・カフェの恋・


 木枯らしが吹くようになった冷たいブルー一色のビジネス街の一角。

 そこだけは沢山の色が繁殖しているようにみえる賑やかで素敵なカフェが、私のこの街での居場所だった。

 オーナーの好みだろう、アンティークのテーブルや陶器の食器。さり気なく飾られた生花やドライフラワーの花束。それから太い蝋燭が色んな場所に置かれている。その雑多な、でもセピア調でまとまった店内は、完全に私の心を落ち着かせるのだ。

 だから、ここのカフェで、私はいつも色んなことをする。

 企画書の作成、会議中にとったメモの確認、それから読書に、友達へのバースデーカード作り。それに、勿論ただぼーっとするだけの時だってある。

 アンティーク調を好む、というのが大変良く判るこのカフェのマスターが淹れる、カプチーノも好きだった。たまにあるキッシュも。ホウレンソウのキッシュを口に入れながらぼーっと見る、ビジネス街の風景は特別なのだ。

 私は、居心地のよい場所で守られているって思えるから。

 外の冷たい風や厳しい現実も、ここには入ってこれないって思うから。

 寒い夕方にはカプチーノではなくてホットワインを注文し、チョコレートと一緒に味わっては一人でゆるゆるととろけていく。

 それも特別な時間だった。

 だけど。

 私は静かに、誰にもばれないように深呼吸をして、椅子に深く座りなおした。

 この、私のお気に入りのカフェで、つい最近、気になる人が出来てしまったのだ。

 前から存在は知っていた。つまり、相手もこのお店の常連さんだったから、顔を知っていた、という意味。確実ではないが、あっちも私の存在は知っていると思う。同じ温度で。この店によく来ている人だ、くらいの感じで。

 ある日、たまたまテーブルが隣同士になったのだ。

 そしてその日の会議でつるし上げにあって半泣きになっていた私は、最低の気分でその椅子にドスンと座った。その時に腰がテーブルにあたってしまい、ガラスコップの中のレモン水が少しはねてしまったのだ。

「あ」

 私は急いで手を伸ばし、揺れるコップをしっかりと掴んだ。ああ、何てこと!私ったら・・・。コップは倒れはしなかった。だけど、水が飛び散ってしまったかも────────

 そう思って、隣のテーブルの人に謝ったのだ。すみません、水、飛ばなかったですか、って。

「大丈夫、です。どこも濡れてませんから」

 その低い声が、するりと耳の中に入ってきた。

 私は一瞬瞬きを忘れて隣のテーブルに座る男性を凝視してしまった。

 ・・・あら、いいお声。

 そして、何と言うか、可愛らしい姿・・・。

 隣のテーブルに座ってノートパソコンを開いている男性は私が気にしないようにと気を遣っているような表情で、こちらを見ていた。

 先っぽに向かって茶色に染まっている髪は耳を覆うほどの長さ。銀縁の細いフレーム眼鏡をかけていて、黒いシャツを着ていた。瞳は大きめで、薄い唇を綺麗にお月様の形に上げている。

 童顔なのを色んな小物で年相応に見せている、そんな感じだなとその時は思った。

 とにかく結構不躾な視線を投げていたと気がついて、私は急いで目をそらして頭を下げる。それからドキドキ煩い鼓動を無視して何とか椅子に深く腰を落ち着けた。

 ・・・う、結構・・・格好いい人だったんだわ。この常連さん。初めてじっくり見たけど、可愛い外見に低い声のアンバランスが何かぐ〜っと来た・・・。

 心の中でそう一人ごちて、私は顔を赤くする。

 うわ〜・・・いきなり、何か自我が跳んで行っちゃった感じ。どうしましょ、どうしたらいいの。

 更に声をかけるべきか、いや、そのままにしておくかで頭を高速で回転させる。だけどもう目をそらしてしまった後だし、これ以上なんて言えばいいの!ちょっと待って、落ち着くんだ〜私!お仕事ですか?って聞いてみる?いやいやいや、だけど、はい、と返事を終わらされたらそれはそれですんごく落ち込みそうだし・・・。

 一人で悶々と座席に固まっていると、隣の男性はカタンと音をたててノートパソコンを閉じた。

「・・・今夜から、寒くなりそうですね」

「え?」

 私に話しかけた?そう思ってから、くるんと相手を振り返る。すると相手は鞄に荷物を仕舞いながら、少しだけ頷いた。そう、あなただよ、そう聞こえたような気がして更に緊張する。

 え、っと・・・。ええと!?なんて答えたらいいの、落ち着いて、私〜!!

