「………ぁ…」

 初めてみょうじなまえを見たとき、黒門は漠然と近くにほしいと思った。
 同じ一年い組のみょうじは黒門自身から声をかけるに相応しい見目をしていたし、表情をしていたし、空気を持っていた。
 身長は平均的十歳児で、身体も中肉中背、ただ、色白の細面に結って肩にかかる真黒な髪、左右均等な位置にある瞳はしっかりとした二重目蓋をして、小造ではあるが線を引いたように美しい鼻筋と、その下の唇は上品にぽってりとまろい。ものすごく、という形容詞はつかないが、ぱっと見は美人という程度。正直みょうじより美人に見える同級生は他にいる。
 黒門が彼に対して執着をもったのは最初は顔だったのかもしれないが、会話を交わしていくにつれてその『中身』に参ってしまった。
 みょうじは見た目に反してとても冗談が好きで、口調は少々軽薄、あまり真面目なことは言わなかった。けれど、勉強はきちんとし、実技も真面目に取り組み、戦場見学では誰よりも無表情に命のやり取りを見つめていた。怖い、と誰かと手を取り合うこともなければ、そこから目を離すこともなかった。
 理不尽なことと面倒くさいことが嫌いで、出来るだけ合理的に生きていきたいと特定の友人はなく、声をかけた黒門でさえ彼に友人と認められているか怪しかった。以前、不毛とは分からず黒門は聞いた。
「みょうじ」
「なんだい黒門」
「ぼくはお前を友達と認めているけれど、みょうじ…お前は、どうだ?」
 真面目くさった声と顔を見れば、大抵の人間はその雰囲気に呑まれて堅くなる。黒門は真剣に聞いていたし、普段のみょうじがどうであろうと、まともと思われる回答だけを求めていた。い組である彼は、い組であるならば、自らと同等のものが備わっているのが当たり前だと思っていた。
 けれどみょうじは狐の面のように目を細め、にたりと薄赤い口端を持ち上げる。黒門は急に見せられた笑顔を額面通り『好意』と受け取った。
「僕は黒門は黒門だと思っているよ。」
「は?」
「友達や友人は括りがよろしくない。団子だって玉は三つだろ?全く分けきれない」
「っ!、いずれは集団で暮らすことばかりになるんだぞ!いいじゃないか、友達くらいいたって。 それに、寂しくないか?一人きりなんて」
「寂しくないから僕は黒門を黒門だと言ってるんだよ」
「頭の悪いやつだな!一人で暮らしていたって本当は一人なんかじゃないんだ!」
「一人じゃないことと、友達とでは話が別だ。あはは、黒門、おかしなことはこれきりにしろよ」
 そう笑い混じりに返したみょうじの、能面のように貼り付いていた笑顔の真ん中、三日月の形にくり貫かれた目玉が笑っていなかった。持論を中々理解しない黒門に苛々したのだろう。最後には一方的に拒否をして会話を終わらせてしまった。
 黒門は、やっぱりにたりと笑い続けるみょうじに奥歯をぎりと噛み締めた。

 新緑も過ぎ、青空よりも曇り空が目につくようになったある湿気の増した放課後、黒門は教室で今福や上ノ島達と額をくっ付けてちょっとした予習に励んでいた。最初はそれぞれ自室に持ち帰ろうとしていたのだが、今福がこの問題だけ自信がない、と言ったのを皮切りに上ノ島もあれがちょっと、などと声をあげたので、面倒くさいからここでやってしまおうとなったのだ。
 風の通り抜けない教室はとても蒸す。三人は鼻の頭に小さな汗の粒を浮かべ、暑さで頬を赤くしながら教科書に向き合っている。井桁の制服は、脇の下だとか膝裏だとかがじっとり湿り、首元はべたついた。時折外から一年は組の何人かが喚声を上げて駆け回るのが聞こえたが、い組の三人はそれを三人で鼻で笑った。

