8、地獄のち天国@
3月に入っていた。
あれから神野の俺に対する対応は元に戻り、またぎゃあぎゃあと喧嘩をしたりしている(一方的に彼女が怒っている)。
残業もまた少しずつやりだしていて、俺は話せるのが嬉しかった。
そんなある日、2月戦のご褒美旅行に神野が旅立って行った。
昨日の夕方に支部の皆に「行かせて頂きます!」と挨拶をして、残念なことに法事で欠席する夕波さんの分も楽しんできますよ〜と笑っていた。
俺は支社に呼び出しをくらい、向かっている所。記念月の反省会だ。あの恐ろしい支社長にぎゅうぎゅうに詰められるはずで、反省会の後は食欲もなくなるだろうと予想して車の中でパンを食べていた。
今日と明日は神野に会えない。そう思うと、ちょっとテンションが下がったのが判って自分にイライラした。
しっかりしろ、支部に残っている職員さんは働いてるんだ。
ビル群が見えてくる。大きな川を渡ればすぐ繁華街で、今からあそこで叱責だ。
うんざりする気持ちを深呼吸で散らして、ハンドルを切った。
やっぱり強烈だった。
久しぶりに、営業時代に受けた悪夢の研修や、締め切り後の詰めを思い出してしまい、悪寒が全身を駆け抜ける。
・・・・ああ、マジで怖い。
固定給になってからガンガンに詰められることは少なかった。でも今回は赴任して2回目の記念月、もう新人支部長として見てはくれず、容赦ない追求が始まった。
旅行入賞を2名しか出せなかった当支部の成績を、隅から隅まで説明の上、問題点の考察とその克服プラン、次の記念月でどこまで伸ばせるかの目標設定とその根拠を言え、と支社長に言われた時には、えぐい眩暈を感じてしまった。
・・・えーっと。申し訳ありません、準備に3時間下さい。と心の中で呟いた。勿論そんなの貰えないんだけど。
まったく笑っていない目で真っ直ぐにこっちを見詰め、一番奥の席に支社長が座っている。それを囲むように座る支部長達が、皆悲壮な目で俺を見上げている。
ここの支社受け持ちの支部と営業部、総計36部のうち、上位15部のみ、この反省会を免除される。
残り21部の支部長や部長が全員呼ばれて、俺たちが密かに「折檻部屋」と呼んでいる支社長室横の会議室で、順次、詰められていくのだ。
一年に3回ある記念月の、これが実は一番恐ろしい。
職員さん達には到底見せられない光景で、いい年した大人達が本気で半泣き状態で自分の番がくるのを怯えて待つのだ。そして、泣きながら説明し、ひれ伏して自分の力の足りなさを謝り、次のリベンジを誓わされる。
この恐怖の会議、もとい反省会が終了してから、支社長と副支社長はご褒美旅行に追いかけて参加する。
これが終わって初めて、支部長達の記念月は終了となる。
仕方ない。責任者であるということは、つまり、こういうことなのだ。
汗でじっとりとしてきた手の平を体の前で合わせて、俺は微笑みを浮かべる。
どんな時でも必ず一度は笑顔を見せること。それが稲葉家の父の教えだ。笑顔で、自分の緊張をとく。そして――――――――
ベストを尽くせ。
「説明させて頂きます」
笑顔を消して、静かに話し始めた。俺の戦争開始。
頭の中でゴングが鳴った。
4時間かけて反省会は終了した。途中休憩は一切なしの、文字通りに拷問だった。
支部長達は抜け殻状態になって机に伏してしまうか、一秒でも早く帰ろうとドアに殺到するかだった。
俺は深い深いため息を吐いて、やれやれと伸びをする。
ああ・・・終わった。良かった、まだ俺生きてる・・・。
本気でそんな心境だった。
その時、副支社長から、俺を含めて5人の支部長が呼ばれた。
「ちょっとこっちに来てくれ。すぐ終わる」
呼ばれた全員で思わず顔を見合わせる。皆緊張して顔が強張っていた。
お互いに背中を押しあいながら恐る恐る支社長室まで行くと、さっきとはガラリと雰囲気を変えて非常にご機嫌麗しい支社長が振り向いた。
「ああ、お疲れさんだったな、君達」
また叱責ってわけではなさそうだと、ゆるゆると緊張の糸を解いた俺たちに、さっきまで悪魔そのものだったここで一番偉いオッサンは、あっけらかん、と言った。
「君達も今回の旅行に参加になったぞ。それぞれ自分の支部に戻って、副支部長にその旨伝え、夕食までには旅館に来ること。以上」
――――――――は?
