【同人誌サンプル】スクランブル フロム アイコンダクト 1/2



<サンプル1>

 剥き出しの鉄の骨が支える壁に囲まれた薄暗い空間に、くぐもった音楽が流れている。数人は足音を潜めながら駆け回り、数人は腕を組んでモニターを見つめている。
 その中で、左右で髪質が異なるという個性的な見た目をした青年が、流れ続ける音源に最も近い場所――ステージと舞台袖を繋ぐ扉の際で、目を閉じじっと佇んでいた。
 彼の名は神峰翔太。指揮者を目指す若い青年だ。学生指揮者として、鳴苑高校吹奏楽部を全国大会金賞に導いた輝かしい実績を持つ――が、それも過去のものに過ぎない。
 今の神峰は、ステージの上に立つことすらできない。文字通り壁の外で、漏れ聞こえる音に耳を傾けるだけだった。
(……師匠の演奏、やっぱスゲェよな)
 閉じた『目』でも分かる、圧倒的な色彩感。曲に込められた作曲者の世界観を崩さずに、しかしプロ集団の奏者の思いを取り入れた上で、なおかつ指揮者による解釈で曲の可能性が広がるような音楽を見せる。完璧な演奏だ。もし自分が観客なら、目の前で繰り広げられる心揺さぶるような音と景色に、涙すら流してしまったかもしれない。
 だが、今はそれすら許されない。今日の神峰は、今まさにステージに立っている指揮者の弟子として、演奏会の手伝いに来ているのだった。
(……どうして)
 あそこに立っているのは、自分ではないのだろう。いや自分がそこに立ったからと言って、師匠のような心揺さぶるような演奏は果たしてできるのだろうか。
 たまらなくなって目を開くと、空っぽの右手が目に入る。今の自分は、何の力もない。かつて大嵐を潜り抜けた自分は、いったいどこに行ってしまったのだろうか。
 じきに演奏は終了し、扉の向こうが万雷の拍手に満たされた。こうなったらぼうっとしているわけにはいかない、次の予定の支度をしなければ。
 にわかに慌ただしくなる舞台袖を通り抜け、神峰はひとり控え室まで取って返すのだった。

「だはァー……」
 ようやく日程のすべてが終わり、タクシーに乗り込んだ神峰は座席に腰を落ち着けた瞬間に大きなため息をついた。そこへ、隣から落ち着いた声がかかる。
「お疲れ様、翔太」
「うおっ、すみませんっ!」
 神峰は慌てて背筋を伸ばした。そうだ、彼を自宅に送り届けるまで、神峰の仕事は終わらないのだ。そんな律儀な弟子の様子に、師匠たるかの指揮者はくく、と喉の奥で笑った。
「もうそんなに気を張る必要はないよ。ここには私たち二人しかいないんだからね」
「……イヤ、そんな訳には……お疲れなのは師匠の方ですし」
 神峰の語尾が小さくなる。すると師匠は再び苦笑する。
「ずいぶん殊勝になったものだね。初めの頃なんて、早くこんな指揮者のところからは出ていきたいと言わんばかりの顔をしていたのに」
「はっ!? ンな事ねっスけど!?」
「はは、冗談だ。とりあえず、もう少し力は抜いていいからね。そんなに固い調子でいられると私も気が休まらない」
「は、はい……」
 彼の胸のあたりに浮かぶ、よしよし、と言わんばかりの心象に神峰はますます居た堪れなくなった。ふう、と息をついて、師匠の言う通り体の力を抜いて、シートの背に深くもたれかかる。ちらりと師匠の方に視線を向けると、彼は皺の出来た頬に微笑を湛えながら、深夜に沈んだ街の景色を眺めていた。