「ねぇ伝七」
「なんだ?」
「六方手裏剣と四方手裏剣だと、毒を塗るのは六方手裏剣じゃない?なんでだったかな?」
「…はぁ、だから彦四郎は頼りないんだよ。こんなの基本中の基本じゃないか」
「ご、ごめん…」
「いいか、威力なら四方手裏剣のほうが強いけれど、角が少ないから命中率は低い。一撃必殺を狙うなら、当たる確率の高い六方手裏剣を使い、尚且つ毒を塗ることで威力の弱さを補う。そういうことさ」
「そっか、そうだったな」
「まったく…」

 言外に、困ったやつだと今福を見つめてから、教科書に向き直り自らの予習を再開したその時、教室の入り口から黒門を呼ぶ声がした。その主など顔を見ずとも分かる。みょうじである。大して声も張らず呼ぶ気があるのかというくらい間の抜けた声だ。
 黒門はもちろん聞こえていた。忍びはどんな音も聞き漏らしてはいけない。その音は合戦を始める合図かもしれないし、仲間内の暗号かもしれない。はたまたとても内密な事情かもしれない。耳から入る何が役に立つか分からないから、音は逃がしてはいけないのだ。
 目から入る情報より、耳から入るもののほうが有意義だ。視線は時として遮られる。今のように、名前を呼ぶみょうじを見てみぬ振りをしている時など特に。
 それを知ってか知らずか、再びみょうじは少しだけはっきりと黒門を呼んだ。けれど黒門は無視した。
 普段から音に敏感で、呼ばれればすぐに返事をする黒門が返事をしなかったのに大した理由はない。ただ、自分のことを一生懸命呼ぶみょうじの声が聞きたかった。普段自分を求めない人間に勿体ぶって、必要とされている優越感に浸りたかった、そんな小さな傲慢だった。
 三度目、『黒門』とみょうじがはっきりと呼び掛ける。
 もういい頃か、そう思い殊更ゆっくり顔を上げると今福と上ノ島が怪訝そうな顔をしていた。その意味が分からないまま、黒門は『今気づきました』という体で入り口を見た。

 そこには誰もいなかった。

「……、」
「伝七、なんで無視したんだ」
 そう今福が眉を寄せて黒門を責める。
「は?無視なんてしてないさ。聞こえなかったんだ」
 心外だ、という風に口を尖らせながら黒門は答える。けれど、やはり回りからみてもそう見えてしまっていたか、これは力量が足りなかったな、と心で一人ごちながら。
「みょうじが人を呼ぶなんてあまりないのに…伝七は耳いいじゃないか。もしかして、みょうじが嫌いなの?」
 上ノ島は顔を歪め、心配そうに声を掛けてくる。
「別に嫌いじゃないさ。…別に、本当に聞こえなかったんだよ」
 言い訳に言い訳を塗り重ね、だんだんと心が重たくなってきた。
 みょうじは確かに人を呼ばない。必要なければ黙々と一人で全てをこなすし、どうしてもの時は側によって肩を叩く。合理的な彼が遠くから人を呼ぶのは、それ以外方法がないときのみだ。
 今福と上ノ島はそれをきちんと理解していて黒門を責めたのだ。もちろん、その中には『普段の伝七らしくないよ』という非難も込められている。
 黒門は更に言い募ろうとしてやめた。急に、それはもう唐突に、こんなことをして、みょうじが自分を切り捨てるのではないかという不安にかられたのだ。
 遠くからみょうじは黒門を呼んだ。きっと何か用があったのだ。近づいて肩を叩かない理由があったのだ。必要なときに使えないものを彼は持ち続けるだろうか?
 答えは否、だろう。
「……しょうがないな、いってくるよ!」
 勢いよく立ち上がると、黒門は誰のことも振り返らず教室を弾丸のように飛び出していった。