一瞬、口を開きっ放しにして呆気に取られる。
その状態から一番早く復活した柳川支部長が、あのー、と声を出した。
「ええと・・・支社長?あの・・・お言葉の意味が判らないんですが・・・」
アホ面する俺たちを均等に見て、お偉いさんは笑う。
「旅行に来いと言っている。今回は残念ながら参加者の辞退が多くて、予約した人数までの埋め合わせが必要なんだ。君達の支部の成績は入賞には足りていないが、それぞれ数人の個人の営業成績がいいので、参加資格を与える」
おお!とどよめきが起こった。
何と、特別参加出来るらしい。一気に明るくなった支社長室で、俺達はじゃんけんで誰の車で追いかけるかを決める。
そして、また夕方に支社に集合になった。
反省会で落ちまくっていたテンションが急に復活して歌いだしそうになった。
やった、これで、神野に会える。
支部に戻って副支部長にそれを伝え、職員さんにお礼と明日の不在を詫びてから、一度自分の部屋へ戻った。
スーツを脱ぎ、私服に着替えて荷物をまとめる。
言っても一泊だし、今日の観光はなしだから大して支度がいるわけでもない。小さな鞄とコートを持って、出発した。
帰りの為にと支社へは車で行き、駐車場に止める。
まだ結構な時間があるな、とコンビニに入っていたら、携帯が鳴った。
ディスプレイには楠本さんの文字。
「はい、稲葉です」
店の外に出ながら通話ボタンを押した。
楠本さんのハスキーな声が電話から流れてくる。
『稲葉、お疲れさん。今大丈夫か?』
「はい、どうしました?」
楠本さんからの電話は、俺が前任で支部長を勤めていた支部の営業職員についてだった。
しばらく話をして、それはあっさり解決となる。
『ありがとう、助かった。―――――あ、そう言えば、この間』
「はい?」
急に話が変わったようで、声が優しくなった。何かを思い出して笑っているらしい。
『あの子に会ったよ。えーっと・・・神野さん。そっちに出張の時』
・・・へえ。
俺は目を瞬いた。神野からそんな話は聞いていない。
『駆け込みで契約書入れたところで、コーヒーを選んでいたみたいだったから、お茶に誘ったんだ』
「え?」
楠本さんが、お茶に?ついまた瞬きをする。それは珍しい・・・同じ会社の女性とお茶するのは、役職持ちか同期の事務長の仲間女史くらいだと思っていた。
それを口に出すと、あはははと笑った。
『そんなことないぞ。設計部の部下の女子ともお茶くらいするさ。ただ、時間があったし、お前のお気に入りとちゃんと話してみたくてさ』
俺は苦笑する。・・・お気に入りって・・・。
「話、弾みましたか?」
神野なら楠本さんの綺麗さにも物怖じせずに話しそうだけどな、と思いながら言うと、また笑う。
『キウィとオレンジの謎、判ったぞ』
「はい?」
コンビニで見かけた神野がコーヒーを選んでいたのでお茶に誘うと、カフェで注文したのはオレンジジュースだったらしい。不思議に思った楠本さんが理由を聞くと、茫然自失で習慣が優先されました、的な返事だったとか。ビタミン摂取の為のキウィとオレンジだったけど、今では習慣でほぼ無意識なんですと説明したらしい。
『面白い子だな。お前が気に入るの、判ったような気がする。とても人懐こくて頑張り屋だけど空回りの傾向。そこをからかって楽しんでるんだろう?』
思わず俺も笑ってしまった。
さすが、楠本さん。的確な表現だ。
「実は、2月戦の施策の旅行にいけることになったんです」
簡単に成り行きを説明した。すると電話の向こうで企んだような声がした。
『・・・あの子は参加?』
「神野ですか?はい、そうです」
何だ?と思いながら聞いていると、くっくっく、と小さな笑い声が聞こえた。
・・・楠本さん、えらく楽しそうだな。
『成る程。反省会の後にしちゃお前の機嫌がいいなと思ってたんだ。それでなんだな。―――――――おい、稲葉』
「はい?」
『この旅行で、ものにしろ』
―――――――――はい?
