス?」
「君は、どうしてこんな仕事を?」

 どう考えても、これから取引する相手に言う言葉ではない。少なくとも秘密裏に非合法なものを売買しようとしているクラウス・V・ラインヘルツが口にしていい台詞ではなかった。そもそも彼に役を演じろというのが無理な話だったのかもしれない。
 よく磨かれた天然石の床に映り込む二人の姿が、水面に石を投げ入れたように歪む。真摯に視線をぶつけてくる男にベールの奥で瞠目する淑女の、意外なほどの幼さが彼を突き動かす。クラウスは彼女の前に跪き、心のままに言葉を紡いだ。

「非礼を詫びたい、レディ・カリフォルニア。私は今日ラインヘルツ家のクラウスとしてではなく、秘密結社ライブラのメンバーとしてここに来たのだ」
「ラ、イブラ……?」
「騙すような真似をしてすまない。しかし聞かせてほしい。君のように若く未来ある女性が、一体どうしてこのような闇取引に身を投じてしまったのかを」

 彼女はライブラの名を聞いて動揺したようだったが、誰かに連絡をしようとする気配はない。その様子を見てクラウスは確信する。少なくともホテル・カリフォルニアを管理するのはこの女性ただ一人であり、危機に駆け付ける仲間も居ないらしいということを。広い城で玉座に座るのは女主人だけ。魔術師も商人も案内人も全て彼女の一人芝居なのだ。
 グレゴリー・ブラックバーンとの約束を違えたわけではない。無血で問題を解決できるのなら、この乙女の憂いを払うことで日の元に戻せるのなら、それが最善の道であると思った。強面の男の鋭い瞳には竦むほど真っ直ぐで嘘がないように見える。彼女はそれに気圧されたのか、少し躊躇ったあとに唇を開いた。

「どうしてなんて聞かれても……成り行きでこうなって……でも、必要なことだから」
「何か困りごとがあるなら、私が協力しよう。どうか話を聞いてくれないか?我々は三つ目族のオプティという少年を、ブラックバーン氏の元へ帰してやりたいだけなのだ」

 君とは戦いたくない。そう言って大きな掌を差し出すクラウスに、彼女はすっかり戸惑ってしまったようだった。ベールの下で薄霧の中のように見えなかった表情は、いつしか物静かな淑女から息を飲むうら若い少女のそれに変わっている。震えた手指がわずかに体から離れる。目の前の男の言葉を鵜呑みにはできないが、それでもーーー信じるに値するのではないかと揺れている。
 だが、それも一瞬だった。
 冴え冴えとした緑がかった青の瞳が見開かれ、それから轟々と炎が燃えるかのように真っ赤に変化したのを見て、クラウスは驚愕する。瞳の色が変わる種族は極めて稀だ。火花が散っている錯覚さえ覚えるほどの鮮やかな赤は、怒りの炎そのものだった。彼女はクラウスの手を強くはじき、警戒するように大きく後ずさる。

「"私が協力する"? よく言ったものね、丁寧に魔法陣まで壊しておいて。中心部の関門も、妨害魔術まで……!」
『旦那―――ガガッ―――ュリティを突破―――ガーーッ―――応答を………!』
「ザップ!待ってくれ、今……!」
「煌々魔堂術 回々血晶……二式 魔堂再配列!」

 高い声が叩きつけるように叫ぶ。クラウスの立っていた石材の床が光を放つ。彼の闘いの勘が警報を鳴らし、咄嗟に地面を蹴ったが一歩遅かった。滑らかに磨かれた大理石が突如ボコボコと盛り上がり、針山のような結晶に姿を変える。1秒にも満たない時間だった。
 ズブリと穂先が右足を貫く。
 激烈な痛みにクラウスは低く呻き、拳を床について彼女を見上げる。いつのまにか部屋は激しくうねって変型し、ブラックドレスの足元を山の上のように巨大な城を作り上げていた。大男を高い場所から見下し、ついに乱暴にベールハットを外す。こぼれた長いブロンドの隙間から、注がれる視線は鋭く激しい。

「そんなに知りたいなら教えてあげるわ。私は……アレクサンドル・キャッツ。ホテル・カリフォルニアの主人。退治するべき邪悪な魔女―――あなたの敵よ」

 クラウスの米神から汗がひとつ伝う。咄嗟に回避した瞬間落ちてしまったインカムが、彼の足元で無残に壊れて砕け落ちていた。


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