@全部まるっと消えてました
その日その瞬間。
人生っていう名の海を泳いでいるんだって日頃から考えている私は、まあ言ってみれば、真っ黒な海底で底が見えない海溝を見つけた気分だったのだ。
なだらかな大陸棚が続いていたのに、それは突然、パカッと口を開けて現れた、そんな感じ。
海溝は大きな口をあけて、下から私を見上げている――――――――――
綾が出て行った。
11月の最後の日曜日で、私の手元には一枚の白い紙。
それには、綾の、細くて踊るようないつもの字がコロコロと並んでいた。塚村凪子様、と一番上に書いてある。
ざっと見たところで『ごめんね』だけは読み取れた。ごめんって何よ。若干寝ぼけた頭でそう思ってから、私はハッと顔を上げて、紙を投げ捨てて部屋の中を疾走する。予感がした、としか言いようがない。階段を駆け上がって2階へのぼり、私の部屋の6畳の和室へと突入した。
さっきまで寝ていたので部屋はまだ暖かく、綾がいつも言う「凪の匂いだ〜」がそこら中に漂っていた。その部屋の端に置いたベッドの上に飛び乗って、私は焦る両手で天井板を一枚ずらす。片手を突っ込んで、キャンパス地のバックを掴もうとして―――――――
「・・・え、あれっ?!」
ない。
ないないないないない。私のバックがない。
一度降りてからベッドの上に枕や毛布を重ねて高くし、もう一度よじ登る。それから、震える手で体をささえて、そっと天井裏に顔を半分入れてみた。
見えるのは、広がる天井裏の暗さと埃だけ。
やっぱりない。どう見てもない。・・・私のバックが、ない!
体から力がぬけて、私はそのままで重ねた毛布や枕の上に落ちてしまう。
「・・・ちょっと・・・ちょっと待って待って・・・」
ごめんって、ごめんってごめんって・・・やっぱりこのこと。強いショックでガンガンと頭が痛み出す。私は涙目を両手で覆って、布団の上に突っ伏した。
同居人の綾は、私が貯めて来たお金を全部持って、出て行ってしまっていた。
ただの家出なんかではなく、実際には、彼女は蒸発していたらしい。
それがハッキリしたのは、彼女が勤めていたインド料理屋へ電話をかけた時。電話の向こうで日本に来て長いインド人の店長さんが、うんざりした、って感情がしみじみと出ている声で言ったのだ。コックも一人居なくなっているらしい。私はその居なくなったコックの名前も知っている。だって、綾の彼氏なのを知っているからだ。
彼だって何度も家にきたことがある。いつもスパイスの香りを漂わせていて、浅黒い肌に白い歯をみせて笑い、美味しいご飯を作ってくれたりもしたのだ。片言の日本語でよくおどけていた、綾とお似合いの可愛い男の人。現在彼氏のいない私をいれて3人で、それぞれの誕生日をお祝いしたりもしたのに。
二人は、駆け落ちしてしまったらしい。
店は急にコックとウェイトレスが消えて困っているらしい。しかも彼らは店の昨日の売り上げ分も持ち逃げしたらしい。とりあえず警察には電話したけど、と店長が話すのを私は呆然として聞いていた。
綾ったら・・・。一体何してんのよ。
電話を切って、床にぺたりと座り込んだままで、私は呆然と部屋の中を見回す。
水谷綾は以前の会社で一緒に働いていた女の子だった。彼女の方が一つ年上で、同じ派遣社員であることから話すようになり、気があったのでどんどん仲良くなっていった。
彼女には両親がもういないこと、私も実家に戻る予定はないこと、二人とも当時一人で住んでいた狭くて家具の配置が難しい部屋から脱出したかったこと、丁度タイミングよく、予算内で小さなタウンハウスが見付かったこと、などが重なって、二人は一緒に住むようになったのだ。それが3年前の夏のこと。
12畳のLDKと水回りが一階で、急な階段を上がった二階に6畳の和室が二つ。二人には丁度よくて、今は違う仕事をしている都合上時間はあまりあわなかったけれど、楽しく暮らしていたのだ。
なのに。
なのに〜!
