「―――君は今朝の登校時間、俺の目の前に突然現れたんだ」

 その瞬間のことは今も鮮明に思い出せる。薄い上着に身体を縮め、学校に向かっている途中のことだ。澄み渡った寒い朝の空が墨を落としたようににじみ、溶け落ちるように空間が崩れた。
 落ちてきたのは少女。
 華奢な身体が空中に落とされ、コンクリートに転がろうとしたとき、考えるより身体が動いた。間一髪受け止めた肢体は驚くほど軽く、氷のように冷え切っていた。その時の状況を思いだしながらできるだけ詳細に話すと、少女はいまいち分からないのか困ったように眉を寄せる。

「空が溶ける……う〜ん」
「ああ。人や物がなんの前触れもなく突然現れる現象の報告例はいくつかあるが、君は恐らく『異次元』を通ってここへ来た。信じがたいことに、異次元には人をさらう『魔物』もいるんだ……」
「でもよぬ〜べ〜、あの異次元ってやつから出てきた奴は皆もう生きてなかったじゃねーか!」
「そうよね、裏返しになったりモノとくっついたり……」
「げ」

 想像してしまったのか口元に手を当てて顔を青くする。この少女は(身体と別々になっていることを除けば)どこまでも普通の年頃の少女で、身を守る手段など持っていそうにない。広と郷子は異次元の魔物を過去に目の当たりにしたことがあるだけあって非常に心配そうだ。
 倒れた少女と消えていく裂け目を見た美樹も一緒に顔をしかめ、当時のことを思い出すように宙を見上げた。

「あれって、妖怪でも幽霊でもなかったんでしょー?鬼の手でも倒せなかったっていうやばそうなやつ」
「お、鬼の、なに?」
「信じれないだろーけどよ、このぬ〜べ〜の左手にはなんと鬼が封じられてんだよ!」
「バカ!いきなりそんな説明で納得できるわけ、」
「ああなるほど鬼の手!!」
「しとるーー!!」

 手を打って合点がいったとばかりに顔を輝かせる少女に思わずずっこける。物分りが抜群にいいのか、いや何も考えていないのか。左手に封じられた鬼の存在―――鬼の手のことを離してそんな反応を返されたのは初めてである。いまいち調子が狂うので頭を掻いて気を取り直し、脱線した話を戻すためにわざと咳払いをした。

「あー、ともかく!君は何故だか無事に異次元空間からここへ来たらしい。元々はどこにいたのか分からないが、少なくとも童守町じゃなさそうだ」
「その辺は覚えてないからなんとも言えないな〜」
「……何も思い出せないか?」
「これっぽっちも」

 ない袖は振れない、と茶化すように腕をふらふらと揺らして肩を竦める。先ほどまでの不安そうな表情とは一変して妙にあっけらかんとした様子に、無理をしているのではないかと思わず眉を下げてしまう。
 それに気づいたのか両手をぱたぱたと振り、どこか弁解するようにいたって明るい笑顔を振りまいた。

「いやいやショックはショックなんだけど、まあ起きちゃったことは仕方ないじゃない?悲しむポイントが分からないから記憶がなくなっててある意味ラッキーかも?って思えてきてさ」
「お姉さんって……」
「すっごい前向きね」

 美樹と郷子に呆れたような感心したような視線を送られ、少女は後ろ頭に手をあててへらりと笑って見せた。しかしそれは心からの前向きな笑顔というよりは、どこか全てを諦めているような陰がちらりと見えた気がした。
 それからふと視線を腕時計にやって思わずぎょっとする。しまった、もうこんな時間か。空は既に夕暮れから夜へとさしかかりはじめていて、慌てて生徒たちの背を押した。

「さあ、お前らはそろそろ帰れ!明日はちゃんと学校に残ってるんだぞ」
「ちぇっ、つまんねーの」
「お姉さん、あのくそ坊主に何かされたらぬ〜べ〜に守ってもらうのよ!なんならセクハラで訴えてもいいわ!」
「こらこら」

 余計なアドバイスを与える美樹の首根っこを掴み、まずはこのお喋りを家に送り届けることを決める。広と郷子は家の方向が同じなので、二人一緒にいれば大丈夫だろう。
 子供たちが家路につき、全員の帰宅を確認したころには、すっかり沈んだ太陽の代わりに、空には満天の星が散らばっていた。


▲▼


「君は……」

 静かな星空の下。
 子供たちの賑やかな声がなくなると、途端に夜道は静かになる。思いのほかよく響いた俺の声に彼女が振り向くと、切れかけた街灯の光が柔らかそうな亜麻色の髪をふんわりと照らした。

