4、武藤主任からのキス



 次の日から、あたしは武藤主任の顔を2週間見なかった。

 会社を代表する働き者でやり手の彼は、社運をかけた巨大かつ大事なプロジェクトの契約を勝ち取るために、出張だったのだ。

 この出張が成功に終われば大入りを出すから皆で武藤を応援してくれ〜と、可愛くて愛嬌満点のうちの社長が部屋から出てきて散々言っていたから判ったんだけど。

 あたし以外のメンバーはそんなことちゃんと知っていて、武藤主任に憧れている女性社員数名は両手を握り合わせてお祈りしていた。

 ・・・うーん、何て可愛い人たちだろう。

 あたしはそれを自席からただぼーっと眺めていた。

 あのやり手で憧れの的の武藤主任と、人には言えないことをしたワケなんだから、もうちょっと動揺したっていいんじゃない?と自分に突っ込むくらいに普通だった。だって本人が目の前にいないしねえ。

 桜の花はとうとう散ってしまった。

 あたしは踏みつけられて雨にも打たれて汚く茶色に変化した上にちぎれて横たわる花びらをそっと両手で拾う。

 ・・・魔法をかけてくれて、ありがとう。

 小さくそう言ってみた。お陰様で、あたしはあの人に抱かれることが出来ました、って。

 桜の木はこの数日で新しい葉が生い茂り、もうすぐ新緑で満たされるのだろう。

 そうしたら、あたしも桜の木を見て酔うことなどないはずだ。だから、もし残業があってしかも主任がそこに居合わせたとしても、もうあんなことは起こらないに違いない。

 ほっとしたような、悲しいような、複雑な気持ちだった。

 ああ・・・・桜の季節が終わっちゃった・・・。



 武藤主任が凱旋した。

 それを会社の皆で拍手で出迎えて、彼がドアを開けると同時に盛大な歓声も上げる。

 武藤主任は出張先でいかんなくその実力を発揮し、当社始まって以来の大きな契約をものにしたらしい。社長曰く、「当社に盆と正月が一度に来る状態」らしいから、万年暇なうちの会社には本当に凄いことを成し遂げたのだろう。

 社長のもちで、会社には大量のアルコールと食べ物が用意され、ほとんど自治会みたいなノリになっている小さな会社の従業員全員で宴会となったのだ。

「お帰りなさい〜!!」

 拍手と歓声を受けて最初はビックリしていた武藤主任もその内に笑み崩れて、部長からマイクを渡された時は、これから繁忙期が来ますから、社員一丸となって頑張りましょう、と上手にスピーチしていた。

 正社員も派遣社員もパート従業員も、女性も男性も皆武藤主任を囲んで笑っていた。

 次々に注がれるビールに主任は目元をほんのりと赤らめている。

 あたしだけが彼の元にはいかず、ただ黙々と料理を片付けていた。タダで晩ご飯、ラッキーと思いながら。

 拍手と笑い声、多分会社始まって以来最大の騒がしさで、宴会は続く。

 氷がなくなったという声が聞こえて、さほど酔ってない上にこの場に馴染んでいないあたしが買い物を引き受ける。

 課長はへらっと笑って酒臭い息で言った。

「ああ、悪いね、白山さん!でもこれだったら役に立てるよね、君でも!」

 ・・・くそ。酔っ払いめ。こんなとこで当てこすりやがって。

 あたしは行ってきますね〜と柔らかく微笑んで、さっさと会社を出る。

 見上げると、満月があった。

 さっきまでが凄まじい喧騒の中だったので、辺鄙なところにある会社を出た途端に耳鳴りが聞こえるかのような静寂が襲ってきた。

 ・・・田舎だわ、ここ。苦笑する。

 カツンカツンとヒールを鳴らしながら、一番近いコンビニまでをたらたらと歩いて行った。

「いらっしゃいませー」

 既に夜の大学生のアルバイトに交代しているコンビニのアルバイト君が気だるく声をかける。下を向いたままで声だけ飛ばすのはいつものことだ。きっとカウンターの中で携帯でもいじっているのだろう。あたしはふらふらと冷凍庫まで歩いていって、ガラス戸を覗き込んだ。