 ワタワタしているだけで言葉を出せないでいると、その間に相手は支度を終えてしまった。立ち上がる彼はもうすでに私を見ていない。だけど、ここでようやく行動が思考に追いついたのだ。

「そ、そうですね!そろそろ木枯らしだってテレビで言ってました!」

 しまった、声が上ずった。

 それに、ちょっと大きい声だわよ、私。

 だけれども、私が一人で真っ赤になる直前、彼はもう一度振り返ってこういったのだ。温かい飲み物が美味しいですね、って。それから会釈をしてレジへと行ってしまう。

 蔦やアイビーが盛りだくさんの店内を彼のグレーのピーコートの背中を見詰めて追いかけてしまった。

 ・・・温かい飲み物が、美味しいですね。

「そう、ですね」

 私が出した声は小さくて小さくて、彼に届かないままで空中で消えてしまった。

 だけど彼が出て行った店内で、いきなり明りが大きくなったように見えた。キラキラとした光が店内に撒き散らされ、私の周りで煌いているように。

 まだ何も飲んでいないのに体が一瞬で温まり、顔は上気して足が踊りだしそうだった。

 ・・・知らない人なのに、口をきいて・・・。しかも、それをすごく喜んでるわ、私。

 マスターがこっちを見ている。私は曖昧な笑顔でホットココア下さい、と言った。

 既に体は温かかった。だけど、更に甘い何かが欲しかったのだ。とろりとした淡いピンク色がひたひたと押し寄せる、この心に甘い飲み物が。

 会社で受けたイライラは、どこかに飛んでしまっていた。



 その日から、彼は私の「気になる人」になってしまったのだ。

 カフェに通うのはあまりにも当たり前の日常になってしまっていたのに、彼が居るかもしれないからと服装や髪型や化粧を気にするようになった。それに、姿を求めて店に居る間そわそわと落ち着かなかったり、いたらいたでそっちの方は絶対に見ることが出来ずに姿勢が不自然で首が凝る、というような。

 ああ、何てことよ私。これでは中学生の恋愛だわ!そんなことを自分に思ったりもした。

 だけど、どうすればいいのか判らないのだ。もう口を利く機会もないし、偶然隣の席を狙うには恥かしくて自分から避けてしまっていることを自覚している。あううう〜。

 初めて彼と話し、その印象を甘く変えたあの日から、そんなことをしたままで新しい年を迎えてしまった。

 年末年始を過ごすのは都会から遠く離れた実家で、私はカフェにいけないまま。もう、ダメな自分ったら、と思うだけで終わってしまっていたのだ。だけど、その休憩時間は私に落ち着きをもたらした。だって彼の姿がみえないのだもの。落ち着かざるを得ないよね。

 次にカフェにいったら、そして彼を見かけたら・・・。彼の隣へ座ろう。そして話しかけてみよう。私はそう決心した。自分から、話しかけてみようって。まだ彼がいくつなのか、それに彼女や妻がいるのかすら私は知らないのだ。だから、だから・・・。

 自分から、話しかけよう。


 1月の空気は澄んでいる。その凛とした冷たい空気の中、いつものように会社から直行で私はあのカフェにきた。

 カランと、鈴のなる音がして、ふわっと温かい空気に包まれる。寒くてブルーなオフィス街から入るここは、いつでも入口からすでに天国だ。自動的に笑顔になった。

「いらっしゃいませ」

 マスターが、いつもの笑顔で迎えてくれる。2週間ほどきてなかったから、私はそれだけで心弾む思いだった。

「あけましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しく」

 笑いながらそう頭を下げて、今日はテーブルでなくカウンターに座った。ちらりと見ただけでもカフェの店内にある小さなテーブル席は全部埋まっていたのが判ったからだった。マスターはニコニコとして注文を待っている。私は温かいおしぼりで両手を温めながら、カプチーノを注文する。