金融系に派遣で行くことが多い私が不信感から銀行にはお金を預けずに所謂箪笥貯金をしていることは、綾は知っていた。少ない給料の中から、それでも毎月1、2万は貯金していたこと。10万になればくるりと丸めて輪ゴムでくくり、キャンパス地のバックに突っ込んでいく。それを一人暮らしをしていた頃から毎月やっていたのだ。お酒を飲んだ夜や将来のこと、抱いている夢なんかを話しあう時などに、口にしたことがあった。
綾はいつも、凪はえらいねえ!って目を大きく見開いて、ニコニコしていた。あたしも真似しなきゃねって。そうよね、銀行に預けたら自分のお金を動かすだけなのに手数料も取られるもんねえ!それってバカらしいよね、って。
それをどこに隠してあるかは勿論言ってない。だけど、私の留守中に綾は家捜ししたのだろう。ここ数日、私は天井裏を開けてないからそれがいつのことかは判らない。だけどとにかく、綾は全部持って行ってしまった。全部、ぜーんぶ。
一階のダイニングでテーブルにつき、私は震える手で、もう一度、綾の書置きを見る。
『塚村凪子様。 急にこうすることになったこと、ごめんね。本当にごめんね。でも戻って来て、いつか必ず返すから。理由はあるけど言わないことにする。体には気をつけて、風邪を引かないようにしてね。 綾』
私は紙を置いて、DKに面している大きな窓の外を見た。
雪は降ってないけれど、今日もキッパリと寒そうな冬の光景だった。空は高くて透き通り、上空では強い風が吹いているのだろう。葉っぱの一枚もない木々は揺れて、寒さに震えているように見える。真っ直ぐに太陽の光が落ちてきて隣の家の裏手に停められた赤い自転車を輝かせていた。
・・・私の、5年間の汗と涙の結晶の、102万円・・・。
ごめんね、だと?
あのヤロー。
2、3日、私はぼーっとしていた。というより、呆然としていたって言うほうがいいかもしれない。最初のショックは物凄いものがあったけれど、それ以後の毎日、ふとした瞬間にじわじわくるのだ。
綾が居ないってことが。
仕事が終わって帰ってきた家が、真っ暗だったり、しんしんと冷え込んでいたり。夕食を一人分には多く作ってしまったり。お風呂のお湯が冷めないように追い炊きをセットしてしまったりした時に、ハッとする。
この家に一人だってことが、脳みその大部分でイマイチ理解出来ていないようだった。
私のお金を全部持って逃げた綾には、勿論腹を立てていた。インド料理屋の店長さんが、あなたも被害者なんだから、警察に話すべきですよと忠告してくれたのを、真剣に考えもした。
だけど綾の、いつも着ていた明るい更紗の服や、赤や黄色の明るいショールが部屋の中にいないことに慣れないのだ。怒っていて、それと同時に私は、めちゃくちゃ悲しんでもいた。
あの明るい笑い声がない。ケラケラと軽い口調で大きな口をあけて笑う彼女がいない。下らないことをブツブツ言う相手がいない。そんなことが、えらく堪えていた。
お金と同時に、私は大切な同居人も失ってしまったのだ。
家族よりも近かった人を。
「塚村さーん、塚村さんってば!おーい!」
「へ!?はいっ?」
ハッとして私は周囲を見回す。
昼休みの社員食堂で、またもや私はぼうっとしてしまっていたようだった。適当に選んだランチセットを前にして。
長テーブルの向こう側で、同じ派遣会社から来ている同僚の、菊池さんが心配そうな顔で覗き込んでいる。
「大丈夫〜?何か最近、えらくぼーっとしてない?」
ここ、いい?と前に座りながら、菊池さんは首を傾げる。私はあははは、と乾いた笑い声を上げる。
「うん、ちょっと・・・プライベートで色々あったもんで。つい考えこんじゃって」
「そうなんだ?何か大変なの?あ、もしかして誰か新しく好きな人が出来たとかー?」
菊池さんはそう言って、目をきらりと光らせた。そういえば元彼と別れたときに、菊池さんにその話をしていたのだったな、と思い出す。あれは去年の夏のことで、菊池さんは私に自分の恋話をするたびに塚村さんも新しい彼氏を作るべきだって拳を振り上げていたんだっけ。
私はいやいやと首を振る。
「全然色っぽい話じゃないのよ・・・。あのさ、私が一緒に住んでた子、菊池さん覚えてる?」
「あ、綾さん?うん勿論。夏のバーベキューは楽しかったよね、今年もまたやろうよ」
ニコニコしてそう言って、菊池さんはコップの水を飲む。そういえば今年の夏、菊池さんやもう二人の女友達を呼んで家でパーティーをしたのだった。私はその楽しい記憶を思い出してドーンと落ち込みながら、暗い声で言った。
「実はね、綾が蒸発したの」
「―――――え!?」
「男と一緒に、逃亡」
