主よ、憐れみたまえ。
 例えどれだけモラルの欠如した場所でも、祈りは存在する。昼も夜もない貧民街、高層ビルの立ち並ぶ大都会、罪人を押し込めた刑務所でも同じだ。州立グリーン・ドルフィン・ストリート重警備刑務所、通称を「水族館」という。

「Que Dios te bendiga……」

 ああ、彼女に神のご加護を。
 頭上の十字架を仰ぐ両手。G.D st JAILのロゴが入った囚人服は、血染めになったまま床に脱ぎ捨てられている。裸体のまま神を仰ぐ人物の体は「女性」と呼ぶのがふさわしいが、海を丸くくりぬいたようなターコイズブルーの瞳から、涙が滑り落ちる様は幼稚だった。
 彼女が教会を訪れてから、10分ほどの時間が経過している。
 あと3分、と呟いて頭を振る。緩慢な動きで立ち上がり、十字の刻まれたオークの講壇に跪いた。そして表板を力任せに引くと、まるで紙粘土のように音を立てて剥がれる。中からは布の塊が大量に床になだれ込み、短い赤毛を揺らして首を傾げた。

 どんな場所にも祈りは存在する。
 けれど救いは、どこまでも神の気まぐれだ。


▲▼


 ヴーーーッ!ヴーーーッ!

 鳴り響く999警報に、ウェザー・リポートは珍しくテレビ雑誌から顔を上げた。それは幽霊部屋で自らも幽霊のように過ごす彼にしては珍しいことで、この部屋の持ち主であるエンポリオも興味が引かれたように「外」の方向を見た。
 ウェザーは雑誌を置いて出入り口に向かう。少し覗いてみるかと外から見えない程度にゴミ箱の側から顔を出すと、コツコツ、と角を歩いてくる音が聞こえた。足音で察するに、女性用の細いヒールを履いているらしい。

(女囚か……?)

 女子監獄はここからかなり距離があるのだが、警報が鳴ったばかりなのに到着が妙に早い。どんな恐ろしげな女が登場するかと視線を投げていると、角から現れたのはあまりにも意外な風貌の人物だった。
 囚人というよりは―――ショークラブのダンサーに見える。動くたびにボリュームのあるチュールスカートが揺れ、足元は銀色の細いミュール。走れそうにない印象通り、囚人服も着ずに女はきょろきょろと辺りを見渡しながら歩いている。

「どこに行った?!監視カメラはどこを写してる!!」
「ガンポイント付近には居ないッ!」
「絶対に逃がすな、この水族館から……!」

 厳めしい声は女の耳にも届いたらしい。ようやく慌てたように手を口元に当て、逃げるために邪魔なミュールをもたもたと脱いで片手に引っ掛けた。とても脱獄しようという者の動きとは思えないが、とりあえず走り出すのを見送って音楽室に戻るつもりだった。
 裸足の脚が線を超える。
 その時、何故彼女はゴミ箱を見ようと思ったのか?それは彼女自身にも説明できないだろう。あらゆる偶発と偶然が重なり、何かに惹かれるように、目の冴えるようなターコイズの瞳がウェザー・リポートを射抜いた。

「Angelita(アンヘリータ)」

 女が唇を動かす。その言葉を理解するよりも早く、まぶたの裏でチカチカと弾ける光に急かされるように、ウェザーは腕を伸ばした。看守にこの幽霊部屋の存在がばれてしまう危険も忘れ、コルセットに包まれた腰を掴んで引っ張り込む。
 やがてすぐ側まで近づいた足音と怒号が、雷が落ちたような振動のあと完全に沈黙する。

「『ウェザー・リポート』」

 廊下は嵐に見舞われ、看守達は揃って気を失った。
 音楽室に放り出された女は床に片手をついて緩慢に起き上がる。散らばった白いレース。剥き出しの肌や鮮やかな赤毛より、その瞳の色が目を引く。よく見れば歳はかなり若いように見えたが、やはり囚人らしくはなかった。
 
「……おかしい」

 何故自分はこの女を助けた?
 己の行動を説明できるだけの動機をウェザー・リポートは持たない。それは彼が過去の記憶を失っているからということに起因するわけでもなく、ただの衝動というのにも解せないものだった。
 突然の来訪者に息を潜めているエンポリオも戸惑ったように二人の様子を見ている。少女のいっそ不気味なほど丸い瞳が、動かないウェザーの体をそこに縫い付けているようだった。
 リップグロスで光る唇が開く。

