ここでの一日は境が曖昧だ。
 まだ薄暗く朝靄が鉄格子の外で漂うなか、起床を許される時間になった。ここではいつまでも寝ているのも自由で、早く起きるのも自由だ。食堂で適当に食事を済ませ、ウェザー・リポートの足はいつもどおり音楽室へと向かった。
 大きなグランドピアノには、大人でもすっぽり収まるほどのスペースがある。光沢のある黒の屋根をゆっくり開けば、中ではここで生活をしている少年と、またどうやって房から抜け出したのか一人の女が寄り添って眠っていた。

「ここで寝たのか」

 低く響いた声に丸めた身体を震わせる。アイシャドウのラメがちらちらと瞬きをして、開いた瞳はいつもウェザーの記憶より鮮やかだった。
 寝ぼけ眼のまま危なっかしくピアノを降りようとしたピィチを、ウェザーが横から抱えて床に降ろす。銀色のミュールはそばに転がったままだった。

「……ん〜〜、ウェザァ〜?」
「シーーー」
「んむ」

 まだ夢の中にいるエンポリオを指差し、ウェザーはピィチの唇をつまんで黙らせる。ターコイズが健やかな寝息で胸を上下させる少年をじっと見つめたあと、少女は肩にかけていたファーショールを小さな身体にかけてやって、そのまま屋根をパタンと閉じた。
 ウェザーもピアノで居眠りをしたことがあるが、中にいると外の音はほとんど聞こえなくなる。これで安心と笑みを浮かべるピィチの顔には、もう眠気はないようだった。

「ピアノの中にいるとねェ〜〜〜、思い出すの!ダメだぞッて言われるのね、ほら、中でいると………パイプオルガンだっけ?ねえピアノとオルガンっておんなじ?」
「違うんじゃないか、多分」
「ウェザーは、怒らないのね」

 相変わらず少女の言葉は支離滅裂だったが、ウェザーは何も言わずに頷く。今まで間にエンポリオやアナスイを挟まなければ特に接点のなかった二人だが、ピィチは話を聞いてくれる彼に俄然興味が湧いたようだった。急激に詰まった距離にウェザーも何も言わない。つまりいうと、二人とも退屈していたのだ。

「ダンスは好き?歌はァ?」
「いや……」

 男は言葉に詰まった。というのも、ウェザー・リポートにはこのG.D.st刑務所に入所する以前の記憶がない。何が好きで何が嫌いか、生理的な部分すらほとんど分からない。趣味や嗜好については皆無といっていいだろう。
 そういった意味で彼は首を横に振ったのだが、理解しているのかいないのかピィチは両手を頬に当てるオーバーリアクションで、まさにこの世の終わりのような顔をした。

「そんな!タンゴもワルツも?!きゃ〜〜〜!ギリシア悲劇ッ!!ダメダメダメよウェザー、それってあんまりだわッ!」
「ギリシア悲劇……覚えたほうがいいレベルってことか?」
「All "Light"!! ダンスでケ・セラ・セラ〜〜〜ッ!!」

 ピィチは常ならざる素早さでミュールを締まった足に引っ掛け、棚からぽいぽいとレコードを取り出す。そしてお目当てのものを見つけたのか小さく嬌声をあげ、流れるようにレトロな蓄音機へと入れて、指がそっと針を落とした。
 流れ始めるスウィング・ジャズ。
 それは男の新しく蓄積した記憶の中にもあった。娯楽室で観た古い映画でも、華やかなシーンでもお馴染みの「イン・ザ・ムード」だ。ピィチが恭しく手を差し出す。ウェザーは思わずそれを取って、導かれるままに腰に手を添えた。

「ダンスは踊ったことがない」
「ホントォ?だぁいじょうぶ、だぁれも見てない、ミュージック聴いて、身体がウズウズするのを待つだけ!」

 普段人と言葉は上手く交わせないというのに、音楽に合わせて動く彼女の仕草は驚くほどスムーズにウェザーをリードする。サクスフォーンによる軽快なフレーズ。コツンと小気味良いヒールのタップに誘われステップを踏んだら、絡めた指が嬉しそうに跳ねた。かなりぎこちなくはあるが、男の逞しい腕はターンもどうにかこなす。そこまでいけばあとはアドリブ混じりの繰り返しだ。
 羽のように弾むオレンジ色のショートヘア。打てば響くように軽やか。目が合えば微笑みが帰ってくる。
 ―――これはなかなか楽しい。
 そうウェザーが思ったのがピィチにも伝わったのか、くるりとスカートを揺らした少女は、両手を伸ばしてウェザーの唇の端を持ち上げた。

「笑って、ウェザー!」
「!」

 目の前で弾けた笑顔につられて、やや強引ながらウェザーは口の端を上げる。それは到底笑顔とは呼べない代物だったが、それで彼女は満足したようだ。瞬間トランペットがクライマックスを彩り、ピィチはウェザーの腕に支えられ、大きくのけ反って指先までしなやかにフィニッシュポーズを決めた。
 部屋に揺れるメロディの余韻。それを断ち切るように勢いよく身体を起こしたピィチの表情ときたら、まるで生まれてはじめてディズニーランドに来た少女のように輝いていた。

「……ウェ〜ザァ〜〜ッ!あなたってダンスヘタクソね、でもとってもとってもステキ!プロアマよりパッションがないとダメダメッ!そこが醍醐味ってコト……」
「君はバレリーナみたいなスカートなのに、ダンスは激しいんだな」
「キャハハハッ!」

 全身全霊で喜びを表現する様子は、まだ彼女が実はティーンエイジャーであることをウェザーに思い知らせた。はじめの衝撃的な登場のせいで「危険」というラベルを少女に貼っていたままだったが、もはやその面影もない。
 男はほう、と溜息をつく。
 やがて蓄音機が機嫌よく演奏を再開した。次のナンバーはスローな「ムーンライト・セレナーデ」。目を合わせた二人は小さく笑い、どちらからともなくもう一曲と手を重ねたのだった。





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