ペシ、と頬を軽く叩く音。
 伏せられていた睫毛が震え、余韻も残さずに限界まで開く。起こしたばずの徐倫がその勢いに驚いて「うおッ」と声を上げた。バイクに無理やりくっつけたようなサイドカーで目を覚ましたピィチは、首を傾げてきょろきょろと辺りを見渡す。それからやっと起こしてくれた徐倫に気付いたのか、彼女に向かって締まりなく破顔した。

「Jolyne!! Hola〜〜〜!」
「おはよう、ピィチ。……あんたのそういう顔嫌いじゃないわよ」
「ふぁ?」

 突然の褒め言葉にピィチが顔を赤くしてぱちぱちと瞬きをする。エンポリオとエルメェスもつられて目を丸くした。
 ケープ・カナベラルまで車で10時間の地点。大型バイクを拝借し移動した一行は、オーランド市内の救急病院に来ていた。神父の気配は病院の中で移動しておらず、この中で戦闘になることはほぼ間違いない。空条承太郎のDISCをSPW財団に渡すという役目を任されたエンポリオと、その護衛としてピィチが外に残ることになった。
 二手に分かれた直後、先ほどの彼女の発言についてエルメェスがからかい半分で徐倫に声をかける。

「なんだよ徐倫、優しいじゃんか」
「別に……変なヤツだと思ってたけど、エンポリオを大事に思ってるのは本当なんだ思っただけよ」

 徐倫にとってピィチ・ジョンは、あまり理解できない人物だ。アナスイやウェザーのように共に戦ったことがあるわけでもない。確かに彼女の能力はこの脱獄生活の中で非常に有用だったが、ピィチが本当にこの旅の目的を理解しているのかすら微妙なところだ。
 けれど信用に足るかもしれない―――と判断したのは、エンポリオへに対する態度のせいだ。殺人鬼と名高いその女は、脅威から少年を助けることを躊躇わなかった。理由とするなら単純に、ただそれだけだった。

「ジョッリ〜〜〜ン!!今のって愛の告白ゥ〜〜〜?きゃーーーーっねえねえエンポリオこれってこれってイケナイわよねぇ〜〜〜っ!背徳的ッ!」
「ピィチ!シー!シーッ!」
「……ほんっと〜〜〜に変なヤツだけど!」

 病院近くに響き渡るはしゃいだ高い声。途端に集まった視線に徐倫は顔をしかめて赤面し、照れ隠しなのか一気に足を速くする。エルメェスが肩をすくめて二人に軽く手を振ったあと、その背を次いで追いかけていった。


▲▼


「エンポリオは夢ってみる?」
「夢?」
「そォ、ベガスとかアメリカン・ドリームじゃあなくってェ、ベッドで見るほうのノンとかレムとか、そっちの夢」

 潮風がヤシの木を揺らしている。
 SPW財団に電話を済ませ、病院近くの公園に身を潜めて腰を下ろしていると、黙ってエンポリオの横にいたピィチが唐突にそう切り出した。懐の携帯とDISCをしっかりと確認してから、また思いつきの話かと隣を見上げる。すると彼女の冴えるようなターコイズの瞳はいつもとほんの少し違う色を含んでいて、少年はドキリと息を飲んだ。

「……たまに見るよ。僕が野球チームに入ってたり、徐倫おねえちゃんとかウェザーが出てきたり、いつも音楽室だったり。ピィチも前にでてきたかな」
「ホント?生きてたァ?」
「そりゃ生きてたよ!」
「ワタシ、最近みるの、たくさん」

 抱えた膝に唇をつけて、ピィチは目を閉じる。夢の世界はいつも曖昧で輪郭もなく、無秩序であることが多い。今までほとんど夢を見ることがなかったのに、ここ数日で何度も何度も見ている。繰り返し見た夢の中で、自分は何か大事なことをしている。けれど起きるとその一切を忘れてしまうのだという。
 その声は質問しているわけでも、悩んでいる風でもない。彼女の言葉はいつだって澱んだ嘘はなく、同時にとても不安定だったが、それでもはじめに会ったころよりも明瞭になっている。エンポリオは訥々と零される言葉に耳を傾けて、ただ身を寄せていることに専念した。
 だがそれも長くは続かない。

 ―――ピリリリリリ!

 けたたましいコール音が空気を裂いた。二人は反射的に会話を切って携帯を見る。

「お姉ちゃん、どうかしたの?こんなに早く電話してきて………えッ?」
『ガーーッ ――エンポリオ――戦闘機――地面に――脱出方法を――ッ!!』

 着信は無線機からの電話らしかった。ノイズ混じりの声が焦りからか激しく揺れ、エンポリオは落ち着くようにと声をかけながらパソコンの幽霊を持ちだす。徐倫の支離滅裂な言葉に耳を傾けながらピィチはどこか上の空で、ふとG.D.st刑務所で別れてしまったウェザー・リポートとナルシソ・アナスイを思い出していた。
 ピィチが徐倫の脱獄についていったのは怪我をしたエンポリオが居たからだ。彼が居なくなってはあの音楽室も使うことができなくなったのだろうが、二人はまだ水族館に居るのだろうか。それとも地獄の番人が居ない今ならば脱獄に成功しているかもしれない。