 それから、ゆっくりと店内を見回したのだ。

 蔦やアイビーが絡まる壁、それから板の床、アンティークの家具がそこかしらに置かれている店内を。コートを脱ぐついてにぐるりと体を捻って、見回した。

 あの人は・・・いない。

 心の中にちょっとしたガッカリ感が広がる。だけど、私は小さく苦笑したのだ。

 気持ちも落ち着いたわ。ここで今日会えなかったら、もうこの気持ちはなかったことにしようかな、って。

 ここに来る前に会社の更衣室で鮮やかな色の口紅をひきながら、そう思っていたのだった。

 いいじゃない、恋がなくったって。私はこの店が大好きだし、それだけで十分じゃない?って。

 大体あの人に話しかけてこの淡くて脆い恋が破れたら、私はこの店にいけなくなるかもしれない。それはまさしく悲劇に違いない。ならば、元々この気持ちを抱えたままで生きていくって選択肢もあるわよね─────・・・

 彼がいない、その事実で肩の力が解れ、私は芯から落ち着いて嬉しい気持ちで椅子に座る。カウンターに並べられたスコーンの大皿、それから飴やポッキーなんかが入った瓶。可愛い、ここの空間が本当に好きだ、そう思ってニコニコしていた。

 その時マスターが、どうぞ、と前からカプチーノをサーブしてくれる。そしてそのついでのように、ポンと言葉を落としたのだ。

「誰かを探しているんですか?」

 って。

 私はちょっとどきりとしたけれど、何てことないかのように首を振った。いえ、そんなことないです、って。するとマスターは更に微笑みを大きくして、続けて言った。

「待ってましたよ、あなたを」

「え?」

 私はきょとんとしてマスターを見詰める。一体何だろう、いきなり。待ってた、私を?誰が?

「すみません、マスター。何の話ですか?」

 口ひげを蓄えたマスターは、目を細めて優しい顔をした。それから小声で、続ける。

「いつもここに来てくれる男性がね、あなたのこと、待ってましたよ。眼鏡の・・・わかりますか?」

 え。

 私はびっくりして目を見開く。眼鏡。男性。・・・って、もしかしてもしかしてもしかすると、彼!??

「あの・・・」

 恐る恐る、私は声を出す。混乱していた。多分、あの人だろうけど、一体どうして私を待っていたというのだろう。あれ、何かしたっけ?それとも、落し物とか?いや、だって──────────

 混乱した顔の私にまた笑いかけ、マスターは優しく言う。本人に聞いてみてください、いらっしゃいましたから、って。

 来た?本人が?

 私は振り返る。狭い椅子の上で、コートが押されて落ちかけた。

 それを片手で掴み取って。

 あの人が、立っていた。

 すぐ、斜め後ろに。

 私はぽかんと口を開けたままで、彼を見上げる。

「───────酷いですよ、マスター。先に言ってしまうなんて」

 彼は多少顔を赤くしているようだった。私とは目をあわさずに、マスターを膨れたように睨んでいる。

「すみませんね。年寄りのお節介で。アメリカンですか?」

 はい、と頷く彼に会釈をして、マスターはカウンターの中で仕事を始める。

 私は椅子の上で上半身を捻ったままで固まっていた。

 彼だった。ちょっと茶髪で、銀フレームの眼鏡。気になっていた、あの人─────────

 ここ、いいですか、と隣の席を指差して彼が聞く。私はぼーっと頷きながら、その時ようやく私のコートを持ってくれているってことに気がついた。

「あ、すみません!ありがとう、ございます・・・」

 照れる。言葉が最後とても小さくなってしまった。

 いいえ、と言葉を返して彼も座る。それから、私の方はちっとも見ずにぼそっと呟いた。

「お久しぶりですね」

 え?私に言ってる?彼の視線はまっすぐ前を向いているから一瞬悩んだけれど、でもマスターも反応してないし、他にカウンターには私以外にいないよね?と思って声を出した。

「あの、はい、ええと・・・そうなんです。年末年始で、実家に戻ってましたから」

 はい、だけでは愛想がないよねと一生懸命話す。相手が真っ直ぐ前を見ているので、何だか私だけ凝視しているのが居心地が悪い。

 そうですか、と返して彼は黙ってしまう。現れたのはいきなりの固まった空間。さっきまでの、温かい空気の中で素敵な店内が醸し出す雰囲気によって幸せだった私はどこへ?と思うほどに居心地の悪い空間になってしまった。

