濃紺の闇がこびりついた石の螺旋階段に、コツリコツリと貞淑な足音が響いている。靴音の主が持つ古めかしいランプの煤が光をぼんやりとさせていたので、その褐色の肌を照らしていたのはむしろ誰かのマッチだったのかもしれない。

ギイ、と蝶番がきしむ重い扉の先には、文字の海が広がっている。

たゆたう金のたてがみは、闇の中でこそ美しいものだ。男は一枚の真っ黒な布でできた服を纏っていて、その佇まいはまるで聖職者のようであった。
夜のまぼろしから除く白い手首が彼を祀る象徴であるのなら、喜んで口づけるだろう。

振り向いたDIOは本を閉じて目を細める。

「女は痴情を断ち切るために髪を切るというが、一体何から逃げたつもりだ?」

修道女は恭しくヴェールを取り去り、跪いて頭を垂れる。
チャコールグレーの修道服に身を包んだマリアの燃えるような赤の巻き毛が、すっかり短くなって肩の上で揺れていた。


契約(Contract)


「そうしていると男と女どちらかますます分からなくなるな」

痺れるような声が鼓膜を震わせ、マリアはアイスブルーの瞳を恋に溺れる娘のように揺らせる。
目の前の帝王たる人物は確かに性別の垣根を越えた精彩を放っていたが、その造形は完璧に男性のものだ。かのミケランジェロとて、彼の美しさを十全に表現できるだろうか?いいえきっと、人知の及ぶところではないのだ。

「どうした、声を海底に落としたか」
「命の星が……生まれ燃え尽きるまで、私の主は変わらぬままです。
自らの本分も果たせず、おめおめと生きて帰った哀れな下僕の痴れ事を、どうぞ、聞き入れてはいただけませんか」

ひりついた喉から、声をやっとの思いで絞り出した。そんなつもりではないのに、震えあがった声は釈明のようで卑しい。
そういえば、生涯の中で何か自ら主張したことなどあっただろうか。自分を見下ろす男の一挙一動を、瞬きもせず目に焼き付けようとする姿勢は相変わらずだというのに。
DIOはおかしそうに喉を鳴らした。

「以前のお前は劣等感と羨望が混じった複雑な目をしていた。嫉妬に燃え、自らを鍛え上げることに余念がなかった」
「……………ッ」
「わざわざ舞い戻ってきた忠誠を疑いはしないが、"痴れ事"の内容は予想がつく。それほどまでの影響力を持つのだな、あのジョースターの娘は」

闇を背に笑うルビーより赤い瞳は、楽しげなおもちゃを見つけた子供のようだ。ぞっと肩が竦み、畏怖に足元がぐらつく。

だが、彼女を想えば。

目蓋の裏であのエメラルドが瞬けば、湧き上がるこの勇気は!

「仰る通りです……彼女の命を脅かさないと、私に誓ってはいただけませんか」
「ほう、何に誓いをたてる?」
「このマリアを打ち負かした彼女の"勇気"と、貴方様の高潔……そして、私の命にッ!!」

次の瞬間、熱いなにかが身体を貫いた。







ジジ、と青い炎が混じり、ライターのオイルがそろそろ切れようとしていた。四六時中真っ暗闇のこの館では、明かりがなくてはおちおち歩けもしない。
こちらも最後の一本となった煙草を味わうように吸い込んで、ホル・ホースは大きく吐き出した。

(まさかと思ったんだが……やっぱり食料の女だったのか?)

いいや、石段を降りる女の顔には確かに見覚えがあった。自分の主にだけ熱心に注がれるアイスブルーの瞳はようく覚えている。悪い意味でだ。
彼の灯したマッチに気付かずマリアと思しき人物が扉に消えてからもうかなりの時間が経過している。

なぜあのシスターかぶれを追いかけてきたのか、それはホル・ホース自身にも不可解だった。

――――ギイ、

「やれやれ、やっとお出ましか……って、おいおいッ!」

錆びた音に振り向いた瞬間、身を潜めていたことを忘れてしまった。
亡霊のように扉を這い出たマリアの額には玉のような汗が浮かんでおり、胴をおさえる灰色のヴェールがべっとりと赤く染まっている。

「な、んだ……DIO様のおっしゃった鼠は、あなた……?好奇心に殺されるのは猫よ、ホル・ホース」
「ネコよ、じゃあねえッ!何だって書庫から血まみれになって出てくるんだよお前さんは……腹か?」
「ふ、ふふ、いつナイフを抜いたのか、さっぱり分からなかった……偉大な方……」

抑えきれていない血が次々に男のブーツを汚していく。「イイ値段するんだぜ」と溜め息を吐きながら、ホル・ホースはマリアに肩を貸した。
背筋を冷やすのはこんな仕打ちを受けてなおあの男を崇めているマリアの心なのか、それともDIOの魔の魅力であるのか、どちらにせよおぞましいことには変わりない。

「そんなになってまで、何しようとしてる」
「星の行く末を絶やしたくないだけよ、暗闇を照らす、唯一の光……あるいは、あの方までもを」
「ヘッ!占い師ってのはみんなこうなのかよ、回りくどいのはあんま好かねえぜ」
「……契約したの、DIO様と……もし昭子が私の言う"勇気"を持って刺客を倒せたら、誘拐が成功しても殺されない……!」
「逃げ出したら?」
「その時はこのマリアもろとも、処刑なさると」
「なんだ、そりゃあ!」

契約とは双方に利益がなければ成立しないものではないのか、穴あきにされた腹はただの決意表明、あるいはミサの儀式であるという。
たった一度会っただけの、しかも自分を打ち負かした少女に命綱を託すとは、全くもって理解できない。ずり下がるマリアの腕を支えてホル・ホースは煙草を噛み潰した。

「だいたい、あの昭子って嬢ちゃんが戦う保障もねえってのによ……俺の勘じゃあの嬢ちゃんは逃げれるなら逃げるって性格してるぜ。俺みてえにな」
「……そうね。きっとそのとおりよ。でも、彼女は戦うべき局面を違えたりはしないわ」
「どっから来ンだ、その自信は」
「自分の感覚を信頼するっていうのが故郷の風習でね……あなた風に言うなら、勘かしら」

血吐きながら笑ってやがる。
言っていることは狂人じみているくせに、この仄暗い館に似つかわしくないほど澄んだ瞳はどうしたことか。
こんな契約にDIOが同意したことにも驚きだ。何かあの男を動かすものがマリアにあったのだろうか。契約なんて守る気がさらさらあるようには思えないし、そんな陳腐な言葉を信用するようになどは見えないのだが。

だが彼女は信じている。信じるとはなんだっただろう。近づいた雨に匂いに唇が皮肉げに歪んだ。

引きずるように不格好な足音とともに、明かりも遠くなっていった。






雷鳴がとどろく。

機嫌を損ねた空がガラスに雨粒を叩きつけ、呼応するように瞬く雲間。窓からは光は射さず、底冷えするような空気と轟音だけが響いていた。

蔵書に囲まれた吸血鬼は、落ちた本を拾いあげてパラパラとページを捲る。

本に刻まれた年号はちょうど100年ほど前、彼が人ならざる者になり、暗く深い海に沈んだ時代。

「どちらも己の生き方を強く肯定している限り、因縁は終わらない。そうだろう?ジョジョ」

そういえば人間は勇気によって成長すると言った、尊敬すべき男がいた。





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