 携帯電話からの声が途切れ、エンポリオが小さな指でボタンを押す。まだSPW財団と思しき人物は姿を現さないまま、時間だけが過ぎていく。
 街はとても静かだ。
 わずかに曇った空から差し込んだ光がゆっくりと地面をなぞり、それから飴を練り上げるように極彩色に染まる。その様子にぞっと背中が粟立つのを感じ、ピィチは光がエンポリオに到達する前に手をとってベンチから飛び降りた。

「虹だ……」

 美しい虹の色。
 幾筋もの虹が空を覆い、公園内のそこかしこに現れる。その色彩は息を飲むほど美しかったが、雨もここ数日降っていないというのにこんな現れかたをするのはどう考えても異常だった。戸惑うエンポリオを隠すように周囲をぐるりと見渡すと、街はにわかに喧噪を帯びている。
 病院の方角から逃げるように公園へ飛び込んできた数人の人間が、虹に触れた瞬間一気に動きを鈍くして倒れる。二人は顔を見合わせて青くなった。

「な、なんだこれ……!?おねえちゃんたちは無事なのか!?虹に触れると何が起こるんだ!?」
「………かたつむり」
「え?」
「みて、エンポリオ。エスカルゴだよォ」

 エンポリオは一瞬理解が及ばす固まったが、彼女の指先が示す方を見てようやく背筋を震わせる。倒れた男の持つ携帯電話から、あるいは衣服から、地面から、ありえない場所からぞろぞろと現れる無数の渦。やがて触れてしまった人間の身体にも変化が現れてくる。
 ぐにゃり、骨を失って折れ曲がる肉体。
 そのおぞましい光景に目を見張ったあと、少年の思考を巡らせる時間は短かった。虹に触れないようにピィチを振り返り、必死に彼女を屈ませて目線を合わせる。

「ピィチ、これはおねえちゃんたちが襲われていたスタンドとは違う能力だ!カタツムリに触らないように、敵を探して叩いてほしい!」
「え、でも、エンポリオが」
「ぼくは、大丈夫。まだ敵にもぼくの姿はバレてないと思う……ピィチ、もう君だけなんだ。君なら敵に悟られず近付ける」

 ピィチ・ジョンのスタンド能力。
 未だ謎が多いものの、使いようによっては驚異的な能力であるのは間違いない。ピィチの脱獄と同行が神父側にバレているにせよいないにせよ、看守の目をかいくぐったその能力ならばどこかに潜んでいる敵に見つからず叩ける。それがエンポリオの判断だった。
 つまり、ここからさらに二手に分かれることになる。
 少年と離れることが不安なのか、ピィチは瞳を揺れ動かしながら指先を宙に浮かせる。エンポリオはそれを敏感に察知し、小さな手でその手を握った。

「大丈夫、お別れじゃないよ。また会えるから」
「……ウン、ウン、平気。エンポリオ、肩は平気?もう身体はいたくない?たくさん痛かったねぇ、あのね……見つけるからね」

 ピィチは常ならぬ声で言った。
 一度指で握り返したあと、手を離して背を向ける。人が多いからか病院の方から人の波は流れてくるが、実際虹が多く出ているのはそれと少し外れた方角だ。この広い屋外ならば、空から降ってくるカタツムリにだけ気を配っていればいい。握られた手を強く握りこんだ。
 不思議な感覚だ。
 その殺人鬼は今まで、自分の為だけに行動してきた。自分の気が向くまま風の向くまま、誰にも縛られずに何処へでも行ける能力。鉄格子の中に留まり続けたのはそこに誰かが居たからだ。自分の孤独を埋める相手は誰でも良かった。発覚しているだけでも13人。容疑も含めて40件以上。実際はもっとかもしれない。
 人を殺し続けたその殺人鬼は今、他の誰かのために道を走っている。

(敵を探す。敵を叩く。ふたりを助ける。見つけるって約束した。エンポリオと約束した……)

 自らの中で起きている変化に、彼女は気付いていないようだった。それでも不思議な高揚感に突き動かされ、銀色のミュールは軽やかにオーランドの街を駆け抜ける。繰り返し見た夢の中で味わったような幸福の予感。ゼロに戻れるということ。
 しかし、一つの影は。
 群集の中一人違う動きをする者というのは、傍目から見てすぐに分かるものだ。頭がいいとは決して言えない女の目にも、逃げ惑う街の住人に紛れて一人、その路地裏に消えた人影は不審に見えた。猫のように足音を殺す。呼吸を殺す。ゆっくりと瞬きをする。

 身体を滑り込ませた場所で佇むその姿が、ピィチ・ジョンにはなぜか一瞬―――彼女の知る記憶喪失の囚人と重なって見えた。

「ウェザー……?」

 いいや、違う!
 足首まで伸びた十字架の黒衣が、こぼれてしまった呟きに振り返る。浅黒い肌に輝いた黒目。けれど今はどこか澱んで見える。薄汚い路地裏は、神に見捨てられた場所と呼ぶのに相応しい陰鬱さだった。
 どんな場所にも祈りは存在する。
 けれど救いは、どこまでも神の気まぐれだ。




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