みるみる起伏の減っていくみょうじの顔に黒門は目を見開く。
 無表情というには言葉が足りないような、まだ他に表情があるようなもどかしい顔をしたみょうじは、静かに口唇を真一文字に閉ざしてしまった。
 黒門は何かまだ文句の一つも飛ぶかと身構える。起死回生の言葉だった。けれど、反論など一文字として飛んでこなかった。呼吸すら呑み込んでしまったようだ。
 ―――やってしまった。
 咄嗟に黒門は思った。起死回生の呪文は、同時に一撃必殺の鋭利な凶器だったのだ。

「みょうじ…」

 自らが友達と認めているから相手も認めてくれる。それはあくまで黒門の希望なのであり、双方向通じる認識ではないのだと近頃霧を掴むように理解し始めた。
 だから、みょうじに吐いたあの言葉を黒門は悔いていたし、取り消したいとも思っていた。恥ずかしい、幼い思い上がり。あんなもの、己れが可愛いと言っているようなものだ。
 なのに、なのに高まった感情が、未だ自らが納得しきれていなかった部分に同調して口走ってしまった。時折、未熟な納得を嘲笑い、波のように寄ってくる不満が、いま、破裂してしまった。
 黒門の胸にじんわり黒い染みが広がる。視線が、自ずと下がる。足元の雑草は鮮やかな黄緑色をしている。風はない。嫌な時間だ。

「………」

 ほら、みょうじは何も言わない。
 そんな事も納得できないのかと心で僕を馬鹿にしている。

「……黒門、は…」
「なにっ?」
「………言葉がないと僕と友達になってくれないの……?」

 黒門が弾かれるようにして上げた顔の先、みょうじの口の中、籠った声がした。
 黒門の神経が耳に集中していく。微風がうるさい。身体の回りを取り巻く湿気すらうるさく感じる。

「ぼ、僕は、黒門は黒門なんだ、黒門は今福じゃない、今福は上ノ島じゃない、黒門は黒門で…、と、友達なんて言葉いらないんだ…なのに、黒門は」
 ぽつりぽつりと話すみょうじは、今までが嘘みたいに子供のように話をする。多分、本来はこうなのだろう。
 ただ、何事も無駄を厭う彼の性格がそれを許さないのだろう。また、幼い自分を理解されないという、彼だけが感じている理不尽が降りかからない為の処世術なのだろう。
「みょうじ…」
「僕は友達なんて言葉いらない!みんながみんなならいい!!」
「でも、友達って括りはいるだろ?心を許し会うとか、い、いつも一緒にご飯を食べるとか、べ、勉強だって」
「友達じゃなくたって出来るじゃないか!!そんな言葉、僕はいらない!」
「いるよ!言葉がなきゃ一緒にいられない!!」
「いらないよっ!」
「いる!」
「なくたって僕ら一緒に過ごしてるっこれはなんでなの!?」
「それ、…は…」
「ほら、いらないじゃないか」
 畳み掛けたみょうじは、でも普段のようににたりと笑ったりはしなかった。柔らかそうな下唇を噛み、耳殻を赤く滲ませて、ぐっと何かを耐えている。
 黒門は一生懸命考えた。何か、みょうじに相応しい言葉をかけてやりたかった。それが、黒門の思う友達の本分であると思ったからだ。

「……言葉は、…確かにいらないかもしれない。」
「ほら!!」
「でも、」
「…なにさ」
「…あると…、…ぼくらはもっと繋がっていけると思う。 形で見えない、ものだから。」

 黒門は言葉というを確約を欲しがる。
 みょうじは言葉というものを流れる無と捉える。
 二人は始めから平行線なのだ。

「……つ…なが、る?…なにもないのに…?」
 みょうじは呟く。か細く震える声は暗闇の中、小さな光の糸を見つけるように弱々しい。
 ず、という水音がして、さらに音がしそうなくらいみょうじが瞬きを繰り返す。黒い睫毛が扇のように揺れるのを黒門はじっと見ていた。
「うん。…言葉が、『ある』、だろう?」
 そうして、言い聞かせるように、みょうじがこれ以上離れていかないように、黒門は言葉を並べて見せる。
 伝わるだろうか?当たり前のことほど言葉にするのが難しいと今知った。黒門の喉の奥が痛くなる。もどかしい気持ちを叫び回って、こんな気持ちにさせたみょうじを詰りたいくらいだった。
 どうして分かってくれない、一方的な黒門の気持ちがまた波のように寄せてくる。じわりと、眼球が潤った。

 そうして、二人して水分の多い視線を交わしあい、目を逸らす。

 それから、

「そんなの詭弁だ」
「なっ! だけどっ、伝わるのは『ある』からだ。い組のくせにこんなことも分からないのかよっ」
「い組とか関係ないだろ」
「あるさ。みんな知ってる。だから言わなくても分かってる」
「ほら」
「なんだよ」
「『言わなくても分かってる』って言った」
「それは知ってるからだろ。知識としてあるんだよ。揚げ足しか取れないなんて、愚かな奴だ」
「なにを!?」

 みょうじは頑として動かなかった木の上から飛び降りると、迷いなく一直線に黒門まで走る。それを黒門は腕を組み、不遜に顎を反らして待ち受けた。
 飛びかかる勢いで近づいたみょうじが黒門に食って掛かるように口を開いた。

「友達なんぞと言わなくてもっ、黒門は僕といるんだろっ?」

 再び目を見開いた黒門は、物凄い勢いで返答の言葉を浮かべては弾き飛ばす。
 それって、つまりみょうじは『友達』という言葉はなくともぼくと『友達』のような関係を築いていくことを良しとしたということで、だから、ならば、ぼくは―――

「いるけれど、それはつまり恋人だからな!」

 瞬間、みょうじは両目蓋をぱちりとやると、きょとんとして、ことんと首をかしげたが、ん、と言って頷いた。

「よし。」

 偉そうな態度の黒門は大満足だった。
 これでみょうじは友達になった。
 積年の心の靄が晴れていくのが手に取るように分かった。心の臓の辺りがすっきり透明だ。

「ねぇ黒門」
「なにさ」
「友達と恋人は同じ意味なんだねぇ」
「は?何言ってるんだ。別だよ、そんなもの、」
「けれど、いま黒門は、僕を恋人と言ったよ。」
「は?」

 は?

「ん?」
「はあああああああっ!?」
「あれ?」

 違う、いや、友達だけれど、それは、なんというか、いや、嫌いではないんだ、友達ならば好きだけれど、恋人というには、いうにはまだ段階が、だってぼくらはまだ一年生なわけだし、そ、そりゃみょうじのことは好きだよ、好きだけれど、今はまだ早いと言うか、い、いずれは恋人、いやいや、そもそもぼくらは男同士で、でも好きだし、そう、好きなんだけど、だけど

「ねぇ、黒門、」

 口を開けたり閉じたりと混乱する黒門をからかうようにみょうじはにたりと笑って呼び掛ける。呼ばずとも分かるくらい、こんなに近くにいるのに。

「黒門伝七、―――好きだよ」

 不思議な、どこか身体の芯をくすぐる音階に、黒門は一気に青ざめ、もう遅いけれど自らの耳を両手で塞いでから、思うがままもどかしい気持ちを叫んだ。

「ぼっ、ぼくもだ馬鹿野郎っ!!」

 雲厚いある日の午後。
 言葉は双方向の矢印として向き合った。


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