小さな頃、二度と見つからない花畑に行ったことはないだろうか?

 あるいは空き家、公園、一緒に遊んだ子供。一度は必ず出会ったはずなのに、いくら探しても見つからない。幼い子供のまぼろしを叶える神の悪戯は、ほんの短い時間で終わってしまうのだ。
 しかし稀にそうしてどこかへ行き、そのまま姿をくらます者がいる。昨日まで普通に過ごしていた人間が、幻のようにふっと消えてしまう。彼らは神に気に入られ、引き込まれたまま戻ってこれなくなってしまうのだという。逢魔時や丑三つ時、門や辻。常世と現世の境目を、神域に誘い込む魔物を、闇を、人々は畏れた。
 影は穴。
 沈んでいく穴だ。

 ―――またひとつ、穴へと消えた。


▲▼


 ある朝、私はなにか気がかりな夢から目を覚ますと、自分が見知らぬ寝床についているのを発見した―――などと冷静に考えたのは一瞬で、ぼうっとした頭で部屋を見渡したあと、そこが本当に全く知らないどこかのアパートであることに気付いてガバッと身体を起こした。
 時計の針と息遣い。手狭な部屋は誰かの生活感がする。かけられた薄い布団。棚から覗くカップラーメンの銘柄は見覚えがない。けれど何となく直感的に「女性の部屋ではない」と察した。
 ここ、どこ?
 冷や汗が頬を伝い、必死になって昨日のことを思い出そうと頭を抱えた瞬間、やけに爽やかに声が降ってきた。

「やあ、おはよう。気分はどうかな」
「!!!??」

 心臓が口から出るかと思った。
 顔がサーッと真っ青になっていることを自覚しながら振り向く。するとそこには妙に特徴的な眉をした若い男性が、ドアに手をかけて笑顔で立っていた。
 知らない男の部屋で寝ていたという事実にいよいよ身体から血の気が失せる。思わず布団を肩まで引き上げて壁際までずり下がる私に、男は目に見えて慌てはじめた。

「あー、えーえー、ええっと、ど、どちらさまでしょうか……!ななな何で私あなたと……!?」
「いやいや待ってくれ!君は恐らく誤解をしてるぞ!確かにここは俺の家だが決して君を連れ込んだわけでは」
「連れッ……」

 生々しい単語に背中が寒くなる。目の前の男は言葉の選択を誤ったことに気付いたのか、私と同じように真っ青になって弁明しようとしている。思い当たる節が全くないせいで頭が痛くなってきた。ドラマのように記憶が無くなるほど酒を飲んだ覚えもないし、男の姿を隅々まで眺めてもやはり見覚えは……。
 そこまで考えて、ふと瞬きをする。
 喉に小骨が引っかかったような違和感に眉根を寄せ、困惑と混乱でこんがらがった思考回路を何とか働かせようと唸る。黙って顔をじっと見つめていると、一見彼を強面に見せている眉が困ったように下がっていた。

「あー!あの人起きてる!」

 部屋に高い声が弾ける。
 無言で見つめ合った状態に投石されたのは無邪気な子供たち。アパートの錆びついた鉄扉が開き、セミロングにカチューシャをした女の子が顔を出し、次いでツインテールの女の子と、短い黒髪の元気な男の子が入ってきた。身長からして小学生か中学生くらいだろうか。思わぬ登場人物に目を丸くしていると、男があっと声をあげた。

「コラお前ら!学校に戻ってろと言っただろーが!!」
「だってか弱い女の子をぬ〜べ〜の部屋に一人で置いておくなんてねえ、狼と羊を同じ柵に入れるようなものじゃない」
「どーいう意味じゃい」

 勝手知ったるとばかりに入ってきた少年少女は、私の顔を見るなり大丈夫?と心配そうに声をかけてくれた。しかしこちらはそれどころではない。口が達者そうな女の子の発言が脳内でリフレインし、そのあまりの荒唐無稽さに絶句する。
 今「ぬ〜べ〜」って言った?
 バッと立ち上がり男の顔をもう一度きちんと見る。硬そうな黒髪に吊り上った鋭い目元。特徴的なのはやはり太い眉。ワイシャツに喪服のような黒いネクタイとズボン。左手には黒い手袋。愕然とする私を余所に、見つめられている男はなぜか少々照れたように頬を掻いた。

「……いやいやいやいや」

 そんな馬鹿な。
 全身全霊で夢だと言って欲しい、その信じがたい可能性に大きく振った頭がクラクラする。布団に両手をついて顔色の悪くする私を子供たちが心配そうに窺う声に、引き攣った曖昧な笑みを返すしかなかった。


▲▼


 晴天、グラウンド。
 投げられた小ぶりのスポンジボールを真っ直ぐキャッチし、逃げるか逃げまいか迷いを見せているまことくんの足元を狙って投げ返す。見事に足をかすって外野に落ちたボールを見て、味方の陣地からわっと歓声が上がった。