 氷・・・氷っと・・・。あ、はいはい、あれね。

 がちゃんとガラス戸を開けて、冷たくて重いクラッシュアイスの入った袋を取り出そうとする。・・・お、重っ・・・。

 ぐらりとよろけてしまったところを、誰かの手で体を支えられて助かった。

「あ、すみません。どうもありが――――――」

 氷の袋を腕に抱えたまま急いで振り返ったら、至近距離で武藤主任の顔があって驚いた。

「・・・あれ?」

「貸せ」

 あたしの手から袋を奪い取って、そのままドアをバタンと閉める。顔に吹き付けていた冷気が止んで、あたしは改めて主任を見上げた。

「何でここにいるんですか?」

 氷を片手に掴んだまま、ちらりとあたしを見下ろしてレジへ向かいながら主任は言う。

「酔い覚ましだ。来いよ」

 あたしがレジに追いつく前にさっさと会計を済ませてしまった。そのまま店を出ようとする主任をワタワタと追いかける。

 いきなり現れた彼に驚いた心臓が耳の中でうるさくなっている。あたしは顔が熱くなるのを感じながら、急いで久しぶりに見る背中を追いかけた。

 あらら・・・あたしったら、まさかの赤面!?夜でよかった、この暗闇では見えないよね、きっと。

「あの、主任、もちますよ〜」

 足の速い上司に追いつこうと懸命に足を動かす。こんなに急いだこと最近ではないから、明日には筋肉痛かも、とちょっと思った。

 前を行く主任がいきなり立ち止まる。

 へ?あたしはワケが判らずに、とりあえず彼の所まで走っていく。

 くるりと振り向いた主任が、低い声で言った。

「まだ、言われてない」

「は、はい?」

 主任の顔も暗くて表情がよく見えない。でもその声の低さからして、上機嫌ってわけではなさそうだった。

 買い物袋を片手にぶら下げたままで、主任はぶっきらぼうに言った。

「まだ、お帰りなさいとか、お疲れ様でした、とか、おめでとうございます、とか、お前に言われてない」

 ――――――――はあ。

 あたしは瞬きをした。怒ってるのではなくて・・・拗ねてんの、もしかして?確かに、この人が帰社してからあたしは一度も話しかけていなかったな。・・・ええと?言えばいいんすか?

「お、お帰りなさい」

「うん」

 主任が一歩近づく。

「お疲れ様でした」

「・・・うん」

 もう一歩近づく。

「・・・おめでとうございます」

 ぐいっと顎をつかまれて持ち上げられる。そしてそのまま超濃厚なキスを受けてしまった。

「―――――――主、に」

「うるさい」

 話そうとした隙に舌を突っ込まれる。そのまま口の中を探られる。きつく吸われて息が上がる。

「ふっ・・・」

 唾液が顎をい伝って落ちる。あたしは若干パニくったままで突っ立ってキスを受けていた。主任、酔っ払ってるんだよね?それでそれで手近なところにあたしがいたからだよね?!だって、何で何で―――――――もう、桜も散ってしまったのに・・・

 散々に貪られ、あたしの唇が完全に腫れ上がったた思われる頃、やっとあたしを離して武藤主任は命令した。

「白山、お前、このあとすぐ抜け出せ」

「・・・・は、はい?」

 呼吸を整えるのに必死で、あたしは何が何だか判らなかった。でも主任はまた背中を向けてさっさと歩き出してしまう。

 ええーっと・・・?あれ?あたし今、やたらと濃いキスを受けて・・・それで、えーっと??

 主任の久しぶりのキスは、ビールの味がした。

 よく考えたら彼からキスをされたのは初めてだ。

 主任の背中が消えてしまうまで見送ったけど、とりあえず今晩はもう帰れ、と言われたのだな、と解釈してようやく動き出した。

 会社に戻る。

 宴会は既に凄いことになっていて、子供さんがいる主婦パートや派遣さんは帰りつつあるようだった。

 一度主任と目が合うとそれを外へ向けられたから、あたしはすごすごと自席から鞄を取り上げる。

 そして課長のところへ腰を屈めて進んで行き、すみませんがお先に失礼します、と伝えた。上機嫌で飲んでいる課長は、簡単に、おう!と片手を上げると飲食に戻る。

 あたしは他の人には声をかけずに事務所を出た。

「・・・・うーんと」

 ・・・帰って、いい、のかしら。

 ちょっと待ってみたけど何やらよく判らないので、肩をすくめて駅に向かって歩き出す。

 何だよ、もう。

 さっき主任に襲われた道を今度は一人で歩いて行った。

 もうすぐで駅が見えるという場所にきて、後ろから近づいてきたタクシーから叫び声が聞こえた。

「おーい、白山!」

 うん?と思って振り返ると、タクシーの窓から手を振っているのは武藤主任。あたしが唖然として道に立ち止まるとタクシーは目の前に止まり、当然のようにドアが開けられる。

「乗れ」

「え?」

「え、じゃなくて。乗りなさい」

 言い方が上司そのもので、つい従ってしまった。いつもの癖だから仕方がない。

 どうやってあの宴席を抜けてきたのかは知らないが、主任はそのままあたしを連れてホテルへ直行したのだ。




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