「蛍、というのか?」
「蛍……蛍って………私の名前?」

 少女―――蛍のあまり揺らがない黒い瞳が見開かれ、そんなことまで忘れてしまっていたのかと愕然としたような表情が浮かぶ。しかしその顔も一瞬で、すぐにまた曖昧な笑みに隠されてしまう。
 この顔だ。
 この少女は見る限り―――少しばかり派手だが―――全くもって普通の少女だ。それだけにこの状況で浮かべられる非の打ちどころがない笑顔には、どこか白々しいものを感じてしまう。

「記憶喪失ってそんなことまで忘れちゃうんだなあ。名字がないと不便だからそっちも分かれば……あっここでしたっけ?」
「蛍くん」

 アパートを指さす蛍の名前を呼ぶ。
 月明かりにさらされた指先は頼りなく、先ほど気を遣いすぎたかと反省したばかりだというのに、俺の声はやはり目の前の少女を心配するあまり堅いものになってしまった。
 不安にさせたいわけではない。けれど事情を知った瞬間から妙に余所余所しくなったことに、気付かない振りを通すことはできそうになかったのだ。

「つらいなら、無理に笑わなくてもいいんだぞ」

 ありふれた陳腐な台詞。けれど切実な響きは恥ずかしくなるほどだった。蛍は言葉を失って沈黙したあと、肩から力を抜いて唇の片方だけをつり上げる。ついさっきまで見せたことのない、悪ガキのような、それでいてどこかニヒルな笑みだった。
 それに驚いていると、蛍はふいっと顔を背けて躍るような足取りでアパートの階段を上がっていく。軽快な音。おいおい、と困惑しながら追いかけると、ドアをふざけてノックしながら蛍が振り返りまたニヤリと笑う。

「そーだねー、拾ってくれたのがお金持ちだったらもうちょっとマシな寝床が確保できたのにってのがツライとこかな?」
「あ、あのなー!仕方ないだろ、俺の安月給じゃホテルに泊まらせる金なんて無いんだから!!」
「あはははは!!」

 少女の高い笑い声に憤慨しながら、ちょっぴり涙目でドアの鍵を開ける。はじめて目を覚ましたとき自分に怯えていたのが嘘のように玄関へ足を踏み入れた蛍は、ローファーを脱いで敷きっぱなしの布団に行儀悪く倒れこむ。
 上手く話をはぐらかされてしまった気がする、と内心肩を落としながらジャケットを無造作にハンガーへひっかけると、こちらを見上げる黒い瞳と視線がかちあってドキリとする。細められた目元は、もう笑っていない。

「べつに、無理して嘘ついてるわけじゃないの、半分はほんと。起こったことは仕方ない。覚えてないから何に悲しめばいいのかわかんないの。だから……どっちかっていうと、虚しい」
「……悲しみ方も忘れてしまったのか?」
「そうかも、そうなのかな」

 狭い部屋にぽつぽつと落ちる静かな声に寄り添うように、布団の横に腰を下ろした。少女の目はぼんやりと何もない天井を見上げている。
 彼女は気付いていないのだろうか。
 自分が今、どれほどの感情を抱えているのか。どれだけ泣きそうな顔をしているのか。彼女の瞳ばかりが素直に水の膜を張り、こちらまで胸が締め付けられて心苦しい。そのうちすぐ居た堪れなくなって、右手で慰めるように少女の前髪をそっと撫でつけた。

「大丈夫だ。記憶を戻すのも、元の場所へ戻すのも、俺がなんとかしてみせる。あの住職をふんじばってでも聞き出してやるさ」
「………なんで?」
「何でって君ね……俺になんとかしてくれと言ったのは君だろ」

 ―――得意の霊能力で何とかして!
 グラウンドで必死に俺のシャツを掴んで言ってきたことをもう忘れたのかと半目になって少女を見ると、蛍はまたもやぽかんとした表情になり、それから口元を手で覆って顔を背けた。
 何事かと焦ったのもつかの間で、そのうちくっくっくっと押し殺した声が聞こえる。笑っている。こちらは大真面目で言ったにもかかわらず笑われてしまい、無性に恥ずかしくなって赤面してしまった。

「なにそれ、あはは!先生、そんなだから貧乏なんだよ。お人好しだって言われない?あははは!」
「き、君ね……!」

 言い返そうとした言葉が消えた。
少女の丸い頬にぱたぱたと水滴がすべり、布団に吸い込まれて丸い水玉をつくる。笑い声には嗚咽が混じり、軽く肩を叩いた手がそのままぎゅうっとシャツを握りしめていった。
 泣いているのだと―――認めてしまえばもはや立っていられない。そう少女の全身が訴えているようだった。これは彼女が今できる最大のSOSなのだ。俺は黙ったまま、何も言わずにただ背を撫でる。やがてこの小さな女の子が泣き疲れて眠ってしまうまで、ずっとそうしているしかできなかった。

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