「あのね、神様や、天使を信じる?」
「何?」
「ううん、そうよねぇ、そう!間違いないワ、だってだってだってあなた、天使を連れているんだもの!」

 沈黙からわっと湧き上がるような高揚に女が体を震わせる。刺さる熱視線の"正気さ"にウェザーはゾクリと肌が泡立つのを感じた。柔らかな両腕がするりと硬直した男に絡みつき、そして最愛の恋人に再会したかのように抱きしめる。
 刹那、肋骨がミシミシと嫌な音を立てて軋んだ!
 
「ぐッ……??!」

 プレス機めいた圧力に男は思わず濁った呻き声を上げる。背に走った身の危険は時既に遅く、絡みついた腕(かいな)は食らいついた大蛇のようにウェザーを逃がさない。そばに居たエンポリオにも聞こえるほど骨が軋んでいるというのに、男は未だ抵抗の色を見せていなかった。
 なぜ抵抗しないのか?それがウェザー自身にも分からない。この少女の瞳を見ていると力が入らないどころか、その気概すら薄れて行く。明確に感じた危機に冷や汗が首筋を伝った。

「ああ、ああ、キッド・キューはワタシを置いて先に天国に行っちゃったの。どうして皆待ってくれないの?ロザリオだって持ってる、繰り方も知ってる、だって、だってせっかく会えたのに」

 女は意味をなさない言葉を並べ立てて恍惚としたように目尻を下げている。その細腕のどこにそんな力があるのか、一分も緩められない圧力にウェザーの意識が遠のき始める。
 だが、それはキリストの受難を思い起こすために自分を鞭打つように、或いは仏教における苦行のように、彼女が与える痛みそのものがウェザーの戦闘本能を冴え渡らせた。そして女の背後にやっとの思いで『ウェザー・リポート』を忍ばせる。
 その瞬間、彼は彼女の後頭部に見えるはずのない影の姿を見た。

(スタンド使いか……ッ!!)

 自分が彼女を助け、抵抗できないでいるこの現象が全てスタンドによるものだとしたら説明はつく。しかし行動や思考を操る―――そんな類の能力相手に攻撃などできるのだろうか?
 呼吸すらままならないウェザーの様子に、戦闘能力を持たないエンポリオが焦燥を浮かべて立ち上がり痛切に叫んだ。

「止めて!」

 ―――ピタリ。
 ターコイズの瞳から急速に昂ぶりが消え失せ、完全に停止した。次に力を込められたら何が何でも攻撃しようとしていたウェザーも、力が緩まったと同時に一気に肺に流れ込んできた空気に大きく咳き込む。
 膝をついたウェザーからよろよろと離れ、少女は真っ青な顔で後退りする。

「あ、あ、痛かった?痛かったでしょう、ごめんなさい。わたし……ごめんなさい……」

 急に人見知りをする少女のようにしおらしくなった来訪者に、二人は呆気に取られる。今や異様な雰囲気は消え失せ、罪に怯えて親に許しをこう子供じみた表情でピアノの影に隠れてしまった。
 少々ネジが飛んでいるのは違いないが、もうこちらを害そうという気はないらしい―――と判断したエンポリオは、動こうとしないウェザーに代わって恐る恐る彼女に近付く。

「えっと……ぼくはエンポリオです。ここで生まれて、ずっとここで暮らしてるんだ。彼はウェザー・リポート、男囚だよ」

 エンポリオはここで誰かと争いたいわけではない。話が通じる相手かもしれないならば、声をかけてみるのが先だろう。未だに警戒を解かない男とは裏腹に、少女は無防備にエンポリオの言葉に耳を傾けてこくこくと大きく頷いている。

「おねえちゃんの、名前は?」
「……ピィチ・ジョン」

 豊かな睫毛を瞬かせたあと、彼女は自分の左腕を示した。そこには囚人に与えられる番号ではなく、象徴するエンブレムのように刻銘に名が刻まれている。
 そうして「水族館」は十数年ぶりに、一人の囚人の脱獄を許してしまったのだった。





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