「あー、寒い寒いマジあり得ないんですけど」
「我慢しろ」
「いやこれはゆゆしき事態ですよアルベルトさん。もっと危機感を持って頂きたいね」
尖らせた唇からは息が白い煙となって吐き出される。
透き通った空気の向こうが見える二酸化炭素の塊は天使のように上昇して、やがて完全に空風色に染まって消えた。マジでクソ寒い。
「そう文句を言ったところでどうにもならない事だって、この世の中にはある。良かったな一つ世間を知れて」
「か弱い女子高校生を寒空の下放置してた高校教師に世間について説かれても」
玄関扉の前でしゃがみ込む唯の頭上から手を伸ばし、アルベルトは扉の鍵を差し込む。銀色の鍵はがちゃがちゃと音を鳴らすも、鍵穴とかみ合うことはなく、泣く泣く手を引っ込めた。
はぁ、と疲れた息をもらしたアルベルトの息も白く濁っている。手袋越しにでも伝わってくる冬の夜の冷たさに感傷すらわき上がらない。感じるのはただただ寒さと、冷え切った身体がせめてもの慰めだと言わんばかりの、温度の熱。
「鍵分からなくなるとかマジあり得ないからね。何年ここに住んでると思ってるんですか」
「煩い」
「凍え死にそう」
「お前が家には入れないのはお前が鍵を忘れたからだろ。俺のせいにするな」
帰宅した唯が自分が室内に鍵を忘れたことに気づいたのは、アルベルトと一緒に住んでいるアパートに入ろうとしたときだった。
もっと早く気づいていれば同居人が帰ってくるまで何処か温かい場所で時間を潰したのだが、なんだか家の前まで辿り着いてしまうとそこから動く気力がなくなる。
季節は12月を通り過ぎ、ついでに正月も追い越して寒さが厳しくなる一方の時期だ。辿り着くまでに何十分も寒い思いをして風に吹かれたというのに、また街中を歩くなんて冗談じゃない。それなら多少寒さを凌げる此処で待っていた方が効率的というものではないだろうか。
どうせすぐにアルベルトも帰ってくるだろうと高をくくって扉に背中を預けたのがいけなかった。あの時素直にカフェにでも入ってぬくぬくとジュースでも飲みながらアルベルトさんの着信を待てばよかったのに。
10分ほど経過してあ、これは遅いパターンだと理解したまではまだよかった。一度座り込んでしまうと立ち上がって場所移動するのも面倒だった。自分が離れた瞬間アルベルトが帰ってくるような脅迫概念にも駆られた。
今、こうやって悩んでいるうちにも見慣れた青っぽい髪の毛が現れるかもしれない。なんてことを考え初めて更に30分ほど経過して、そろそろ手足に痺れにも似た症状が出始めた頃、待ち望んだ同居人があきれ果てた顔をしながら近づいてきた。
「なにやってるんだ」
「鍵忘れたから待ってた」
「脳味噌まで凍りづけにされたのか」
「待っててやったんだからもっと感謝の言葉ってものが欲しかった。いじらしいでしょ」
「鼻水すすってる奴にいじらしいも何もないな。早く入れ」
動こうとしない唯に臆さずポケットから鍵を取り出し、彼女の頭上越しに扉に触れる。毎日行っている初歩的な動作に猛烈な違和感を覚える。一度引っ込めじっと鍵先を睨み付けると、こちらを見上げていた唯の表情が曇る。
「え、なんですか鍵穴にガムでも突っ込まれてたんですか」
「鍵が違う」
「は?」
なんてドスのきいた一言だろう。女子高校生が出して良いような声音じゃない。鞄を地面に置き中身を漁っていくつかの鍵を取り出す。それからひたすら合致させる作業に集中していたのだ。時間経過とともに唯の冷めた眼差しも愚痴もエスカレートしていく。
「ねーもしかして学校に忘れたとかじゃないの?」
「かもしれない」
帰ろうとした瞬間、書類の山が崩れて産卵したことを今更思い出す。そのときに鞄も倒してしまったので混じってしまったのだろうか。
「ハー、マジか。じゃあ学校戻らなきゃ家に入れないね。仕方ないよそんなに落ち込む事は無いよアルベルトさん」
やれやれと肩をすくめられ釈然としない気持ちに襲われる。まるで自分だけが悪いようにナチュラルに責任転嫁されてはたまらない。お前が家に鍵を忘れなければ鼻水を垂らす必要も無かったしアルベルトだって暖房の効いた部屋で一日の疲れを癒やすことができた。反論しようと開いた口から言葉が漏れ出す事は無く、代わりに冷えた空気が流れ込んでくる。
「ついて行ってあげるから帰りにラーメンでも宜しくね」
「替え玉は一回までだぞ」
「味玉トッピングはありですか」
「半分くれるなら考えてやる」
現金なものでラーメンを餌にしたらすぐに食いついてきた。立ち上がり颯爽と学校へ戻り始めた彼女の小さな背中を見つめ、薄暗くなってきた冬の街並みへ視線を移す。悪戯な冷気が外灯の明かりにより具現化されてじっと此方の様子を伺っているような気持ちになる。薄らと写りだした星空は都会だというのに二等星まで発見できた。冬空の透明度を改めて自覚させられた。
「なにしてんのーはやくはやく」
急かす年下の声に促され、アルベルトはマフラーを巻き直し冬の街並みへと身を落とした。
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