 神峰が師匠と呼ぶこの指揮者には、神峰が音楽大学から卒業する間際のタイミングで、あの偉大なる指揮者伊調剛健からの紹介で弟子入りさせてもらった。剛健よりは十か二十ほど下で、髪は揃っているが白髪の方が多い。指揮者としてはずいぶん前から成熟期に達しており、もちろん、日本のクラシック界ではかなり有名だ。
 伊調剛健という大きなコネがなければ、彼と出会うことはなかっただろう。もっとも、師匠は神峰が音大で振っていたオーケストラの演奏を見て神峰を気に入った、という話を一応聞いてはいるのだが。
(オレがこの人の弟子になれたのは、やっぱりスゲェラッキーなんだよな)
 指揮者がタクト一本で社会に出ていくのは並大抵のことではない。当然、なんの実績もない、雛鳥も同然の指揮者を雇ってくれるプロのオーケストラなんてあるはずがないからだ。だから、名のある指揮者の仕事を手伝いながら音楽を学び、アマチュアの音楽団体で指揮を振って実績を作っていく、という心もとないやり方が、指揮者のキャリア形成としてはスタンダードとなっている。その道になんとか進むことができたのは、波瀾だらけの神峰の『未来』の中では実に幸運だったと言えるだろう。
 師匠はこの破天荒な――相変わらず観客の方を向いてタクトを振ったり、ひどく抽象的で明後日な方向に具体的な指示をしたりする――神峰のことを可愛がってくれていて、師事してからの五年間でずいぶんいろいろなことを教えてくれた。
 とはいえ。
 ――本当にこのままこの人の下でいていいのだろうか。その疑問は、弟子入りした当初からずっと神峰の中にあった。
 師匠は確かに腕のある指揮者だ。神峰にはできない技術をたくさん持っていて、奏者たちからの信頼も厚い。若い頃は海外の演奏会に呼ばれた実績もある。だが、『それだけ』なのだ。神峰の目指す『未来』へ進むための力としては、もう少し何かが足りない。そんな気がしてならないのだった。

 師匠は相変わらず窓の外をじっと見ている。それをいいことに、神峰はスマートフォンを取り出した。ブラウザを立ち上げて、何の気なしにニュースを指で辿る。その中に。
「あ」
 小さく声が漏れる。知った名前を見つけたからだ。
『新進気鋭の若手指揮者・伊調鋭一、ベルギーで初の公演』
 即座にその見出しをタップし記事を読む。そこには、伊調剛健の孫・伊調鋭一が、若干二十六歳にしてベルギーの名門オーケストラの客演指揮者に招かれ、見事演奏会を成功させたという旨のことが書かれていた。
(スゲェなァ、さすが伊調だ)
 写真の伊調は、相変わらず小さな体でありながら堂々たる雰囲気だった。自信に満ち溢れ、指揮を、音楽を楽しんでいることが伝わってくる。最大のライバルである相手だが、その姿は誇らしく思う。
 神峰は記事一覧に戻り、ぼんやりといくつか興味のある記事を覗き続ける。すると。
「……っ」
 思わず、画面をスクロールする指が止まった。その名前は、知っているというより、いつも心の中に染み付いている存在だったから。
『若きサックスプレイヤー・“俊豪”刻阪響、仏公演に寄せる特別インタビュー』
 胸がぎゅっと痛くなる。それはかつての相棒の、あまりに輝きに満ちた姿だった。動きの悪い指で、そっと見出しをタップする。開いた記事のトップには、海外ニュースサイトが配信している動画へのリンクが張られていた。
 神峰はイヤホンを取り出し、スマートフォンに接続すると動画を再生した。手の中の小さな画面いっぱいに、あの爽やかな笑顔が大きく映し出される。
『動画をご覧の皆様、はじめまして。刻阪響です』
 はっきり通る懐かしいテノールが、流暢な英語で聞こえてきた。よく知っている声なのに、全然違う人物のようだ。
『このような場に呼んでもらえて、大変光栄です。ですが、僕としてはいつも通り、僕の音楽を聴いてもらえたら嬉しいです』
 インタビュアーの質問に、刻阪は緊張した風でもなく卒なく答えている。また胸にずきりと痛みを覚えた神峰は、思わず目を伏せてしまった。


