綴るは懐かし


 その名前を、口にしなくなってからもうどれくらい経っただろう。心の中にはいつもある。だが、そこにいない人の名前というのはどうにも、決して忘れることはなくても声に出す機会の減るものだ。もっとも、それを言うならば、以前だって名前で呼ぶことはあまりなかったわけだが。それでも兄さん、と口にすることで、名前を呼ぶのと同じような感覚がそこにあった。
「ディルカ」
 リビングにいた彼女が、盆を両手で持って奥へやってきた。お茶がはいったよ。小さな書物机の上に広がった便箋とペンをちらと見て、少し離れた場所に湯飲みを置く。
「サンキュ」
「うん。郵便屋さんが郵便を書いてるなんて、なんか珍しい。誰?」
「そうだなぁ、オレの大事な人かな」
「へえ……、え?」
 問われた声に、こちらもまた珍しく、少しの嫉妬のようなものがあった気がして。つい、紛らわしい言い方をしてしまった。案の定、振り返ればぱちりと重なった視線の、次の言葉に詰まったような戸惑いを見て笑ってしまう。
 大事な人。口に出せば嘘ではないが、そう紹介することはなかなかない相手だ。
「そんな顔すんなよ。――オレの、兄さんだよ」
 ユリスっていうんだ。手紙の内容を考える合間に用意した封筒を渡して見せれば、そこに綴られた宛名を見つめ、サトは大きく瞬きをした。ディルカ、と、何のこととは言わないが咎めるように睨む視線が、隠しきれずに苦笑を含んでいるものだから、安心したと言われているようなもので可愛い。バンダナ越しにその頭を軽く撫でて、湯飲みを置いてペンを取り直した。
「サト、もしよかったらお前からも一枚、書いてくれないか? そんなに難しく考えなくていいから」
「え、私?」
「うん。兄さんに、お前のことを紹介しようと思ってさ。ちょうど書いていたところだったんだ。心配性だからな、本人からも一言あったら、きっと安心するんじゃないかと思って」
 予備の便箋の前で何度か指を彷徨わせて、その目の色によく似た、プラム色の便箋を一枚渡す。ええ、と慌てながらも、彼女はそれを受け取ってくれた。
 封筒の宛名を注意深く確認しながら、故郷を離れて知り合った恋人が、故郷に離れた兄の懐かしい名前を綴っていくのを眺め、思う。きっと俺がどれほど言葉を尽くして語るより、戸惑いながら書かれた彼女の手紙の一枚が、聡い兄にはまっすぐに伝わるだろう。俺が、彼女のどんなところにどれほど惹かれたのかということも。


(ディルカとサトとユリス)



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