不破から今日家へ行っていいかとメールが届いたのは、丁度バイトの昼休憩が終わる間際だった。時は十二時を少しずれて、午後二時。建物の外は爽やかな光と、街路樹の緑が鮮やかだ。
 二越は独り暮らしだ。その生活を賄う為に、現在暮らしている町でアルバイトをしている。地域に根付いた家族経営の酒屋で、店番をしたり品出しをしたり配達をしたりと自らの用途を余すところなく使ってもらっている。勤務日も少なくはない。時間があったら必ずバイトを入れてもらっている。それでも給料は並といったところか。実のところ、実家からも少ないながら仕送りをしてもらっている。本当なら実家に頼りたくはないが、現状は如何ともしがたい。二つを合わせて、大袈裟ではなくなんとか毎月命を繋げて暮らしていた。

 今日は日曜だから朝九時の開店から夕方六時まで。普段は夕方四時から閉店まで働いている。
 この店は綺麗ではないけれど、品揃えも多く、要望にも出来る限り応えようと働く人のその気っ風がいい。お客さんも馴染みが多く、みんな二言以上必ず会話を交わしていく。そんなところも好きだった。自分が馴染めば馴染むほど、知らない町が家族になるようだった。
 二越は呼吸するように彼等が住むこの町を好きになった。

 不破に『是』と返信すると、すぐまたメールが飛んできた。『短すぎる』という不破だって大概なものだ。二越はすぐさま『時間がない。このタイミングは悪意以外の何者でもない。六時二十分に駅前にいろ』と送り返す。不破からの返事は『是』だった。
 画面を強制的にスリープに切り替えると、ポーターのリュックに放り投げる。柔らかい材質のそれは柔らかく電話を受け入れて、小さな音をたてた。
 そして、二越はハッとする。なんやかや大学で会ってはいたが、不破を家に招くのはあの日以来初めてだ。
 あの人生がひっくり返るような春の嵐からどれくらい経ったろうか?―――改めて思い返してみたらまだ一ヶ月程で驚いた。記憶は鮮明だったが、体感時間がそれをかなり昔へ追いやっている。

 二越はあの時の返事を不破にしていない。

 その日から次に会った時、誇張なく息が詰まるくらい緊張していた二越を察したのだろう不破は、ちょっと困った笑顔をして、頬を引っ掻きながら『おはよう』 とだけ言ったのだった。
 その言葉にどれだけ救われただろう。あまりに現金にも、二越の胸を押して呼吸を阻害した何かが薄くなり霧散した。
 そしてはっきり察したのだ。自分は彼と同じ舞台に立つことは出来ないと。
 二人少しでも同じ気持ちで付き合えなければ恋はいずれ破綻する。それが分かっていて彼に期待を持たせることは酷に違いない。
 その回答を、嫌悪の瞬発などではなく、真面目にゆっくり考えて二越は得た。だから少しでも早くと何度もそれを伝えようと口を開いた。
 でも言葉にならなかった。
 不破が許してくれなかったんじゃない。二越に度胸がなかったのだ。人間としての不破雷蔵は嫌いではなかった。出来ればそれは失いたくなかった。その曖昧を許す彼に甘えて、二越は逃げれるだけ逃げた。

 今日、不破はその逃げ跡を辿って首を刈りにくるということなんだろう。

「………きらい、じゃないんだけど、な…」

 口の中で呟いた言葉は果たして言葉であったか。空気に乗らず誰の耳にも届かずただ二越は遠い目をして午後の店番を続ける。
 カウンターに座って程無く馴染み客が八海山の一升瓶を二つくれと言ってきた。結納が無事終了したお祝いがあるのだという。とても素敵なことだなと思った。そして、あまりにも遠い世界の事だな、とも、思った。