<サンプル2>


「ここ、か……」
 都内某所に構えられた、とある施設の会議室を前に、神峰は緊張を抑えるように深呼吸した。今日は、神峰が指揮者としてオファーを受けた演奏会『若き翼の為のコンチェルト』のステージに乗る奏者・ソリストたちとの初顔合わせだ。ここで粗相をしてしまったら、この先の練習も本番もうまくいくはずがない。
 何回呼吸をしたところで、緊張のせいで高鳴る心臓は落ち着いてはくれなかった。仕方なく、神峰は目の前のドアをノックする。
「失礼しまーす……」
 恐る恐るドアを開けると、師匠ともう一人楽団長らしき老紳士、それからひとりの青年が会議室の机を挟んで座っていた。
「来たね、翔太」
 師匠がまず神峰に楽団長を紹介し、神峰はよろしくお願いします、と挨拶をする。楽団長は親しみやすい笑顔で言った。
「秘蔵っ子と聞いているよ。また、伊調先生の目にも留まったとね。期待しています」
「が、頑張ります……! それで」
 頭を上げた神峰が、楽団長の向かいに座っていた青年の方へちら、と視線を向ける。青年はそれを感じてか、グレーの怜悧な瞳を細めて微笑んだ。短めの灰がかった黒髪を斜めに流しており、顔の輪郭も直線的で細い。全体的に、どこか冷たい雰囲気だ。
 刻阪とは違うタイプだがスゲェイケメンだな、と神峰は漠然と思った。彼の目の前の机に、バイオリンのケースが置かれている。ということは、彼が今回のソリストなのだろうか?
 すると楽団長がこう言った。
「ああ彼はね、今回のコンサートマスターだよ。バイオリンの腕は保証する。君の指揮をサポートしてくれることだろう」
「へ……」
 青年はここで初めて立ち上がり、神峰に向かって丁寧に頭を下げた。

「初めまして、神峰さん。俺は弓月満(ゆづき みつる)と言います。今回はどうかよろしくお願いします」

 礼をしてから姿勢を正すまで、型にはまったように洗練された所作だった。その雰囲気に神峰は圧倒されてしまう。
「か、神峰翔太と言います、よろしくお願いします……」
 ガチガチに挨拶をすると、青年――弓月はくすりと笑った。
「俺に対してはそんなに緊張しないでいいですよ。多分、歳はそう変わらないはずだし」
「? そうなんスか?」
「うん。今年で二十九になる」
「あ、ほんとにあんま変わんねェスね……オレは今二十六だから」
 第一印象の冷たい雰囲気とは違う気さくな話しぶりに、少しだけ神峰の緊張がほぐれる。

 (中略)

