時雨降る


 それは蜃気楼のようなもので、そこにあったかと思うときにはもう消えている。掴むことができたなら輪郭を確かめられるのに、私の奥で揺らぐばかりで、決して本当の姿を見せようとはしない。それこそが私の望みであるのかもしれないと、思うこともないとは言えないけれど。横顔ばかり見せては逃げる、自らの衝動に焦らされる。
「先生」
「何?」
「片づけなら、僕がやっておきますから。先に休んでください」
 ラベルの貼られた薬品を棚に並べていた手を、そんな声が止めさせた。前髪が、乱れている。ガラス戸に映った自分の姿を見て、ふるりと首を振ってそれを払う。疲れているようにでも見せただろうか。この子に促すような物言いをさせてしまうとは、珍しい。
「平気よ、いつものことじゃない。どうしたの、急に」
「先生、気づいていないんですか」
「何、に」
 微笑んで振り返った額に、ひやりとしたものが当たった。白い、見慣れた白衣の白が視界を欠いている。腕だ。それならば、その先にあるものは限られている。
「やっぱり。微熱がありません? 具合が悪そうにも見えないですけど……、過労ですかね」
「大袈裟ね」
「医者の不養生って、人の徹夜は叱るくせにそれはないですよ。お陰さまで、最近は見抜けるようにもなりましたけど」
「チヒロ、怒らないでよ。本当に気づかなかっただけだから」
「……先生が僕に、嘘を吐くとは思いませんよ」
 離れていく手の、少年らしさの残る指を見つめる。見た目よりも広い手のひらに、一瞬、誰に触れられたのか分からなかった。
 近づけば僅かに私を越した肩の高さも、日ごとに白衣を羽織る仕草が落ち着いていく背中も。親鳥のような気持ちで見守っていたと思うのだけれど、本当のところはどうなのか。いっそ、貴方に尋ねてみたほうが早いかしら、と。思ってから、おかしなことを考えるようになったものだと、瓶に触れ続けて冷えた手を首筋へ当てる。
「もっと、勉強しないと駄目ですね」
「え?」
「先生が、僕の一言目で素直に休んでくださるくらい。立派な医者になろうと思います」
 綻びかけるこの気持ちを、誰が笑ってくれるだろう。淡くあどけなく、しんしんと。この胸の閨に淑やかな雨を降らせる、子供。


(アヤメとチヒロ)



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