 足音を響かせて学舎を駆け、気になる場所を思い付く限り覗いて回り、黒門は額を伝う汗すら拭わない。早くなる脈は鼓膜の内でどんどんと音をたて、暑さで呼吸は圧迫されるばかりだ。纏わりつくような湿気は体温が上がることで増し、ねばねばとした空間をもがくことは嫌悪以外の何ものでもない。
 走って走って走って、無心に足を動かして、不意に考えるのはみょうじのことばかりだった。
 黒門はみょうじのことが気に入っている。い組らしい優秀さもそうだし、性格も嫌いではない。人と距離を置くくせに、それを感じさせない親しみやすさもきちんと持っている。
 回りの人間はその距離を知っても寂しいとは思わないようで、それがみょうじ、とすんなり受け入れる。けれど黒門は違った。根が真面目な彼はその距離がもどかしかった。自らが友達と認めたのだからみょうじからもそう思ってほしかった。一分一厘の隙間すらあるのが嫌だった。
 みょうじが心を許すなら、それは自分でなければ嫌だ。だからさっき無視をした。呼ばれることは、必要だからで。その、くすぐったい、甘い、みょうじがくれるきもちが。

「くそっ…」

 感覚の短くなる呼吸。拍動がそのまま心の臓を締め付ける。―――みょうじ、お前は今どこにいる?ぼくには分からない。だからぼくはお前の友達になれないのだろうか。
 通り越す様々。追い抜く誰々。振り返る人々。走り抜ける諸々。こんなにしてもみょうじはいなくて、どこに行っても会えない気がして、次第に黒門の踏み出す一歩の早さが緩まる。完全に立ち止まると、学舎は遥か彼方。学園敷地内の東端、外塀に沿って目隠しのように繁る小さな木立まで辿り着いていた。外へ駆け出たあたりから、闇雲に走っていたけれど、案外遠くへ来たものだ。
 両膝に両手を付いて、荒くなった呼吸を整えようと深呼吸した。四回、大きく息を吸い込み吐き出すと、心の臓は落ち着いて穏やかにとくんと鳴り始めた。そうしてから黒門は上体を起こし、久しぶりに声を出した。

「……みょうじ、」

 小さく、か細く、誰にも聞こえないように。
 だって恥ずかしいではないか。あれだけ走り回っているのを色んな人に見られて、最後に呼ぶのが彼の名だ。黒門が誰を必死に探していたかばれてしまう。それは黒門の自尊心が許さない。

「呼ばれたならばお答えしましょう、僕がみょうじなまえ」

 風の音に乗るように滑らかに流れてきた声は、黒門が汗だくになって探していた音で。聞き間違えるはずがない。
 声は黒門の左後方、程々に育った楠の木から聞こえてきた。呆然とした黒門が何も言えないでいると、がさり、と音をたて、みょうじは青く繁る葉の間から顔を出して見せた。

「僕を探していたな」
「な、なにを寝惚けた」
「全部見ていたよ」

 そうしてまた、あの狐の面のようににたりと笑う顔だ。癖なのか何なのか、みょうじはよくこの顔をする。皆からしたら『笑顔』なのかもしれないが、黒門からすればこれは『仮面』だ。笑った顔などではない。これがきっとみょうじの引く線なのだ。

「降りてこい」
「やなこった」
「降りてこい!ぼくはお前に話がある」
「僕はないよ。だって、黒門は呼んだって来なかったじゃないか」
「…っ、それは……悪かったと思っているよ…」
 みょうじから視線を足元に向け、黒門は歯切れ悪く謝罪をした。元来謝罪が上手く口唇から零れたためしのない黒門だ。どんな顔をしたらいいのか分からなかった。
「黒門は嘘つきだ」
「なんだと!」
「友達なんぞと言うくせに、僕が呼んでも来やしない。聞こえてたんだろ?僕の声」
「………」
「口だけならばいくらでも言えるとはこのことだな」
 みょうじの言葉は黒門の中の真綿のように柔らかい部分を噛み切った。千切れたそこからは赤黒い血がどくどくと漏れていく。みょうじは相変わらず飄々と言葉を紡ぐが、黒門は眉間による皺がどんどん深くなっていく。けれど、この話の流れ、黒門だって言い分はある。

「だっ、だから今謝ったじゃないか!そもそもお前はぼくを友達と思っていないんだろっ?」

 瞬間、空気がぴしりと冷たくなる。
 小さく呼吸が乱れたみょうじの表情から狐の面が剥がれ落ちる音がした。


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