珍しく、それはもう珍しく、不破が鉢屋の家を訪ねたのは、新緑が目に眩しい季節の日曜日だった。
 前日の土曜深夜、改まった様なメールが鉢屋の携帯を揺らした。いつぶりか分からない不破からのコンタクト。思えば高校までは毎日その寝起きを手伝い、通学だって二人でした。鉢屋にとって不破はもう家族を越えた何か―――言ってしまえば血縁以上恋人未満。それを真面目な顔で不破に伝えると、彼は眉間に今まで見たこともないくらいの皺を深く深く刻んで嫌悪感を顕にしたものだ。
 『いい思い出だ。』そう言いきれるから鉢屋はすごい、と、この話を聞かされる友人達は口を揃える。

 さて、久しぶりに会える自らの片割れを思って、みっともなくも満足な睡眠を得られなかった鉢屋は、不破を出迎えた時まだパジャマ姿だった。大学生にもなってパジャマをビッと着こなす鉢屋はやっぱり育ちがいいんだなぁ、と、従兄弟ながら庶民気質の不破は思った。
 鉢屋の住まいは大学から徒歩十分のオートロックのマンションだ。一人で住んでいるくせに部屋が二つある。キッチンは対面型だし、風呂とトイレは別々に配置されている。何もかも、不破の良く知る二越とは違っていた。
 不破をリビングに通し少し待たせると、パジャマからモノトーンの普段着に着替えた鉢屋がキッチンに入った。

「コーヒーと紅茶と、…そういや緑茶もあったな。何がいい?」

 洒落たケトル薬缶を火にかけながらソファの不破に声をかける。
 アイボリーのソファは適度に固く、フローリングは鉢屋の神経質な性格を映した様に美しい。けれどそれは大事に部屋を使っている、というよりは、テリトリーを守っているに近い。

「なんでもいいよ。長居するつもりはないから」

「なんで!」

「用件だけだから?」

「聞くなよ!」

 玄関に当たり前にあったスリッパだってきっとブランド物なのだろう。深い柿色が色のあまりない部屋に映えている。
 何もかもお洒落で美しい。バランスのとれた、それこそ雑誌からそのまま飛び出してきた様な部屋。きっと女子はこんな部屋に憧れ、住みたいと思い、住んでいる人間に好感を持つのだろう。

 けど、―――――僕はこんな生活感の無い家は落ち着かない。

 不破は、住んでもいないくせにある部屋を思う。
 玄関を開けばい草の香りのする、何もかもにすぐ手の届いてしまう狭い部屋。たまに隣の住人の笑い声が聞こえてきて、エアコンの利きも悪い、けれど、触れたくなったらすでに側に二越がいるあの部屋。
 目立ったいいところはないけれど、不破からしたら悪いところもない。はらはらと、二越への愛しさが積もる部屋。
 思い出したら、じんわり行きたくなってきてしまった。急に行くと言ったら、彼は何ていうだろう?バイトだろうか?まだ寝ている?だったら部屋の前で待つべきか、違う場所で待つべきか。

「らいぞー、おーい。雷蔵さん、おーい、俺を置いていくなー」

 お茶を準備しリビングへ目をやる。急に静かになったと思っていたら、不破は大人しく悩んでいた。鉢屋の与り知らないところを悩んでいるのがなんとも言葉にならない。
 それぞれ別々の大学に進み、たった数ヵ月。その些細な数字だけで不破は鉢屋の知らない人間になってしまったように見えたし、現になってしまった。
 全てを知った気になっていた。いや、知っていたのだ、つい最近まで。それが自己満足だと分かっていたけれど、現実を突きつけられると只々悔しくなった。鉢屋は空白のすべてを知りたくなった。それぐらい、許されると思った。

「ねぇ三郎、家と駅前、どっちかな?」
「なにが?」
「いやだから、家と駅前。…んー…やっぱ家かなぁ…」
「だからなにが?」
「あ、そうだ、僕好きな人がいるんだ。」
「え、いきなり? 、ちょ、あ、え?え?好きって、好きって、」
「男の子…なんだけど…」
「はっ!?ちょ、雷蔵、雷蔵はどっちなんだ!?」
「僕?突っ込みたい」
「そんなの聞きたくなかった!」
「あ、そうだ。そう、だから今日は三郎の所へ来たんだよ。」
「意味が分からない」
「どうしたら気持ちって伝わると思う?」
「精神論かよ。」