 午後六時十三分。二越の本日の勤務が終了した。タイムカードを切り、身支度を整え店主に声をかける。この酒屋の三代目夫婦は何かと一人で暮らす二越を気にかけてくれて、今日もお土産を持たせてくれた。奥さんが煮た魚だ。ビニール袋に何重にもされたタッパーはまだ温かい。どことなく醤油の香りがした。
 ぺこぺこと頭を下げて店を後にすると、時計はもう二十分を指している。駅まで五分といえど、もう遅刻は確定。土産をもらった手前、バイトをその理由にするのも憚られて二越は頭を捻ったまま駅に向かった。急げなくて、足取りは重い。
 新緑の光の名残が黄色く見えた。それは、優しい夕方。

 改札が一つしかない小さな駅に違和感なく不破は立っていた。待ち人未だ来ずとも焦った様子はなく、携帯に興じるでもなく、この小さな町の一部であるように彼は居た。
 二越はこれから起こることを思って呼吸を押し潰される。―――失ってしまうんだなぁ、俺の手によって。

「――――お待たせ」

 二越が堂々と声をかけると、不破は人波から視線を寄越した。そして、あたふたとイヤホンを外すとアイポッドの電源を切った。

「急にごめんね」
「いや、俺こそ遅れてごめん。これ、一緒に食お」
「これ?」
「カジキの煮付けだって。奥さんが持たせてくれたの」
「へぇー、優しいんだね」
「うん。漬け物もまだあったかな。味噌汁作れば夕飯出来るよ」
「え、夕飯食べてっていいのかい?」
「不破が、嫌じゃないなら」

 そう言うと、不破は穏やかに笑った。すぐに二越はそっと然り気無く視線を逸らした。
 隣り合って駅から出て、コンビニの前を通りすぎると、そこを皮切りに商店街が始まる。夕方六時半の商店達は一日で一番元気である。駅から帰ってくる人におかえりと言うように声を上げ、住宅から会いに来てくれる人に会いたかったと言うように声をかける。
 天ぷら屋からは胡麻油の香りが、八百屋からは青物の香りが、惣菜屋からは揚げ物の香りが、居酒屋も目を覚まし、スーパーマーケットも活気を持つ。チェーン店の薬屋がタイムセールを始めると、親子連れが足を止め、アイスクリーム屋の前には少女達が出入りを繰り返す。
 二越は、人と自転車を避けて歩きながら隣の不破を見る。と、ひどく愛しそうな目でこの活気を眺めていた。そういえば、彼はこの時間にこの道を通るのは初めてか。涌いて出たような彼等を嫌悪しない不破に、二越は少しだけ呼吸がしやすくなった気分だった。

 さして長くはない商店街を、二言三言交わすだけで通り抜ける。
 商店街の終わりには幹線道路が横たわっている。それを渡るための信号は待ち時間が長い。中々変わらない赤を眺めて二人立ち尽くす。目の前を通り過ぎる車の速度は速く、音も大きい。
 意識が少しだけ虚ろになる。この時間が長く続けば、失わないものもあるのだろうか。けれど、一日は長い。案外、長いのだ。その時は必ずやってくる。
 信号は青に変わり人波が動き出す。流されるように二人も歩き出す。渡りきると初めて右に折れ、コンクリートに囲まれた川岸を歩く。揺れる街路樹は桜だ。春には花びらが眩しいくらいの桜並木が見れた。
 空は夕暮れ。赤から紫へ。滲む群青には一番星が見えた。

「塔児」

 不破が名前を呼んだ。
 気負いもなく、迫力もなく、呼び掛けるだけの声音。

「ん?」
「僕、この町、好きだなぁ」
「…そお?」
「うん、一緒に歩くって、いいね」

 この町は二越も好きで気に入っている。誉められて悪い気はしなかった。自分の好きなものを分かってくれる人間は、案外少ないと二越は知っている。

「僕ね、塔児の部屋も好きなんだ」
「うぇ?なんで」
「なんでかなぁ?分かんないんだけどね。」
「狭くて汚いぜ?」
「だけど、落ち着くし、ほっとする」
「……ふぅん」

 正直自慢できる部屋ではない。狭いし古いし元々が綺麗ではない。それを好むなんて、不破はどこか変わっている。そう思って二越はちょっとだけ笑った。

「塔児」
「んー?不破って、好きなもんいっぱいあるんだね」
「うん。あるよ。…最近気づいたものばっかりなんだけどね」
「へー」
「塔児」
「んー?」

「きみが好きだよ」

 ざわ、という音と共に並木の葉を大きく揺らす風が一本通りすぎた。
 聞き間違いかと思った。
 そして、ついに来たと背筋が震えた。
 言わなければならない。今。何を迷う。答えなんて一ヶ月前から出ていたではないか。何度も言葉を脳内で反復して、夢にまで見てしまうくらいだったじゃないか。不破は二越が自ら答える道筋をくれたのだ。なんていい奴なのだろう。なんで同じ気持ちになってやれないのだろう。なんで彼は彼女じゃないのだろう。

「―――…あー……え、と…」

 躊躇う二越を見ても不破は変わらず柔らかい空気でもってそこに立っていた。

「僕、言ってなかったでしょう?だから、今言わなきゃと思って」
「……そ、」
「君と見るこの町が好きだよ。」
「…………」
「君がいるあの部屋が好きだよ。」
「……………、」
「君の隣を歩くのが好きだよ」
「………ふ、わ…」
「君とする会話が好きだよ」
「…、……」

 『好き』というその言葉は、その意味は、その取り方は、とても広い。不破が投げつけた『好き』の言葉の色を様々計るけれど、二越には分類が分からない。友達とも取れるし、恋人とも取れるその曖昧さ。彼はどちら岸に立っている?絡み付くような靄に二越は眉を寄せる。
 不快だと、一言そう言ってしまえたら楽なのに。
 楽なのに、言えないのは、嫌いという全否定を二越自信が受け入れられていないからに他ならない。
 ――――きらい、じゃないのだ、彼を。

「君がいる世界が好きだよ。知っていてね」

 やけにすっきりと不破は言い切ると大きく伸びをした。灯る街灯に何重にもなる影。
 二越は呆然と立ち尽くした。本当に驚くと言葉も出なければ瞬きも出来やしない。
 風が冷たくなってきた。髪を攫うそれは、まるで不破に向かって吹いている様だった。
 不破が目を細めて深く深く呼吸する。それを見た時、彼も自分と同じようにここに来るまで呼吸が上手く出来なかったのではないか、と思った。ささやかだけど、決して弱いわけではない、その言葉。その羅列。それを伝えるために心臓を酷使したのではないかと。

「塔児、」
「……ん?」
「行かない?」
「…ん」

 そして、二人並んで歩き出した。付かず離れず、変わらない、影すら重ならない、丁度良い距離で。端から見たら、ぶらぶらと散歩する友人同士に見えただろう。
 じっとり汗をかきながら、再びの不測の事態に困惑して動悸を早めた二越は改めて不破を見た。
 『ん?』という顔をしてこちらを見るその顔は全く普通なのに、今はあの言葉もないのに、間違いなく彼は自分を好きなのだと感じられた。それは直感だった。
 二越は愕然とした。巻き込まれた、とはもう言えないだろう。

 二越邸に到着すると、暗い玄関でまず家主が靴を脱ぎ、八畳間の電気を点けにいく。不破はそれを待ってから扉を閉め、鍵の有無を聞いて施錠をした。靴を脱ぐと、窓を開ける二越の背中に不破が笑いかけた。

「煙草、吸ってるんだね。」

 ぎくり、と網戸を引いた二越が肩を揺らすのを不破は見遣りながら足元の灰皿を見つめた。

「違うんだよ、不破くん、ほら、人間様々イライラするとだね」
「ひぃふぅみぃよ」
「ちょ、不破ぁ!」
「四回。」
「よん…」
「四回はキスできるよ。 君が愚かなことがよく分かった。――――僕が口先だけの人間ではないと、教えてあげるよ。」

 昏く笑い不破は綺麗に口端を吊り上げて見せる。目の据わったその顔は二越には般若の面に見えてならなかった。

「それに――――雷蔵、だよ。塔児」

「…ら…、いぞう…サン」

 名前を、呼ぶ。ただ、たったそれだけなのに、身体のどこか、もしかしたら心と言われる場所かもしれないそこが、微かに甘い音をたてた気がした。


 →


- ナノ -