陸の深海


「もし、そこの方。傘をお忘れですか」
 鼓膜を濡らす雨の、降り止まない午後。町の外れの軒先で、人目を憚るように佇んでいた少女へ、なんと声をかけようかと迷って、ささやかな芝居を打ってみた。私もそこまで、行くところです。よろしければご一緒に、いかがです。水に濡れたように所在無さげにしていた銀朱の眸が、くすり、と微笑って温もりを取り戻す。ああ、いつもの彼女だ、と不思議な安堵がそこにあった。
「ありがとうございます、タオさん」
「いいえ」
「通り雨の季節が、来ていることを忘れていました。空が灰色になったのに気づいて、急いで戻ってきたんですが、町へ着く頃には降られてしまって」
「山のほうにでも?」
「ああ、はい。泉まで行っていたんです。あそこにいたときは、いい天気でしたよ」
 一つ、また一つ。足を動かすたびに、浅い水溜りが水を跳ね、晴天とは違った足音を鳴らした。白い坂を、隣の歩幅に合わせて上る。間に挟まったほうの手で斜めにできず掲げ続ける傘は、一人には充分すぎて、二人には少し狭い。必然的に身を寄せ合うようになり、そのことがまた、互いの足を踏まないようにと無意識に歩調を緩めさせていた。
 気づいているのは一人だけか、二人とも、か。いつになく長く感じる坂道にはどちらからも触れることなく、ただ歩き続ける。ゆっくりと。
「代わりましょうか、傘」
「構いませんよ、それほどの距離ではありませんから。それに」
「はい?」
「私のほうが、背が高い。貴女に持たせてしまうと、ずっと腕を上げていていただくことになりそうです」
 鼓膜を濡らす雨の、降る。外の天気と隔絶されたような、紅い傘の下。見上げる眸にそう微笑んで、ああここは狭い深海のようだと思った。
 空の色を遮って、水気の多い空気が静かに流れるわずかな隙間を残し、それ以外には何もなく、ただ貴女がいる。とても近くに。
 その事実に目を背けて、私は取り留めもない話を片手に、白い坂道を上りきった。例え短い距離であっても、どれほどわずかな時間であっても。それについて正面から考えてしまったら、触れる肩の温度や揺れる髪の香に、陸で呼吸を忘れる姿を彼女に見られてしまいそうで。


(タオとヒカリ)



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