・ビネガー・
夏になると、どんどん上がっていく周囲の気温に半比例するように、オギの体温は下がって行く。
ちょっとずつ冷えていって、指先まで真っ青に染まるような感覚に陥るときがあるのだ。
そういう時、オギは一人で呟いて腕をさする。
寒い、温まらないと私、凍えてしまうわね、って。
彼女は外へ出て行く。
夏の明るくて強烈な白い光りは容赦なく彼女を照らしつける。だのに、オギの体はますます冷えていくようなのだった。
彼が、足りないんだ。彼女はわかっていた。だってもう何日も、あの男の人の笑顔を見ていないんだもの。それでこんなに寒いんだって。
汗なんか一つも出ないままで、オギは散歩を終えて自分の部屋へと戻る。さあ、今日の晩ご飯はどうしましょうか、そう言ってみて、自分一人の為にわざわざキッチンに立って食材をこねくり回すなんて、バカらしいと思ってしまうのだ。
あーあ、やめた〜って彼女は包丁を手から離す。
どうせ冷蔵庫には大したものはないのだし。
あーあ。オギはソファーの上に猫のように丸まる。膝を抱えて、クッションにうずくまるように顔を押し込んだ。
ここには、彼の匂いが染み付いている。
だから、オギはソファーの上にいる時は微笑んでいる。安心しきった笑顔で、とろりとした時間をゆっくりと過ごすことが出来る。
そして十分ごろごろとした後、立ち上がってまたキッチンに向かう。
この香りをつくらなくっちゃ、そう呟いて。そうしたら、私の体は温まるのだわ、彼女はそれを知っていた。
オギは冷凍庫からフライドポテトの袋を取り出して、油を過熱し始めた。これを揚げたら──────たっぷりのビネガーをかけるのだ。
彼女はもう一生懸命に、ポテトを揚げることに専念している。
オギとは、彼女のあだ名だ。
美術系の専門学生であるオギは、性が荻原と言った。だから友達は皆オギと呼ぶ。生まれつきの柔らかくて長いクセ毛をなびかせながら彼女が歩いていると、おーい、オギ!と色んなところから声が掛かる。
彼女は明るい社交性を身に着けていたので、その声に一々笑顔で反応する。たまには手を振って。
元気?今からランチなの?私は遠慮しとくわ、帰ってちょっと眠りたいの、そう言って、オギはスタスタと歩いていく。
彼女はいつでも緑色の長いスカートをはいているので、そのスカートを風が揺らして白くて引き締まった足首が見えると、男の子達は眩しそうな顔をするのだ。
彼女、いいよな。そう話しあう。猫みたいだと思わないか?あの大きな目、いいよなって。だけどダメだぜ、あの子は身持ちが固いんだ。誰にでも優しくて明るいけど、心は見せないって聞いたことがあるぞ。
そうなのか?俺ちょっとモーションかけようと思ってたんだけど、無理かなあ。やめとけよ、見向きもされないよ。
男友達にそう言って止められた男の子は、ちょっとむくれて鼻をならす。それからプライドを傷つけられて機嫌が悪い声で言う。まあ、あの子は変わってるしな、って。そして更に笑われる羽目になるのだ。
お前、オギのことなーんにも知らないんだなあ!って。
彼女はずっと好きな男がいるんだよ。皆知ってるよ。それで、手を出さないんだよ。あの笑顔をみちゃったらなあ〜って。
好きな男?片思いなわけ?