「すっげー!お姉さん強えじゃん!」
「ふっふっふ、小学生に混じったらちょっとは活躍できるもんだね」

 広くんに褒められて少し得意げに笑う。それにしてもドッジボールなんていつぶりだろうか。こちらに年長の私が居る為か、敵の外野には担任であるぬ〜べ〜が仁王立ちで不敵な笑みを浮かべ待ち構えている。彼は見るからに運動神経が良さそうなので外野にボールは回したくないものだ。
 上手いこと相手にボールを与えず回ってきたので、また振りかぶって投げる動きをすると、相手陣地の子供たちが蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。どの子も大変真剣で楽しそうで、つられて笑顔になってしまう。子供に囲まれて遊ぶというのは心が洗われるというか、私も童心に返ってしまうというか―――

「違ぁーーーう!!!」

 地面にボールを叩きつけて叫ぶ。
 おかしい。私は一体全体なぜ小学生とドッジボールに興じているんだ。なんだなんだと近づいてくる皆の能天気ぶりにつられたのか、小学生教師ということで誤解を解いた鵺野先生の「いいからいいから」という根拠のなさそうな押しにやられたのか、私が現実逃避したかったのか、まあ恐らく全部に違いないが。
 何がとりあえずなのか分からないが、ともかく連れてこられた小学校で、あれよあれよという間に皆の紹介をされ、誰かがドッジボールをやろうと言い出し、そして現在に至る。思い返しても本当に意味が分からない。

「私は!家に帰らなきゃいけないの!ていうか今日私も学校あるから!ドッジ楽しいけどこんなことしてる場合じゃないから!」
「まあまあ落ち着いて」

 性質の悪い酔っ払いを諌めるようなぬ〜べ〜の仕草を恨めしく睨んで返す。聞きたいことは山ほどあるというのに、この男は先ほどからなぜか私の話を聞こうとしないのだ。何故こんなことになったのか、自分では何も説明できない分際で彼に縋るのはお門違いかもしれないが。
 しかしもはや他に手はない!
 流石に「ぬ〜べ〜」と呼ぶのは若干の抵抗があるので、一瞬喉まで出かかった声を飲み込んでとりあえず「先生!」と必死な声で呼ぶ。

「本当に何か知らないの?何でこんなことになっちゃったのかとか、色々と………得意の霊能力で何とかしてよお!」
「う〜〜んそうだなあ」
「そうだなあじゃなくってさあ!!」

 縋るようにシャツを握るも、彼はやはり曖昧に笑うだけで何も答えてくれない。知らないという意味にしては含みが多すぎる。自分の生徒じゃない奴には案外冷たいのだろうか。半泣きになりながら不条理に嘆いて肩をがくんがくんと揺さぶって吐かせようとしていると、隣の郷子ちゃんがあれ?と不思議そうな顔をした。

「お姉さん、なんでぬ〜べ〜が霊能力者だって知ってるの?」
「何でってそりゃあ」

 ぬ〜べ〜といえばそれだろう。
 私の場合名前を聞くまで出てこなかったとはいえ、知っている者ならばすぐにピンとくるはずである。彼は自分の霊能力を活かして、生徒に降りかかる妖怪や幽霊の脅威を振り払う。顔と左手の手袋を見れば一目瞭然というものだ。手袋の下の―――はて。
 手袋の下は何だっけ?
 ド忘れしてしまったのだろうかと首を傾げてぼんやりぬ〜べ〜を見ていると、彼は黙り込んでドキリとするほど非常に真剣な目をしていた。

「あれ、」

 判然としないのは私に降りかかった全てのことだが、しかし何かがおかしい気がした。何故見知らぬ自分を彼が学校に招き入れたのか。子供たちは何の疑問も抱かないのか。そもそも彼が私を介抱してくれたのは何故か。倒れる前はどこで何をしていたんだっけ。
 お姉さん、と誰かが呼ぶ。
 そう呼ばれる私は一体"何(なに)"だったっけ?
ボタンを掛け違えたようにちぐはぐの考えに、風にざわめく木々や子供たちの話し声が止まった気がした。記憶の糸を手繰ろうとすると、まるで頭に蜘蛛の巣がかかったように何も浮かばなくなる。おかしい。何か、何かがおかしい。

「いかん……!」

 ――――キイィイイン……
 強い耳鳴りがしてついに頭を抱えてしゃがみ込む。緊迫した声が傍で聞こえる。視界がぐにゃりと歪み、マーブル状になって、足元の地面が蟻地獄に変わって身体がずぶずぶと沈んでいくような感覚がした。
 誰かの腕に抱きとめられる。
 瞬きもしないまま瞼を閉じ、いくつもの小さな光がちらついて消えた。世界が絡まって千切れる。ここはどこだろう。この人は誰だろう。私は一体「誰」だったのだろうか。

 影は穴。
 沈んでいく穴だ。

 ―――何も思い出せない。


NEXT




Back

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -