▼拍手ログ:HLにトリップしてスティーブンに拾われたけどアフターケアが雑な話
06/18(22:54)



1


「わかんないよ〜」


 「理解できない」か、「返事ができない」か、恐らくそんなことを言いながら泣きだしてしまった彼女に、英語でまくし立てたのが自分とはいえぎょっとしてしまった。往来で女性を泣かせるのは流石にまずい。
 徐々に集まってくる視線を避けるように、男ーーースティーブン・A・スターフェイズは女の手を取って適当な喫茶店に飛び込んだ。彼女は迅速に目の前に置かれたココアを見ても、べそべそと涙を落としている。色男は先ほどとは打って変わって、できるかぎり優しい口調でゆっくりと喋りはじめた。


「きみは、チャイニーズ?」
「ジャパニーズ」
「ジャパニーズか、中国語なら少しは分かるんだけどなあ それでどこからここに来たの?トーキョー?」
「はい」
「仕事で?」
「……アイ、ドント、ノウ」
「(わからないと来たもんだ)」

 自分がなぜここにいるか分からないなんてことがあり得るだろうか?アジア系らしい真っ直ぐな黒髪の奥で、彼女の黒い瞳は助けを求めるように涙で濡れている。相手を騙そうという気がないのは見ていれば分かるが。
 いや、そうか。分からないということがこの場合正しい。学生でも旅行でも不法労働でもないなら、英語もまともに喋れない東洋人がこんな危険地帯でうろつく理由がない。そりゃあ尋ねられても「アイドンノウ」としか答えられないだろう。行き着いた解が決して歓迎できるものでなかったせいか、スティーブンはアメリカンコーヒーを一口飲んで冷や汗を食い止めた。

「つまり、だ」
「?」
「今の君に必要なのは所在地と仕事と、口の硬い仲間だ。わかるな? 所属先さえ決まってしまえば書類申請もできるし……」
「仕事、大事、わかる」
「うん、えらいえらい。じゃ、これに署名してね。名前は適当でいいからな」

 スティーブンはまだ優しい声で、しかしあえてすこぶる分かりづらい言葉選びをした。並べられた耳馴染みのない単語にどんどんと彼女の不安は濃くなるが、目の前の男は「安心していい」とばかりにゆったりと構えている。薄い唇と高い鷲鼻。まるで俳優のようにスマートな佇まい。頬にある傷を忘れるほど魅力的な微笑みに、若い彼女はわずかに頬を赤くした。無理もないことだった。

「しょ……署名?」
「サインだよ」
「サイン、」

 目の前に置かれたペラ一枚の書類に彼女は目を白黒させ、ボールペンを持ち、恐る恐るついにサインした。独特の漢字で書かれたサインはスティーブンには読むことができなかったが、このアジア人の名前はどうせ変わる。遥か極東の国の人間はとても平和ボケしていて警戒心が薄いとは聞いていたけれど、ここまでとは思わなかった。
 彼女はほとんどなにも考えずに、とても重要な書類にサインしてしまったので、明日からこの国で違う名前を与えられて働くことになる。なにかまずいことをしてしまったんじゃないかという不安に見舞われる彼女に、母国語で親切に説明する者はない。ここはヘルサレムズ・ロット。ゴミ溜めで泳ぐほかには生きる術がない街なのだ。



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2




 朝起きたらずいぶん体が冷えていた。髪の毛をきちんと乾かさないまま寝てしまった所為だろう。肩のあたりがとても寒くてベッドから起き上がる気になれなかった。ぐずる子供のように布団に包まっていると、部屋の扉がノックされる。慎重な音だ。
 ぱっと起き上がって「はい」と返事をしながらドアノブをひねって開け放つと、スーツに身を包んだ一人の青年が立っていた。

「……あのー」
「え、ああ、ごめん。ミスタ・スターフェイズから聞いてるだろ? 必要な書類とか……持ってきたんだけど」
「ああ! どうぞ!」

 スターフェイズ、という名前に安心してドアを大きく開けると、青年は呆気にとられたような顔をした。ソファに案内すると彼はどこか居心地が悪そうにしながらも、おとなしくそこに座る。
 あのあと彼が案内してくれたのはホテルというよりアパートのようだったが、東京の手狭なワンルームとは比べものにならないほど広い部屋だった。漆喰でできたシンプルな内装で、裸足で歩くと足が冷たい。手持ちの服は薄いセーターとジャケットしかないので少し寒かった。それでもこんな異国の地でベッドがあるだけありがたい話だ。
 向かいに座ると、ますます怪訝な顔をされた。彼は昨日のスティーブンとは違い東洋系の顔立ちで、ほとんど日本人と違わないように見えたので何故か安心してしまう。しかしどうしてそんな顔をされているのかはよく分からない。

「……君、ジャパニーズだっけ」
「ハイ」
「じゃあ、日本語でいいよね。俺の名前は『シヴァ』。それで、君の名前は『タオ』だから」
「えっ?」

 思わず声を上げる。もはや懐かしい日本語での自己紹介に嬉しくなって、自分もいざ名乗ろうとしたらーーーなぜか先に言われてしまった。しかも知らない名前だ。わけが分からなくて彼の話を手で遮る。

「いや、私、そんな名前じゃない……」
「ミスタ・スターフェイズが決めたんだよ。だから今日から君の名前はタオだ」
「え? は? 待って、なんで?な、なんであの人が私の名前決めるの?」
「だって君、サインしたろ」

 シヴァの取り出した書類にさっと胃が冷たくなり、立ち上がってそれをひったくる。英語で書かれた書面には確かに私の名前があり、その上にはおそらくスターフェイズ氏の字でまったく違う名前が書かれていた。嫌な予感に冷や汗が流れる。
 わたし、もしかして、騙された?
 目の前の青年が端的に伝えてきた事実は、私には到底理解できない内容だった。頭に入ってこない。あのハンサムで優しそうな人ならきっと助けてくれると、どうしてか勝手に思っていた。服は一着しかない。携帯も財布も持ってない。どう見ても日本ではない場所で、身分証明書も何も持っていない。じわじわと染み出した現実が足元に浸る。すとんと力が抜けたように座り込んだ。


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3





 霧の夜だ。月明かりでは間に合わない。街灯から長い影が伸びてまた次へと移った。疲れているのか少し背を丸めて早足の男は、押しに押した予定を吹っ切ってやっとここへと赴いている。山積した仕事を片付けていたら、いつのまにかこんな時間になっていた。
 アパートの一室の前でスティーブンはチャイムが壊れていることに気付き、控えめにノックをした。ほとんど真夜中だというのに部屋の中からはすぐ気配が近付いて、ガチャリとドアが開く。ほとんど相手を確かめる様子もなかった。

「やあ、遅くなって……」

 挨拶はそこで途切れる。
 彼女はひどい有様だった。紙のような顔色で突っ立って、目はぼんやりと虚ろで、肩が小刻みに震えている。明かりは点いているのに部屋の中は妙に温度が低く、外とほとんど変わりない寒さだった。
 何だか嫌な予感がして、男は口を開く。

「暖房、付けてないのか?」
「………わ、分からな、電源……」

 くしゃりと顔をしかめた彼女に、スティーブンは思わず片手で額を押さえた。その辺に放り出すよりはマシだろうと、過ごすのに十分な場所を与えたつもりだったが、暖房の付かない安アパートは外と大して変わらない。
 シヴァから連絡が来たのは昼前のことだ。日が落ちてもう何時間経っていることだろう。どうやらエアコンの使い方が分からなかったらしい。寒い部屋に薄着で独りきりでいた彼女は、すっかり元気をなくして背を丸めていた。
 部屋の中は荒れた様子もなく、ほんの少し使った形跡がある程度だ。

「暖房は、これだよ。これがスイッチで………あー、コーヒーでも淹れようか」
「…………」

 男は力なくソファーに腰掛けた彼女に軽く笑いかけるが、返事はこくんとわずかに首が縦に振られただけだった。
 スティーブンは正直なところ、この部屋に入った途端に頬を引っ叩かれたり、罵られたり、詰め寄られたりしても仕方がないと思っていた。それくらいのことをした自覚はある。だがどうだ、彼女のスティーブンを見る目には責めるような色はなく、ただ弱りきった捨て犬のように震えている。

(……どう切り出すかな……)

 部屋が暖まってきた。後ろからはついにくすん、くすんと泣き声が聞こえる。男はヤカンを火にかけながらあまりにも居た堪れなくなって、自分の判断の甘さに漏れそうなため息を飲み込んだ。



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4





 目の前に差し出されたコーヒーを見つめながら、「タオ」と名付けられた女が涙を流している。この光景を見るのは二度目だな、と思いながら男は向かいの椅子に腰を下ろした。会ってまだ2日の女を何度泣かせれば気がすむのだとスティーブンは自分に呆れてしまう。
 だが言うべきことはたくさんある。さてどこから切り出したものかと、再び言葉を選んで口を開いた。

「君みたいな子が、この街にはたまに現れるんだよ。どこからかフッと来て、またある日突然消える。誰かの術なのか神々の悪戯なのかは分からないけどね」
「………」
「僕らはそれを『ロスト』と呼ぶ」

 名前は「Lost child(迷子)」からきている。表れる者は年齢も性別も種族もバラバラで、何かの規則性があるわけでもない。まさに迷い込むという表現が正しかった。
 突然はじまった話に彼女は涙を浮かべたままきょとんと目を瞬かせている。けれど口を挟む気はないのか、両手を膝の上に置いて大人しくスティーブンを見るだけだ。

「もちろんだいたいの場合、不法入国で身分証明書もないからすぐ法的に問題が出てくる。君は完璧に『ここにいないはずの人物』だからだ。しかし、まあーーーそのほうが都合のいいこともあるのさ」
「都合、」
「身元を偽造するってのは案外簡単なんだが、なかったことにするほうが骨が折れるものなんだよ。だが君には探られて困る正体がないわけだ」

 不法入国。法的な問題。身元の偽造。不穏なキーワードに彼女は眉を寄せるが、決してネガティブなニュアンスを含んでいないことになんとなく気付いたようだった。スティーブンの言葉はむしろ「喜ばしい」とばかりの言い方だ。
 つまり、と男が唇の端をあげる。企てた悪事に共犯者を誘う微笑み。喫茶店で見せた柔らかなだけの笑顔とは違っている。

「君はスパイに最適なんだよ」

 まさかそんなことを言われると思っていなかったのか、彼女は目を白黒させる。

「す、スパイ……?スパイって、あの?」
「そう! 007のジェームス・ボンド、スパイ大作戦……いや今の子はミッション・イン・ポッシブルか。あのイーサンに、チャーリーズエンジェルのエンジェル達ってこと」

 どれも有名なスパイアクション映画だ。ずいぶん耳に気持ちの良い単語が急に並び、女はすっかり眉を寄せて困惑している。けれどもう一度だけ自身の勘を信じるとしたら、彼はちっとも冗談のつもりもなく、この話をしているように彼女は思った。
 一体どこからどこまでが本当なのか。
 彼女は無言のまま考えた。考えて考えたあげくに分からなくなってしまった。このおかしな街に迷い込んでからというものの不可解なことばかりで、もはやなにが正しいのか分からない。コーヒーマグを持ち上げて口をつけると、冴えた苦味が舌に走る。コン、とテーブルにマグを置いた音がスターターピストルの代わりだ。

「聞かせて、ください、全部」

 タオと名付けられた女が、やっとスティーブンを見上げる。彼女はもう目の前のハンサムがただの良い人ではないことを知っている。男はひとつ頷き、ちょうど仕事の話をするときのように指を組んで、対等に目線を合わせたのだった。




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なんでここで終わってんねん
と思ったんですが長いこと放置だったので上げる




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