「ええっ!??えー、ちょっとビックリ〜。男って・・・あの、インド人の彼氏!?」
つい大声をあげてしまって、そのことに気がついて口元を押さえながら、菊池さんは身を乗り出した。
「そう」
「どこに!?」
「それが判れば苦労しないの。何と彼女、私の箪笥貯金を持ち逃げしたからね」
「ええーっ!?」
また菊池さんが叫んだ。周囲のテーブルで食べている人達が、ちらちらと視線を投げかけてくるのがわかった。だけどこれはそりゃ驚くでしょ。私はもうどうでもいい気持ちだったので、ランチプレートから春巻きをとって口に突っ込んだ。
「それって大変じゃなーい!警察には連絡したの?」
「勤め先のインド料理屋の店長がしたって言ってた。何と売り上げも持ち逃げされたらしくて」
「あらー!」
菊池さんは目をまんまるく開けて私を凝視している。いつもなら昼食中はそろそろ結婚が近いはずの彼氏の話をガンガンしてくるのだけれど、流石に今日はそんな気はなくなったらしい。
「本当まさかの出来事だね!何で蒸発なんだろう?例えばお金が困ってたとしても普通に色々あるじゃない?借りるとかさ、ローン組むとか。日本なんだから」
「そうよね〜・・・。とにかく、人の貯金盗む前に相談して欲しかったな。必要なことなら、私だって貸したのに」
「そうだよね!でもえっと・・・じゃあ塚村さん大変じゃない!?お金って大丈夫なの?盗まれちゃって、生活は出来る?」
「あ、それは大丈夫。持ち逃げされたのは貯金分だけで、給料口座に1ヶ月分くらいはあるから。でもだからね・・・ガックリ来ちゃって。色々と。これからのことも不安だし」
「そりゃそうだよねえ〜・・・あらら〜。ほんと大変じゃない。家賃だって二人分払わなきゃならなくなるのよね?そりゃあ茫然自失も当然よね」
うんうんと頷く菊池さんを見ていると、心の隅っこに不安が広がってきたのが判った。
・・・・・そうだよね、私、よく考えたら、来月からもう困るじゃん。
今の一軒家の家賃は、綾と折半していたのだ。築52年の古い家で人が住まないと更に傷むから、という理由で都会に住むオーナーさんが格安で貸してくれている賃貸物件とはいえ、それでも一人で支払うとなると結構な重荷だ。一人4万5千円、それに光熱費を足してそれぞれが6万づつ。毎月それを出して、二人で暮らしていたのだ。
派遣で働く私には余裕なお金なんてない。時給1300円で働く上に今の会社は残業が一切ないのだ。つまり、一月に稼げる金額は決まっている。
・・・ガーン!!!
目が覚めたようだった。
そうだ。来月分くらいは払えるって思ってたけど、その前に確かクレジットカードの引き落としがあったんじゃない!?それに水道代の引き落としも・・・。あらら?お金、足りるのかな。
怒りとか、寂しさとか、そんなものはとりあえず後回しにしなきゃならないんじゃないっ!?私は食欲がなくなって、ランチプレートをぐいっと押しやった。心配そうに見詰める菊池さんの視線も鬱陶しくて、席を立つ。
「ちょっと行くところあるから、ごめんね」
そう言い捨てると私はダッシュで食堂を後にした。
今、自分の口座にいくらあるのかを確かめたかったのだ。あと10日ほどでくるはずの家賃の引き落とし。その前にクレジット代が落ちてしまう。綾がいなくたってあの貯金があれば、当分は凌げたはずだ。だけどそれはもうないし、よく考えたら今の家からの引越し資金すらないってことなのだ!
ちくしょ〜うっ!!
人目も気にせず会社の制服のままで走る私は、きっと涙目だった。だけどそれも仕方ないよね。そして、飛び込んだ取引銀行のATMで吐き出された小さな紙に書いてあった口座残高は、それをもっとしっかりした涙に変えるのに十分な金額だった。
本当に、どうにかしなければならない。
一日中そう思いつめて、相談に乗るよ?と晩ご飯に誘ってくれた菊池さんに断りをつげ、午後6時、私は家へと戻ってきた。
頭の中は、家賃の二文字。
正直ショックが強くてお腹も空いてないから、夕食は作らずに済む。とりあえずとコートを脱ぎ、暖房のスイッチをいれて、やかんに水をいれた。コーヒーでも作って、本腰いれてこれからのことを考えようと思ったのだ。
ガスをつけたところで、玄関のチャイムが鳴る。
小さな家だから10歩くらいで玄関につく。もし新聞の勧誘だったら、断りついでにこのモヤモヤした気持ちをぶつけてやる、そう思いながら、私は語気荒くドア越しに叫んだ。
「はーい!?」
すると聞こえてきたのは、落ち着いた、低めの声。
「こんばんは、すみません。水谷です。――――――水谷綾の、弟です」
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