 ・・・ど、どうしよう。

 私は俯いて黙る。私を待ってたってこの人よね?でもって、彼はあの彼よね?うんうん、そこは間違いない。でもこんなに心地悪い雰囲気だったっけ?

 折角隣に座ってくれたけれど。

 こんなのじゃ、話なんて出来ない・・・。

 その時、そもそも今のタイミングを作ってしまったマスターが、彼のアメリカンをもって戻ってきた。

 そしてあはははと軽く笑う。私はその軽くて明るい声に救われるような気持ちでパッと顔を上げた。

「全くお二人とも、何て顔してるんですか。まるで中学生ですよ!」

 ・・・やっぱりそう見えるのか。私は自分でもそんな感じだと思っていたことを思い出して、つい苦笑してしまった。すると隣からも失笑が聞こえる。彼も、自分でおかしいと思ったらしい。

「だってマスターが先に言ってしまうから。・・・もう」

 そう言って、隣の彼は深呼吸をした。それから様子を窺っている私の方へ体を向ける。それが素早くて、私は一瞬で緊張してしまった。

 思わず目を見開いて彼を見る。銀色の薄いフレームの向こう側、目をこちらに向けて、顔を赤くしたままで彼が言った。

「気になってしまってて。それで、つい姿を探してました。そうしたらマスターにバレてからかわれたんです。すみません、いきなりこんなこと言って」

 勿論私はビックリした。目の前の気になる人から、私の気持ちそのままを言われてしまったからだった。

「あの・・・」

 言葉が続かなかった。だけど、心の中では喋っていたのだ。ベラベラと。私もあなたが気になっていたんです、姿を探して嬉しかったり残念がったりしてました、でも今日会えて───────

 心の中でいくら喋っても、実際には無言のままで固まる私。彼は顔を更に赤くして視線を外す。

 あ、あ、どうしよう。彼が困ってる─────

 あははは、とまた、前からマスターの軽い笑い声がした。

「気を利かせて消えたいところですけど、ここが私の定位置なんですみませんね。でもこの方も同じはずですよ」

「え?」

 顔を赤くしたままで彼がマスターを見る。私も同じく赤面したままでカウンターに向き直った。

 マスターは、ニッコリと笑った。

「この方も、あなたを探してるな、って。ここから見てればすごくよく判りましたから」

「!」

 私は大いに赤面する。思わず両手で顔を覆った。ちょっとちょっとマスター!!何てこと言うのよ〜!

 確かに確かにそうだけど、そんなに判りやすかったとは思いたくない。本人の前でなんてこと!

 一瞬でその場は気温が上昇したに違いない。ニコニコと笑うマスターの前、カウンターの男女はお互いにとても緊張した状態で座っていた。

 真冬のビジネス街の一角、古き良きヨーロッパの佇まいの素敵なカフェで。

 全く二人とも純情ですねえ、そう言って笑うマスターを前に、カウンターに彼と並んで座っている。

 私達は二人とも照れて顔どころか全身が真っ赤、体温は確実に上昇中でホカホカだった。

 並んだアメリカンとカプチーノが冷めていく。だけど、それにも気がつかずにそろそろと顔を見合わせ、お互いにちゃんとした会話をしだしたのは結構あとになってからだった。

 柔らかそうな彼の、先っぽが茶色に光る髪。それが本当に柔らかいこと。それから眼鏡の向こう側の瞳が、少しばかりブルーがかっていることを知る。

 私達は夢中になって情報を交換し、笑顔を見せあった。

 新しい宝箱を発見した子供みたいに。

 前では、マスターが楽しそうに笑っていた。

 


・「カフェの恋」終わり。

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