いやいや、違うよ。でも相手は社会人なんだってよ。俺らみたいなお子様では無理なんだよ。
そういう男の子は、でもあっけらかんと笑っている。卑屈そうな影はちっとも見えない。それは、ちゃんと知っているからだった。彼女の彼といる時の微笑みを。
オギはそんなことを言われているとは知らずに学校を出て、駅前に向かっている。
今日は彼に会えるかもしれない。そう思って、待っていることにしたのだ。
改札口が見える場所に立って、駅前の人ごみを眺めている。
オギはこの時間も好きだった。
次の電車に彼が乗っているかもしれない。そう思ってワクワクして改札口を眺める。あ、残念、乗ってなかったのね。特にガッカリしたりはしない。彼女はそんな時、ひょいと肩をすくめる。
気晴らしに小さな花屋で安いブーケを買う時もある。
彼が駅から出てきたとき、こっそりと近づいて、いきなり鼻先にこのブーケを突き出したら、一体どんな反応をするだろうか。そんなことを考えて一人で笑っている。
オギの彼は、社会人だ。毎日スーツを着て、会社に出勤する。夜も遅くなることが多いらしい。たまに、彼女の待ち伏せにあって、一緒に手をつないでオギの部屋に帰ることもあるし、今晩は無理なんだ、そう言って悲しそうな顔をする時もある。
オギは楽天家だったので、一緒に帰れないことは残念に思うけれども、別に拗ねたりしなかった。
そんな時間が勿体ないのだ。それよりは彼の横顔を見ていたいと思うのだ。それに、私には匂いがあるんだから。大丈夫だって、彼女は思っていた。
彼女の毎日は、明るくても淡々としていて、少しばかり退屈だった。
そんな時に出会った社会人の彼は、くしゃっと笑う顔が素敵だと思ったのだった。その朝の彼は定期券が切れていて、改札に拒否されて困っていた。財布には万札しかなかったらしく、万札が使える切符の販売機には何故か長蛇の列が出来ていたのだ。
朝から時間が余ってしまって暇だったオギは、それをじーっと見ていた。そしてふわりと彼に近づいて、券売機の列にうんざりした顔で並ぶ彼に、白くて細い手を差し出した。
彼が驚いて彼女を見下ろすと、オギは言った。
見てたんです。小銭がなくて困っているように見えたから。これ、どうぞ。そういって彼女は500円玉を彼に見せた。
彼は全くすすまない列の一番前をチラリとみて、それからオギに向き直った。
ありがとうございます。助かります、本当に。
彼は切符を買って、改札を通る。一度振り返ったら、オギが白い手をヒラヒラと振っていた。彼はその時のオギの笑顔が、その日一日中残っていた。
彼に出会ってから、オギの明るくて退屈な日々は少し変わっていった。
そこには、夕暮れに知らない町で迷ってしまった子供のような、心細い、だけどもまだ大丈夫だという根拠のない自信、そのようなものがあった。
そんな揺れる感情はオギの中で生まれて、彼と会うたびに大きくなるようだった。それからは、彼と会わない間、彼女の体は冷えていくのだ。
心臓から遠い場所、そこがひんやりしてくると、彼女は、ああ、とため息を零す。
彼が足りてないんだわ、って。ベランダにでて、空を見上げてぼんやりしたりする。
彼女が暇な日中も、彼は社会人だから忙しいのだ。そんな距離を思って、オギはぼんやりするのだ。髪をくるくると指にまきつけて彼のことを思う。
そうやって、退屈なのは変わらないけど明るいばかりではなくなった午後を過ごしていく。
彼はオギを後ろから包むのが好きだ。彼女の長い髪に唇をあてて、自分の匂いと彼女の匂いを混ぜるのも好きだ。
だから彼女の部屋にくると、彼はいつでも彼女の後ろにいる。
大きくてガッチリとした腕で彼女を包んで、機嫌よさそうにしている。
オギはちょっと邪魔ねえ、などと言いながら、それでも嬉しそうな顔をして色んなことをする。
きゅうりを竹輪に突っ込んで切り、それを後ろの彼に食べさせたり。
フライドポテトを大量に揚げて、それにたっぷりとビネガーを振り掛けたりする。
彼は最初驚いていた。フライドポテトにビネガー?って。塩じゃなくて?ケチャップでもなくて?
オギは笑う。私はこれが好きなの。うちのママのやり方なのよ。最初は驚くけれど、あなたも好きになるわ、きっとね。ならなくても、私はこのやり方は変えないけれど。
彼はしぶしぶ、ビネガーがたくさん振りかけられたポテトを口に運ぶ。ツーンとした匂いと味に、一瞬眉を顰める。
だけど、気がついたらもう一本口に運んでいた。
そしてもう一本。
彼の中で、この時以来、ポテトにはビネガーになった。
これは、オギの味なのだ。
彼女の色に染まる自分が、何だか誇らしく思えたからだった。
今日もオギは暇だったので、駅前で彼を待っている。
風が彼女の髪を揺らし、彼女の鼻歌を飛ばしていく。長い緑色のスカートが足元でパタパタと音をたてている。
帰ってくるのが早い日だと、彼がもうすぐ現れるはずだ。
オギの瞳が自然に優しい色を浮かべる。
彼女は、今晩彼が来てくれたなら、またソファーで一緒に眠れるわ、そう思って喜んでいる。
あのソファーは、オギが作ったフライドポテトとビネガーの匂いがするのだ。彼がいつも指で食べたあと、そのソファーで彼女を抱くからだ。油の匂いと酢の匂い。それを嗅ぐと、オギの体は勝手に反応して熱くなってくる。
そして彼を迎える準備を始めるのだ。彼女の体の色んなところが、温かく潤いだす。瞳も肌も輝きだして、睫毛が細かく震えたりする。
風が彼女の髪をまた揺らした。
オギは顔をあげる。
そして、改札から出てくる彼を、見つけた。
「ビネガー」終わり。
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