思わず耳から離して携帯を見詰める。楠本さんの言葉が頭の中を回ってぐるぐると渦を巻きだした。
俺はゆっくりと電話に戻る。
「・・・何てこと言うんですか、楠本さん」
『どう考えてもこの旅行がチャンスだ。男と女になれる。支部では上司と部下から抜けるのは難しいだろ。・・・っつーか、稲葉、お前、今何想像した?俺はただ、ものにしろって言っただけだぞ』
カッと体が熱くなった。きっと顔も赤らんでるはずだ。
・・・やられた〜・・・本当に、この人には敵わない・・・。空いている片手で自分の頭を叩いた。
返事が出来ない俺に電話の向こうで楠本さんが爆笑している。そしてまた言う。
『告白でも何でもいい。言葉は悪いけど、唾をつけとけって言ってんだ。でないとその内に他の男営業に取られちまうぞ。――――――襲えとは、言ってない』
ぶすっとした声で何とか返す。
「・・・・人が悪いですよ、かなり」
楠本さんは俺の苦情にまた笑い声をあげて、じゃあな、と電話を切った。
お陰で俺は待ち合わせの時間まで頭を冷やすために寒空の中外に突っ立ってるハメになった。
乗り合いで、野郎ばかり5人を乗せた車は高速を突っ走った。
営業部長から電話があり、宴会に遅れたら一発芸をさせると脅されたので、ハンドルを握るヤツは必死だった。
俺は運転を人に任せていたので椅子にもたれて眠る。男ばかりで特に仲が良いわけでもなく、話すこともなくて暇だった。
頭の中をさっきの楠本さんの言葉が駆け巡る。
―――――――唾をつけとけ。
・・・言われなくたって、そうしますとも。俺は一人でこっそりと笑う。
営業の格好をしていない神野を初めて見れるのだ。それも楽しみにしていた。うちの支部は一般支部なので、全員がスーツを着ているわけではない。だけど職界出身の神野や若い子はスーツを着て仕事をしていた。
旅館に着くまではそうして、彼女の私服姿を想像して楽しんでいた俺だった。
すっかり暗くなってから何とか迷わずに旅館に着く。
運転手にお疲れさんと労いの言葉をかけて、バタバタとフロントに向かった。
すると、フロントから遠く見えるゲームコーナーらしきところで、やたらと騒がしい団体がいた。
チェックインを柳川に任せてあとの4人はついそっちを眺める。
「・・・何だ?卓球か?騒がしい団体だな〜」
隣で呟く声が聞こえた。他の3人も頷く。
まだ酒も入ってないだろうに、どれだけハイなんだ。わーとかぎゃあーとか声援やらブーイングやらが聞こえる。ちょっと恥かしいぞ、などと思っていたら、その団体から自分を呼ぶ声がしたからビックリした。
「おーい、稲葉!次お前やれよ!」
へ?と思わず口を開けてよーっく見ると、何とその騒がしくて恥かしい団体は、うちの会社だった。
「あれ、うちの会社だ・・・」
「まったく恥かしいよな」
呟きあう他の奴らをフロント前に置き去りにして、俺は苦笑しながらゲームコーナーに近寄っていく。
殆どがお風呂上りらしく、浴衣姿だった。男は全員旅館の浴衣らしいが、女性は色とりどりの浴衣を着ている。きっと貸し出してくれるんだろうな、と判った。
ざっとみたところ職域担当と一般支部で東西に分かれて卓球試合をしているらしかった。
「・・・何事ですか?」
上機嫌の浮田営業部長を見つけて聞くと、予想通りの答えが返って来た。
そして、何故か俺が次は試合に出るらしい。
いきなり言われてもな・・・と思ったが、宴会での一発芸をするよりはよっぽどいい、と考え直した。この試合に出たからと一発芸からは逃げてみせる。
卓球台に近づきながら、荷物をどうしようかと周囲を見回す。すると、端のほうでこっちを見ている神野に気がついた。
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