(ッ……キツいな、毎度こればっかは……)
 初めて会う奏者たちからは毎回似たような視線を浴びているが、今回は本当に本物のプロフェッショナルが相手だ、視線の厳しさはひとしおだった。彼らからしたら、神峰はどこの誰とも知れない馬の骨に過ぎないのだから。
「こんにちは、神峰君。よろしく頼むよ」
 主旋律を担う第一(ファースト)バイオリンの席から、一人の奏者が立ち上がって神峰と握手をする。この人が東都フィルにおける本来のコンサートマスターなのだろう。
「これからやる曲の総譜は指揮台に置いてあるからね」
 促されて指揮台を見ると、確かに分厚い楽譜が準備されていた。
(良かった、知ってる曲だ)
 神峰は表紙に記されたタイトルを見て、ひとまずホッとする。ここで知らない曲に当たりでもしたら、本当にぶっつけ本番の実力を見られることになってしまう。
 しかし最近振った曲でもないから、楽譜をめくりながらどういう振りにするべきかを思い出していく。その間、奏者たちは弓月のバイオリンを基準に、それぞれの楽器をチューニングした。
 三分もしないうちに、奏者たちの準備が完了する。
「それじゃ、よろしくお願いします」
 口ではきっぱりと言ったものの、神峰はやはり内心不安だった。奏者たちの心と向き合いながら音楽を作っていく神峰のやり方は、初見の相手には効果を発揮しにくいからだ。
 しかし、そうも言っていられない。覚悟を決めて、神峰はコンサートマスター席に座る弓月に視線をやった。
「……!」
 怜悧なグレーの瞳が穏やかに神峰を見つめ返した。初めての指揮者相手に演奏するこの状況において、彼の水晶玉の心象は一点の曇りも揺らぎもない。
 大丈夫、心配しないで。そう言ってくれているようだ。
 なんてメンタルの強い人なんだろうか、と神峰は感心した。いつでも普通(ニュートラル)な刻阪並みだ。それを見たらなんだか心が凪いできて、神峰は多少肩の力を抜いて指揮棒を構えられた。
 一度楽団と向き合い、全員に視線を巡らせる。値踏みする視線はそのままだが、これからどんな音楽が作られるのか、そんな好奇心も垣間見える。悪くない、心地いい緊張感だ。
 最後にもう一度弓月と視線を交わす。いよいよこれからが始まりだ。二人の気持ちが合ったのを見計らい、神峰は大きく息を吸うとともに指揮棒を振り上げた。
 バン、と全員で奏でる最初のフォルテが響く。
 舞曲の形式を取り入れたこの楽曲は起伏に富んでおり、最初から最後まで聴きどころが多い。
 長調の明るい響きは、やがて昇りゆく太陽に似ている。後に続く、弾むようなフルートの旋律は、明けていく空に飛び立つ若き翼の前哨。奏者たちが慣れないからまだ空に色はないが、それはこれから作っていけばいい。
 作っていく音像がイメージできたところで、再び弓月に向かって指示を出す。
(第一バイオリン、もっとリズミカルに! 第二は遅れないようについていって!)
 神峰の振る指揮棒に、弓月が奏でるバイオリンの弓が素早く反応した。弓月の操る弓の動きが神峰のイメージを写し取り、奏者たちに伝播させていく。
(――! なんか、スゲェ反映が早い!)
 あっという間に音色が神峰の意図通りに変化していく。信頼関係はまだ築けていないとはいえこの結果は、さすがプロだからだろうか。
(それじゃあ、次は低音……!)
 総譜を見て次の手を決めた神峰が、一度楽団全体を見渡した。すると――
(っ……なんだコレ!?)
 神峰は思わず目を瞠った。弓月の心象である水晶玉に、神峰がイメージした景色がそのまま映っているではないか。
 神峰はすぐに察した。反応の速さは弓月のおかげだということに。まるで、鳴苑吹奏楽部時代に、刻阪が音の『手』で奏者たちをまとめ上げていた時のようだ。
 刻阪の場合、彼の愛器のサックスが木管楽器と金管楽器を繋ぐ『核』である、というポジションを生かして奏者たちをまとめてくれていた。しかし今は、弓という目に見える物で弓月が奏者たちを導いてくれている。人間の情報源の大半は視覚だから、その効果は計り知れない。
(何か、弦野とケンカしてた時のこと思い出すな……)
 あの時も弓が持つ力をまざまざと実感させられたものだが、今回の弓使いは完全に神峰の味方だ。全員がライバルだった音楽大学時代も、プライドの高い奏者たちを相手にしていた卒業後も、こんなことはなかった。なんという心強さだろう。
 おかげで自信を持って神峰は指揮棒を振ることができた。そんな神峰の意気を感じたのか、東都フィルの楽団員たちもだんだんきちんと神峰を見てくれるようになっていった。
 そして、とりあえず第一楽章の演奏が終わったところで、神峰はいったん指揮棒を置いた。
「あ、ありがとうございました」
 額に浮いた汗を拭いながら頭を下げると、楽団員たちは拍手で応えてくれた。
「やあ、予想以上だったよ神峰君!」
「ちと粗削りだが、個性的でいいね」
「しかし、ちょっと中音域の解釈が乱暴だな。あれではポジションが分からなくなるよ」
「いやいや、そこは練習期間でカバーしましょうよ。良かったですよ、なかなか!」
 値踏みしていた心象たちも、半分ほどが相好を崩して神峰を迎えてくれている。第一印象としては成功した方だろう、神峰はようやく笑顔をみんなに向けることができた。
「皆さんホントにありがとうございます、これからよろしくお願いします! ……それに弓月さんも」
「え?」
 楽団員たちが口々に感想を言う中、ひっそり背筋を伸ばして座っていた弓月が首を傾げた。心象の水晶玉はもとの、何物をも映さない透明に戻っている。
「初めてなのに上手くいったの、弓月さんのおかげスよ! メッチャやりやすくて助かりました」
「? ……そう、俺はいつもの通りやっただけだけど……」
「だとしたら尚更スゲェスよ!」
 神峰は心からそう言った。だってあんなに奏者たちへスムーズに意図が伝わったことはなかった。
「オレの言うこと、結構伝わらないこと多いんスけど……でも今回は弓月さんがちゃんと汲み取ってくれたからスゲェ上手くいったんスよ。刻阪とやってた時みたいだ」
「刻阪? ときさかって……サックスの刻阪響、ですか」
 弓月の瞳が少し細くなった。同時に、東フィルのコンマスが声を上げる。
「神峰君、刻阪君のこと知ってるの?」
「え? あ、まあ……知ってるも何も、同じ高校の吹奏楽部だったんで」
「あーそっかぁ。通りでうちの楽団長がニヤニヤしてたわけだ」
「……は?」
 話の行方が分からず神峰は当惑した。が、同時にあることを思い出す。それはつい数日前の――。
『なんか日本で演奏会やるから来てくれって呼ばれてさ。詳しくはよく知らないんだけど』
 ――あれは、まさか。
「みんな、待たせたな。『若き翼』のソリストだよ」
 ちょうどその時、ホールの扉が開いた。そこにいたのは東都フィルの楽団長と、そして神峰の予感の通り。
「あれ、ホントに神峰だ」
「っ……嘘ぉおおあああっ!?」
 今度こそ、神峰は我慢できずに絶叫してしまったのだった。


