999(脱獄)警報が「水族館」に轟いてから数十分が経過した。警備LEVEL4の柵を潜り抜け、監視カメラすらも掻い潜り、脱獄を為しおおせた囚人の特定すらまだできていない。追っていたはずの看守はこぞって廊下に倒れ込み、その時のことをぼんやりとしか覚えていないというのだ。
 女子監房の一部を取り仕切る看守は、見張りの部下を激しく罵りながら足音荒くある場所へと走っていた。3階の303号監房。警報が押される15分程前に「ちょっとした問題」が発生していた。既に回収されているが、収容されていたFE10226のキッド・キューが変死状態で発見されたのである。
 必然的に嫌疑は同室の者にかけられた。しかも囚人は房から姿を消しており、脱獄犯と同一人物ではないかというのが非常に自然な結論である。

「FE20991!ピィチ・ジョンの房は―――」
「はぁ〜〜〜〜い」
「ここ、………か………?」

 その脱獄犯は房にいた。
 囚人の銀色のヒールは血のシミが残るベッドに投げ出され、備え付けの丸椅子に膝を抱えて座り込んでぼうっと宙を見ている。名前を呼ばれて丸い目玉を動かし、重力に逆らうことなく首を俯かせていた。
 戸惑ったのは看守だ。何か手がかりはないかと勢いよく檻を開けたというのに、そこに容疑者本人が座っていて、あまつさえ従順に返事までする。囚人が自分の房に入っていて何も、まるでおかしいことはない。看守達は目を瞬かせながら、すごすごと女子監房を去っていったのだった。


▲▼


 まるでおかしいことはない―――ということは全くない。
 看守達は囚人をキッド・キューの殺害疑惑について尋問するべきであったし、空白の時間どこで何をしていたのか問い詰めるべきであったし、何ならその場でG.D st JAILの囚人服を着ていないことを咎めることもできたはずだ。しかしそれをしなかったということは、既に事実として刑務所内に知れ渡っていた。

 一人の女囚が好物のチーズペンネを口に放り込みながら、頬杖をついて値踏みする。鋭い視線の先では、何がそんなに嬉しいのかというほどの笑顔で少女が食事をしていた。

「(あいつ……確か人殺しのメスガキだっけ?礼拝堂でずーっとメソメソしてるってやつ)」

 同じ女囚であるグェスの目から見て、ピィチ・ジョンは決して目立つタイプではなかった。短くカットした赤毛という小馬鹿にされやすそうな風貌や常に何かに怯えているような態度から、いかにも標的になりそうだと思ってはいたのだが、そもそも彼女に構っている囚人など見たことはない。
 噂だけがほんのたまに話題に上がる程度、そんな少女が今では食堂中の厭らしい視線を集めていた。つまるところ囚人たちは皆彼女が―――看守に多額の賄賂を支払ったのだと思っている。当然、グェスもその一人だったのだ。

「ねえ、あんた」
「?」
「3階のヤツよね?最近『一人部屋』になった……あたしも今一人部屋で寂しいのよね、だって起きても誰もいないし、寝るときだって誰もいないんだもの」
「……そ〜〜〜ォね〜〜〜〜!フフッ、うふふ、そう!寂しいよね、寂しいのってほんとォーに、よくないことだワ」

 ターコイズブルーの目が喜色に輝いたのを見て、グェスは目に見えて機嫌を良くした。一度あの泣き顔を見れば誰だってこの女は気弱で丸めこみやすいと思うだろう。そしてグェスは人の懐に入ることを得意としていたのだ。
 見ろよ、この尻も頭も軽そうな顔!
 様子を窺っていた他の囚人を嘲笑うようにグェスは唇を吊り上げる。そして少女に視線を戻した瞬間、目前まで迫った眼球に思わず顔をひきつらせた。

「ねえねえねえねえねェ、ねえあなた、あなたって神様や天使を信じる?」
「はァ?い、いや、あたしの家は一応カトリックだったかな……?」
「そう!!スペインには行ったことある〜〜〜〜〜?サン・セバスティアン!ドノスティアはいいところよ。アンヘルは?しらない?ロザリオは赤いほうがいいよね、サイズは子供用?ウノ、ドス、トゥレス、クアトゥロ、チッチッチ……キャハハハハっ!」

 至近距離で意味不明の言葉を並べ立てる女に、グェスは声を掛けたことを心底後悔した。
 あわよくばピィチを丸めこんで金を巻き上げようとしていた思惑は、息もつかせぬほどの質問や言葉にガラガラと崩れていく。へどもどと狼狽える様子を他の女囚が馬鹿にして笑い、ゲイだなんだと囃し立てはじめた。グェスは羞恥に顔を真っ赤にして目の前の女を突き飛ばし、態度を一変させて中指を立てて叫ぶ。

「うるせえこのクサレキチガイッ!訳わかんねェ〜〜ことばっかり言いやがって、二度とあたしに近づくんじゃあねーぞォッ!!」
「ンン〜?」
「×××(クソ女)!!!」

 吼えた捨て台詞は食堂の失笑を強める。
 食べかけの食事をトレーに残したまま、グェスは嘲りを背に足早にゲートをくぐっていった。残されたピィチはよろめきもせず笑顔のまま首を傾げ、何事もなかったようにデザートに手を伸ばして頬張る。最初と寸分も変わりはない、幸せそうな笑みだ。
 噂は一人歩きし、嘘と真実が入り乱れている。しかし火のないところに煙は立たない。同じように彼女に誰も構わないのは、やはりそれなりに理由があるのだった。






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