詰まらない仕事を終わらせた後の珈琲は格別に美味い。あと、コンビニで煙草。
喉に染み渡るカフェインの苦みと煙草の突き抜ける刺激が眠りかけの脳味噌をがくがく揺らす。心身共に疲れ果てる案件を片付けた心地よさで大きく伸びをした。これでしばらくは休めるはずだ。このまま家に帰ってシャワーを浴びて少しの食事を胃に詰め込み、泥のように眠りたい。
「あーだるいにゃー」
まだ朝日が昇らない暗い空を見上げながら一人で呟く。時刻を確認してみると深夜3時というなんとも中途半端な時間帯。
いやいや今夜の案件は割と遅くなるかもと覚悟はしていたが、日付を超すどころか一歩半飛び越してしまうなんて。
身体に悪い徹夜作業となりかけていた事にぞっとしつつ、日蛇は何度目かの欠伸をかみころす。
繁華街とはいえ時間が時間なので活気は夜と朝の狭間の心地よさだけがそこにあった。裏路地から抜けた日蛇はもう一杯珈琲が飲みたいと思い、適当な自販機を探す。ちょうど近くにぽつんと寂しそうに佇んでいるものを発見したので近づいていく。
「珈琲っていくら飲んでも飽きないから不思議だなぁ−」
深夜の風に身を震わせつつ手に握り込んだ硬貨を投入する。からんからん、とやけに響き渡る音を耳にし、さてどれを飲もうか垂れてきた鼻水を擦ったのと同時に、背後からぬっと腕が伸びてくる。
驚きで声を失った日蛇を無視してブラックコーヒーのボタンが押される。がこん。選ばれた缶コーヒーをしゃがんで拾い上げた人物の顔を視認し、日蛇の顔が全力でなんともいえない表情になった。
「えっちょっとなんで勝手に俺ちゃんのお金で缶コーヒー買ってんのあんた」
「見覚えのある後頭部だったのでつい」
しれっと悪びれもなく言い捨て、プルタブを開ける。白い湯気がたつそれに無表情で口づけた甲斐田にヘイトが募るのは当然だった。いわば数百円とは言えコイツにプレゼントしてしまったという事実が何より腹立たしい。
「無理なんですけどーーーー俺ちゃんのコーヒー返してよマジで!」
「そんなにコーヒーが飲みたかったんですか?すみませんこれブラックなんですよ、だからお子ちゃまにはまだ早いかと思うのですが」
「子供扱いしないでくれる!?本当に腹立つんだけど!!!!!!」
静かな繁華街に反響する怒声に物怖じ一つしない甲斐田にますます苛立つ。平気なつらして人の缶コーヒーを啜る傍若無人ぶりには呆れかえるばかりだった。地団駄を踏みならしたかったが目眩にも似た衝動に襲われ、グッと崩しかけたバランスを取り戻した。血圧があがってしまう。いかん、平静を保たねば。
「もうそれアンタにあげるから貰っといて、いつか倍にして貰うから……じゃ、二度と会うことがないように祈ってるよ」
珈琲を飲む甲斐田に一つ溜息を置き土産としてくるりと踵を返す。さっきまで感じていた達成感は消え失せ、代わりに胃袋にずしりとのしかかってくるような感情に支配されていた。つまり、純粋に甲斐田のことが苦手だしなるべく関わりたくないということである。
「お待ちください」
その場から逃げ去ろうとする日蛇の肩を力強く掴んだ。骨が軋む悲鳴に日蛇の喉から九官鳥のような声がもれる。貧弱な彼の肩では耐えきれないような握力にゴリラの影を見た。
「見たところお仕事帰りといったところですね」
「ま、まあそうだけど」
「お疲れの所徒歩で帰るとなったら大変でしょう。私が送ってさしあげましょうか」
「えっ、送って帰るってどうやって??肩車??」
「生憎私には成人越えの男を肩車する趣味はございませんので、あれで」
甲斐田が指さす方には黒い車があった。なかなか高級感溢れる仕様になっているが、傷一つない塗装の美しさに徹夜明けに近い目が痛い。なんですか新車ですかいちいち嫌みな男だな。
「遠慮しておくにゃー家はこっから近いし信用ならない奴の車とか乗ったら何が起こるかわからな」
「はいはい早く行きますよ」
「人の話聞く気一ミリもないでしょーー!ぎゃーす!」
問答無用で高級車に引きずられていく。ばたばたと暴れてみるがそもそもの力の差が違いすぎるのだ。ゴリラの残像をうかがわせるような男とまともに力比べをしたところで敗北の一手しかたどれないに決まっていた。強引に助手席に放り込まれ、シートベルトという枷を悲しいかな自ら装着する羽目になる。
「まったく強引な男なんて少女漫画だけかと思ったらー最近のヤクザはそういう趣味があるのかにゃー?」
「減らず口を叩かれてしまうと私ついつい左に寄ってしまう癖がありまして」
「よーし!安全運転で任せまーす!」
滝の如くあふれ出してくるハンカチで額を拭った。隣で同じくシートベルトを装着した甲斐田が車のキーを差し込む。やれやれ、道中で命を狙われないように細心の注意を払わないと。気の張ったドライブになりそうだと息がもれそうになった日蛇の溜息をかき消すような鋭いエンジン音に飛び跳ねそうになる。
「ちょちょちょーーい!キー回しすぎでしょそんなに回してたらぶっ壊れるよ!?」
「これぐらいの刺激を与えないと駄目でしょう日本の車は」
その返答からして嫌な予感がしてきていた。ごくりと生唾を飲み、ずれてきたサングラスを震える指で押し戻す。
「一つ、聞いてもいい?」
「なんでもどうぞ」
「甲斐田さんって、免許証の色は何色?」
「……この愛車は今年に入って3台目です。2台目は1週間前に高速道路で大破致しました」
「違うよそんなこと聞いてるんじゃ―――」
「ちゃんと道案内してくださいね。でないと細い道に迷い込んでしまいますからね」
日蛇の言葉を遮り意気揚々とアクセルを踏みつけた車は―――それはもう張り切った馬力音を深夜4時の繁華街を轟かせ、急発進急ハンドルのそれはそれは見事な運転テクニックに操られ、信号なんて死んでいる道路を駆け巡る。
頭の中が真っ白になった日蛇は強かに窓硝子にこめかみをぶつけ、微睡んでいく視界の隅、鼻歌を奏でている上機嫌な甲斐田を見てただ一言「やっぱコイツ嫌いだ」と飲んだ珈琲が逆流してくる感覚と共にダウンした。
それからどうやって辿り着いたのかは知らないが、死んだように自宅前で倒れている日蛇の姿が同僚の猫丸により発見されたという。
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