婆娑羅ゆめ | ナノ
 10

「優勢か」

こくり、静かに頷いた小太郎の髪に軽く指を絡ませる。小休憩とばかりにーー闇が啜り終わった後で、付着してもいない血をーー払うように刀を振り抜いた。

「海道一の弓取り、面目躍如と言ったところかな……いや、兵力差を鑑みれば元より道理」

それは暗に、このままではいかないだろう と言う不安。確かに今の時点では兵力差に余裕があり、相手方に妙な動きがある訳でも無い。今川義元の戦運びはなかなかに巧みであり、危なげなく陣を奪い、着実に敵に迫っている……筈なのだ。

「……嫌な思考だ。 ただの、考え過ぎだ」

自ら言い聞かせるように、無理に言葉にした暗示は酷く弱々しい。
周囲は少しずつ暗くなっていた。生温い風のなか、小太郎は雨の匂いがする、と唇を動かす。
小太郎に目を向けている隙を狙ってか、無謀にも斬りかかってきた数人の敵兵を地に伏せた時には、いつの間にか霧が立ち込め始めていた。
其れは時臣が意識した途端、急激に色を濃くしながら広がっていく。深く黒い霧に全身が総毛立ち、柄を握る手が汗ばんだ。
濃密な、闇の匂いだ。

「……撤退を!この場から一刻も早く離脱して下さい!」

時臣の声に辺りがどよめく。だが、けして無視は出来ない婆娑羅者の言葉とはいえ、有利に進んでいる戦の最中でのことだ。大した効果は無い。

「何を仰るやら……若獅子殿。確かに貴殿の事は頼りにしておりますが……ええ、この程度の霧など何の心配も要らぬ所をお見せしましょう」
「今、下手に動くのは……っ」

時臣は焦りを抑え込み、深く息を吸い、吐き出した。横でじっと指示を待っていた小太郎へ向き直る。

「小太郎、先に義元公の元へ。撤退を進言してきてくれ。確証はないが、罠の可能性がある。そうなれば現段階では、布陣に不安がある」
「……」
「頼む、小太郎」

離れ難いとでも言うように時臣に纏わり付いた風が溶けると、清涼な風が消え、どろどろとした霧が空間を埋めた。
小太郎が姿を消すと共に断末魔の叫びが響く。
霧の中、そう遠くはないが辛うじて見える場所で倒れてこんでいったのは、先程時臣の言葉を跳ね除けた初老の兵だった。
時臣はそっと目を細めた。

「敵だーー!!」
「一体何処から現れたんだ…!?」
「き、霧の中から大軍が」
「嘘だ、嘘だろう!?囲まれてる!」

ーーー敵の動きが速いな。
舌打ちしながら刀を構え駆け出す。
さしもの小太郎も、この中で義元公に辿り着くのは時間がかかるかも知れない。闇には慣れていようが、斯様に淀んでいては小太郎を運ぶ風の邪魔だろう。
敵兵はどこか虚ろな瞳に狂気を宿し、けれど必要以上に高揚した声を上げながら走り込んでくる。

「我らは魔王の軍勢ぞ!!」

己を鼓舞すると言うには妙な言葉に時臣は僅かに眉を動かし、無感情な瞳で刀を振り下ろした。





これだけ混乱していると気配が読み切れない。それどころか、闇から生まれ出でるように黒い兵卒は、霧から現れるまで全く補足出来ていなかったのだ。
慌てふためく大勢の兵士達が入れ替わり立ち替わり場所を動いているせいだろうか、伝わる情報量が多すぎて時臣の頭が痛む。
瞬き毎に別の伝令が来るような……いや、もしかしたら其れより酷い。
逐一気配を拾い上げ過ぎているのも悪いのだが、如何せん、濃厚すぎる闇の匂いが時臣の優れた感覚を嫌に刺激し、その上これでもかと鈍らせる。
ーーまさか、同じ闇と相性が悪いとは。

「まずいな……」

ならばと伸ばした時臣自身の闇でさえ、蔓延する謎の霧に阻まれまともに周囲を探ることも出来ないのだ――只でさえ視界が悪いと言うのに。
檻や壁を模した闇を貼り巡らそうにも、やはり既に制空権を得た霧に押し留められた。
降りしきる雨が兵の身体を冷やし、じわりじわりと体力を奪う。濡れ、踏み荒らされ、足下の状態など酷いものだ。

霧に力を吸い取られない分まだマシだった。
時臣の闇を越えて直接斬りつけられたら話は別かも知れないが、婆娑羅を用いての吸収には時臣に一日之長があったのだろう。
幼い頃から微細に制御し続けている時臣に匹敵するには、日常生活でも婆娑羅を用いるようでなければ無理だ。
けれど周囲に蔓延る闇は、時臣のものとは性質が違うと思える程にどろりと粘り、絡み付き、重苦しい。


「おやあ?」


ぞわり。
生理的な嫌悪に限りなく近い寒気の先に、周りを囲む重い闇と酷く似た匂いをした人型がいた。



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