 盆からリビングテーブルにカップを置く鉢屋の手が小さく震える。その震えを感じ取って中の液体がふるりと揺れた。
 この不破はやはり鉢屋の知る不破ではなかった。
 鉢屋の知る不破はこんな風に明け透けに誰かを好きだなんて言わなかった。大切に大切に心で種を育てて、それはもう綺麗な花を咲かせる。伝えることも儘ならない思いをその表情に滲ませては、誰にも気づかれまいと笑う姿を見て、鉢屋は誓ったのだ。不破には誰よりも幸せな恋愛をしてもらうのだと。その為だったら自分は何でもしようと。
 一種、鉢屋は不破の恋愛の仕方に憧れていたのだ。鉢屋はどちらかと言うと相手に流されるままに奔放な付き合いをしてきた。所詮人間なんてサルなのだから、心の繋がりより身体の繋がりの方が強いと思った時期もあった。肉体が伝える分かりやすい温もりを愛だと思ったりして、悟ったふりをしたりした。
 そんな鉢屋の嘯きを聞いて、不破はただ困ったように笑っていた。そうして必ず言った。『心の繋がりも、悪いもんじゃないと思うよ』と。言葉は徐々に染みて、鉢屋は不破の恋愛に輝きを見出だした。純粋であればあるほど、鉢屋の心に染みた。
 それがどうしたこのザマだ。

「……雷蔵、サン」
「ん?」
「いや、大変聞きづらいんですが」
「じゃ聞かなきゃいいじゃない」
「そうも言ってられんだろ。」
「じゃぁ、どうぞ。」
「あのー……ま、なんだ、その…何で、急に、好きとか、…突っ込みたいとか、…言うように、なってしまった?」
「………だめ?」
「いや!駄目くはない! 雷蔵の恋愛なんだし、‥俺はいいと思うよ。でも、なんで?って思うんだ。―――何かあったか?」

 フローリングに腰を下ろした鉢屋は、ソファの不破を見上げる。その視線を受けて、不破は困ったように笑った。カップの紅茶はもう湯気を立ててはいない。持ち手ももう然程熱くはないだろう。この空気も何もかも壊れてしまわないように、鉢屋はそっとそれを持ち上げ口唇へ近づけた。
 この家に来てから、不破は落ち着かないという雰囲気を言外に匂わせていた。自分が客だということを意識し、ここで落ち着こうとする素振りも見せなかった。従兄弟同士なのに、鉢屋はそれが悲しい。もう兄弟のような二人なのに、不破のことを知っているけれど、知らないことが、ずっと悔しくて、悲しい。

「キスを、したんだ。」
「きっ…、ま…まぁ、うん、続けて」
「彼、煙草吸うんだ、身体が悪いくせに。許せなかった。人間身体は一つだろう?だったら僕にくれてもいいのにって思った。」
「だからキス?」
「口寂しいならと思って」
「ふぅん」
「でも、僕の気持ちは伝わらない」
「そら、煙草の代用ならな」
「だから、三郎なら知ってると思って聞きに来たんだ。 ねぇ、僕は何が駄目なのだろう?」
「何がって……」
「だって、三郎は僕のこと何でも知ってるじゃないか。」

 そう言う不破の瞳は、母親は何でも疑問に答えられると信じて疑わない子供のように真っ直ぐだった。
 繋がる視線をほどき、鉢屋はフローリングを見つめた。住み慣れた、自分の家。
 答えが、ないわけではない。
 でも今は、以前のように力強く何もかもを諭してやるべき場面ではない。
 相手が男だからとかそういうのではなくて、目の前の不破が蛹から蝶へ羽化する時が今なのだと気づいたからなのかもしれない。
 手助けしてしまったら、不破は恋愛の局面で必ず鉢屋の元を訪れるだろう。不破の恋愛の為に何でもするつもりではあるが、それは今ではないのだ。気持ちの踏ん切りなど、自分でつけなければそんなのお人形遊びと一緒だ。