<サンプル3>

 翌日は交響曲の練習日だった。昨日の今日で予習などできるはずもなく、それでも神峰は指揮台に立った。それでも何とかできると知ってしまっていた、音に込められた心が『見』える自分の目と、自分の想いを忠実に再現してくれる弓月の弓があれば、大丈夫だと。
 それは、今の神峰にとって大きな支えだった。
「では、今日はおしまいですね。ありがとうございました」
 数時間の練習を終えて、神峰は大きなため息をついた。睡眠不足に精神的疲労、ついでに二日酔いも加わって、今までの音楽人生で指折りのきつい練習だった。
 けれど、やっとホッとできる。今日の練習にソリストの刻阪がいないのも幸いだった。昨日の今日で、どんな顔をして刻阪に会ったらいいのか皆目わからない。
 実を言えば、神峰は後悔していたのだ。
 言い方こそ無神経だったとはいえ、神峰を心配してくれていた刻阪に向かって怒鳴ってしまったことを。あんな風に言わなくても、自分の想いは伝えられただろう。だが、神峰の血を吐くような叫びを前に呆然としていた刻阪を思い出すと、それこそ吐きたくなるくらいの痛みに襲われるのだった。
 ――本気で世界に行きたいのなら。と、刻阪は言った。
 じゃあ、今のオレは、刻阪には本気に見えていないんだ。それなら、今までの努力は、積み重ねてきたものの価値は、なんだったのだろうか。
 はあ、とまた大きなため息をつく。そこへ。
「翔太くん、どうしたの? 今日はずっと元気なかったみたいだけど」
「……弓月さん」
 柔らかく微笑みながら、弓月が神峰のすぐ隣に立っていた。
「もし困ってることがあるなら、聞くけど」
「……」
 それは甘い誘いだった。本当は誰かに聞いて欲しかったが、あまりに個人的な事柄過ぎて、神峰は躊躇う。
 そもそも、男同士で付き合っていることが前提の話など、数度顔を合わせているだけの人物に言うのはどうかと思った。たとえ、親切心ゆえの申し出であっても。
 押し黙ってしまった神峰に、弓月は意味ありげにこう言った。
「合奏中、俺を見ていたのに、俺じゃない方を見ていたみたいだったから」
「えっ……」
 ドキッと神峰の心臓が冷えた。集中していたつもりで、ずっと頭の片隅に刻阪のことが引っ掛かっていたのだが、それを見抜かれていたのか。
「……それは、スミマセン……集中してなくって」
「ううん。でも君らしくないなと思ったから、ひょっとして、昨日誰か、何かとあったんじゃないかって思ってさ。たとえば……刻阪くんと喧嘩した、とか」
「……!」
 神峰は目を瞠った。水晶玉の中に、刻阪の姿が像を結ぶ。それは一体何を意味するのだろうか。
「オレ、そんなに分かり易い、ですか」
「わりと。もともと俺がそういうの得意、っていうのもあるけどね。……よかったら、俺に話してみない?」
 親しげに弓月が微笑む。神峰はごくりと喉を鳴らし、そしてゆっくりと頷いた。

