湯上りの体に夜風が心地いい。
手入れされた庭は美しく、頭上に浮かぶ月がより幻想的に緑を魅せる。
不浄王の右目。それがもたらす災厄。明陀の内に広がる疑心、不和の波紋。
シュラたちはどうするつもりだろう。右目を守りきることはできるだろうか。
今回同行させられた燐への真意は。ヴァチカンの思惑。雪男の懸念。
わからないことだらけだ。

はぁ、とついた溜息。そろそろ部屋に戻ろうと静まった廊下を歩いていると、縁側に座り込む人影を見つけた。

「勝呂くん?」

声を掛けるが反応はない。
そっと顔を覗き込めばどうやら寝入っているらしかった。
こんな体勢では首が痛かろうに。それよりも風邪をひく。眉間にしわを刻んだまま眠る勝呂くんの肩をゆすってみた。

「勝呂くん、勝呂くん風邪ひくよ。部屋に戻って寝なさい」
「む・・・」

反応は薄い。相当深い眠りなのかと伺う視界の端に、何故だか空の缶チューハイがそこにあった。

「んん?」

真面目な勝呂くんが飲酒?誰かが渡したのだろうか。
そもそもこんなに大事にされている坊っちゃんにお酒を渡す人物がいるとは考えにくい。

「勝呂くんってばー。わっ」

ぐらりと揺れた上半身は重力に沿って私の方に倒れてくる。
思わず受け止めたものの、ほとんど膝枕のような状態になってしまった。

「やばい。うごけない」

着慣れない浴衣と寝入った男の子の体重はなかなかの威力がある。
もう一度声をかけようとしたが、眉間に寄せられた皺が起こすにはしのびないとそう思わせる。
随分気苦労をため込んで。指先で皺を伸ばしてみると、心なしか寝顔が和らいだ気がした。

「勝呂くん。お疲れ様。大丈夫だよ。勝呂くんには三輪くんや志摩くんがいるもの。それに、私もいるよ」

随分深く寝入ったままの勝呂くんの髪を撫でてみる。
思ったよりも柔らかい。昔、燐や雪男を寝かしつけていたことを思い出して胸が温かくなった。
私も、燐も、勝呂くんも。
どんなに迷ってもきっと、みんなが助けてくれる。だからきっと大丈夫。

「私たちは一人では生きていけないもの。だから神様は私たちを助けてくれる人を造ってくださった」
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。旧約聖書やったなあ確か」
「え?」

はっと顔を上げると、庭先には見知らぬ男性が立っている。
法衣に丸めた頭。少し鋭い目許だが、笑顔は柔らかくどこか見覚えがある。

「えっと・・・」
「初めまして、お嬢さん。私は勝呂達摩いいます」
「勝呂くんのお父さんですか?」
「あはは、よろしゅうに」

ニコニコと笑う達摩さんは勝呂くんを挟んで隣に座る。
勝呂くんの寝顔を見下ろしながら、その笑顔は相変わらず優しかった。

「達摩さんは、聖書にも明るいんですか?」
「いや、私は根っからの明陀やさかい。竜士の部屋にあったんをちょっと読ましてもろただけや」
「仲いいんですね」
「・・・いや、喧嘩中や」

今度は情けなく笑う達摩さん。

「でも、喧嘩するほど仲がいいっていうし。喧嘩が出来なくなるよりかは、いいと思います」
「・・・?」
「燐は、私の知ってる子は・・・もう喧嘩もできないから。だから、親子はたくさん、喧嘩して、その分仲直りすればいいと思います」

私も、と心の中で付け加える。
いなくなった人とは、もう喧嘩をすることも、一緒に笑いあうこともできない。
達摩さんは私の言葉に「君、燐くんの知り合いなん?」と目を丸くした。

「はい、同じ修道院で育ちました。燐や私の育ての親は、藤本さんというんですが、もう、亡くなってしまって・・・」
「藤本くんが・・・!?」
「? 獅郎さんを、知ってるんですか・・・?」

強く反応を示した達摩さんに私は思わず聞き返す。
信じられないと愕然としていた達摩さんは、一瞬目許を潤ませたが、また取り繕うように笑って目尻をぬぐった。

「そうかぁ・・・藤本くんがかぁ・・・。もう随分昔やけど、竜士や燐くんが生まれる前。私は藤本くんと面識があってなぁ」
「そうなんですか」

燐たちが生まれる前。
それは、私も知らない獅郎さんの姿だった。
全然想像もつかない過去の獅郎さん。涙を滲ませた達摩さんの姿に、私もまた少し泣きそうになった。
あの日の悪夢は、ずっと心の中に居座り続けている。

「しかし、はは。よう寝てるなぁ」
「お酒が入ってるみたいですから」
「真面目な竜士にしては珍し」
「誰かからの差し入れでしょうか」

頭上で交わされる会話に、勝呂君はいまだ起きる気配を見せない。

「足痛なるやろう。うちの息子が堪忍なぁ」
「いいえ、いつも助けられてますから」
「まぁでも、風邪ひく前に部屋運ぼか。よっこらせ、と」

寝入る勝呂くんの腕を引き、背中に覆う達摩さん。
勝呂くんの身体は15歳にしては大きい方だと思う。大丈夫ですか?と声をかけると達摩さんはイテテ、と苦笑を零して笑った。

「年取ると腰が弱なるなぁ・・・竜士も、大きぃなったさかい」

幸せを噛みしめるようにそう零す達摩さん。
私には父親がいない。
生物学上の親はいても、愛情を注いでくれる父はいなかった。
獅郎さんは父というよりも家族そのもので、勝呂夫妻は、まるで最高の両親を体現したような二人に思える。

「勝呂くんは、幸せですね。素敵なご両親や、門徒の皆さんに囲まれて」
「はは、照れるなぁ。けど、親の心子知らずいうか」
「大丈夫ですよ。勝呂くんもきっと、いつかわかりますから」

ぱちり、とまたたく達摩さんの瞳。
きょとんとした表情は、大人らしからずどこか愛嬌があった。

「君、ほんまええ子やなあ。えと」
「あ、私蒼井です。蒼井はなといいます」
「はなちゃんか。そうか。これからも、竜士のこと頼むなぁ」
「はい」

思わず笑って答えると、達摩さんも安心したように笑った。


聖歌隊の生き残り

20130515 tittle by 不在証明