「相手はどうなんだ?」
「相手? 塔児は、普通」

 不破を奪った憎き野郎は『塔児』という名らしい。鉢屋は再び口を付けたカップの縁を軽く噛んだ。

「普通って、脈ナシ?」
「だから三郎に聞きに来たんだよ。」
「話を整理するが、雷蔵は、その塔児とやらが好きなんだな?」

 すると不破は、きょとんとした後、ぶわりと赤くなった。色の白い不破の頬のみならず、首筋までを朱に染めたその様にカップ片手に鉢屋は目を白黒させてから一瞬ブラックアウトした。
 がちゃん、とカップを無意識にテーブルに置いた音で鉢屋は戻ってきた。割れていないらしいのは感触で分かった。

「す、す…、好き、とか、好きと嫌いで言うならそりゃ、す、…すき、だし、いやでも、」
「あー、わかったわかった」

 左手で額を押さえつつも、先程の落胆が救われた気持ちがした。この不破を鉢屋はよく知っている。青少年だった鉢屋が憧れて、羨んだ不破だ。時間という厚紙を剥ぎ、日常という薄紙をそっと開いた中には『いつもの』不破雷蔵がいた。
 苦笑いに見えるだろう鉢屋の顔は、嬉しくても素直に笑えない兄弟の顔で。それを見て不破は焦ったように言い募る。

「す、好きとかなら、好きだよ。ででも、…そんなこと、大きな声じゃ言えないよ…」

 突っ込みたいだの何だの、照れ隠しに言葉が先走るなんてよくあることだ。鉢屋はまたカップを持ち上げた。中身はもう完全に冷たい。不破の前に置かれたそれは一切口を付けられていない。新しいものに入れ換えよう。
 鉢屋が不破のカップを取ろうとすると

「あ、待って!冷えるの待ってたんだ。それに、せっかく三郎が淹れてくれたものだしね」

 何てことない様に言って笑うと、冷めた紅茶をぐいと煽った。

「雷蔵」
「ん?」
「好きなんだな」
「……うん、好き、だなぁ」
「気持ちを伝えるにはって、言ったろ?」
「うん」
「駄目なら駄目で諦めるという結果を踏まえた上で、有利に運ぶ様に今を考えろ」
「今?」
「お前のことだ。相手に好きだとも言ってないんだろ?人間最初は言葉を欲しがる。それに、嫌と思わぬ人に寄せられる好意は決して悪い気はしない。お前は今ここだ。素直に好きと言い続けろ。相手を絆せ。長期戦を覚悟しろ。」

 そう言う鉢屋は真面目な顔をしていた。不破は恋愛に関しては初心者に近い。恋かな?と思う頃には終わっていたり、自覚してもどうしても身動きできなかったり、不甲斐ない結果しか残してこれなかった。そのどの局面であっても鉢屋は不破を励まし、気分転換に連れ出し、相談にもならない胸の内を聞いてくれた。
 こうして、いつも不破の投げる魔球みたいなボールを正しく受け取って、グローブのど真ん中へ投げ返してくれるのは鉢屋だった。

「…わかった、三郎の事を信じるよ。」
「にしたって、これは対女子だからな。俺は男の経験など無い」
「僕だって無いよ。 全部塔児が初めてなんだ。」
「…………なんで…、そんなに、その、塔児がいいんだよ」
「うーん…なんでかなぁ?身長もあんまり変わらないし、性格も普通だし、優しい、も普通か…うーん…どこなんだろう?僕、塔児の何が好きなんだろうね?」
「そんな曖昧で好きなのかよ」
「うん。気づいちゃったんだ。今度は本人がいるうちに。―――彼と見る何の変わりもない町とか、狭くて居心地の良い部屋とか、柔らかい会話とか、…彼のいる世界が、僕は途方もなく好きだって」

 そう話す不破はもう顔を赤らめたりしなかった。腹が据わったのだろう。鉢屋は今度こそ紅茶のおかわりを淹れる為に立ち上がる。そういえばお茶請けにスコーンがあったはずだ。
 今なら、不破は食べていってくれるだろう。

「なぁ雷蔵」

 お湯を沸かし直しながら、不破に声をかけた。持ってきたカップを軽く水でゆすぐ。

「なんだい?」

「どんな奴なんだ?塔児って」

「え、なに急に」

「情報もなく任務は達成出来まい」

「任務って…。まぁ、普通の子」

「…ふぅん」

「お前、ウチの大学に来るんじゃないよ? もし塔児に何かしてごらん、三郎の毛という毛を毟ってやるからな」

「こわいこわい」

 和音でケトルが鳴く。スコーンは、温めてから出すことにしよう。


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