「……なるほどな、そんなことがあったのか」
 練習施設がある住宅街に飲み屋はなかったから、二人は近所の公園に移動した。そしてベンチに座りつつ、神峰は弓月に奢ってもらったコーヒーを片手に昨日あったことを打ち明けた。もちろん、刻阪と深い仲であることは隠しつつ。
「俺たちのような売れてない音楽家にとって、音楽をすることで食べていけるって、大事なモチベーションだものな。それを否定されるのは……辛いな」
 分かるよ、と弓月が深く頷いた。
「でしょう!? 皆がみんな、刻阪みてェにうまくいくわけじゃねェのに……いや、あいつだってあいつなりに苦労してんのは、分かってるつもりだけど」
「大丈夫、そこは否定しないよ。……まあそれにしたって、彼には俺たちのような立場の苦労は、理解しにくいと思うけどね」
「……そう、スよね」
「けど、翔太くんにそこまで思わせる刻阪くんてどんな人なのか、気になるね。そこまで君にとって大事な人なの?」
「だっ……」
 直球な表現に、思わず神峰は顔に血が上る。――大事な人、確かにその通りだ。あれだけの喧嘩をしてしまった今になっても。
 だからこそ、こうして悩んでいるのだから。
「……だから、さっきも言いましたけど……初めてできた親友で、オレに指揮者っていう道を教えてくれた人で……そんで、自慢の相棒で、……一緒に未来へ行きたい相手、です」
「そっか。今でもそうなんだね」
「……はい」
 改めて言葉にすると、ものすごく照れる。慌てて神峰は熱くなった頬を片手で隠した
 力をなくした神峰の声に何かを察したのか、弓月は急に話題を変えてきた。
「ところでさ、俺、刻阪くんが出てる雑誌とか読んだよ」
「えっ!?」
 神峰は思わず顔を上げた。意外だった、わざわざそんなことをするとは。
「彼、インタビューで何回も『一緒に未来を目指している相棒がいる』って言ってたんだよね」
「……そう、スね」
 もちろん、神峰はそれらの記事を知っていた。まだ刻阪が海外へ渡ってすぐの、向こうのコンクールで入賞したりして名前が売れ始めたばかりの頃だ。
 芽生えたての若き才能を称える記者に、刻阪は何回も言っていたものだ。日本には僕よりももっとすごい相棒がいる、僕はそいつと海外(ここ)で、世界を相手に演奏するのが目標なのだ、と。
「その相棒っていうのは、翔太くん、君のことなんだね」
「……は、い……」
 今でもそうかは定かではない。けれど、その時の刻阪が言った『相棒』が指すのは、間違いなく自分だった。その時のことを思い出すと、未だに胸の奥が疼く。――涙すら浮きそうになるのを、神峰は息を飲みこんで耐えようとした。が。
「もし、外れてたら申し訳ないけど。……ひょっとして、翔太くんは刻阪くんと、相棒以上の仲なんじゃない?」
「っ――!」
 今度ばかりは神峰は頷くことさえできなかった。ちゃんと隠していたつもりなのに、これでは台無しだ。
「……なんで……」
「うーん、なんとなくだよ。俺はアルバイト柄いろいろな人を見てきたから、他人のことは見てれば分かるんだ」
「ちなみに、何のバイトですか……?」
「バイオリンの個人レッスン講師。片手で数えるくらいだけど、恋愛相談も受けたことあるよ」
 ――なるほど。と神峰は妙に納得してしまった。もしかしたら、弓月の観察眼、言葉を演奏に変換する力といったコンサートマスターとしての才能は、そのアルバイトで培われた面もあるのかもしれない。
「それはともかく、本当に付き合ってるんだね?」
「う……高校時代から、ずっと、です……」
「そうか、それはますます辛いな。……遠距離恋愛は続かないって言うし……」
 それを聞いて、神峰は余計心細くなってしまった。このままオレたちの関係は途絶えてしまうのか、そんな想像はしたくなくて――しかし、蓋然性として見え始めてしまっている現実が、神峰の心を抉る。
「バカにしますか、……未来がかかった大事な時に、こ、恋とか、そういうので悩んでる、っつーの」
 できるだけ平静な声を作ろうとするが、つい語尾が震えてしまう。弓月は首を振った。
「いいや、バカになんかしないよ。むしろ、羨ましいなって思ってさ」
「羨ましい……ですか」
「ああ。人生でそこまで自分のことを賭けられる相手がいることとか……それに、翔太くんにそこまで思わせる、刻阪くんのこともね」
「……」
 一瞬、神峰は違和感を覚えた。声の温度が、微妙に下がったような気がする。思わず『目』が心象を探る――と、水晶玉の中に何かが渦巻くのが『見』えた。青黒い影、あれはなんだ?
 しかし、その影はすぐに消えて『透明』に戻る。それと同時、弓月が言った。
「俺、決めたよ」
「へ? な、何を」

「翔太くん、俺と一緒に世界を目指そう」



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18禁シーンのサンプルはpixivからお読みください。
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